一瀉千里の奔流となり得る日(9)

「そうではないもの」をくぐりぬける。
「個・種・類」をめぐる、一種の「場所的弁証法」であるところの、田邊元の「種の論理」を解説した、中沢新一氏の2001年の著作、『フィロソフィア・ヤポニカ』は、同じ年に開始された講義『カイエ・ソヴァージュ』と同様、思索のあいまいで未整理な部分を残しているものの、個人、共同体、国家、資本主義、社会主義、グローバリズムの問題を考える上で、示唆に富む思考の枠組みを提示してくれている。

「種的基体」を土台から腐食させ、解体していく「資本主義による自由主義」に対する危機感から発生した、さまざまなタイプの社会主義を目指す運動の試みが、国家の非合理性に直面したときに、ほとんどすべて手ひどい失敗にまみれようとしていた。そうした試みのほとんどが、「種的基体」を解体に導いていく近代の現象に対抗するために、「土地と血」の民族的共同体の称揚に走り込み、自主自律的な「個」の活動との媒介を失った「民族=国家」主義の非合理に落ち込んでいたのである。国家は、もともと「イデア=理念」性をもった存在なのだ。それが理性的であるためには、自主自由な「個」による実践的理性が媒介となって働いていなければならない。この点において、二十世紀の社会主義の試みは、すべてが失敗に帰するだろう。そこには「種の論理」が欠如しているからである。

しかし、資本主義によって運動する近代社会の危機が、そうしたもろもろの社会主義の試みの失敗によって救われることも、またありえない。資本主義は多様性としての「種的基体」の平準化を推し進めようとする。「種」はカオスであり、多様体であり、非合理な「分有の論理」の支配する力場であり、「野生の思考」であり、共同体の知恵の集積体であり、陰影であり、テリトリー化であり、純粋な差異なのだ。現実の世界を構成するものも、無意識の領域にうごめいているものも、内包も、外延も、いっさいを貨幣の水路に流し込んで行こうとする資本主義にとって、「種」が多様体のなりたちをしていること自体が、立ち塞がる障害であったのだ。

そのために、資本主義によって運動する近代社会は、共同体や民族の固有文化を解体して、グローバル・スタンダードによって人間の感覚や思考を平準化していくことが、大きな課題となってきた。グローバル・スタンダード。それは果たして新しい「類」であろうか。田邊元は否と言う。そのような「類」は、真実に普遍を作り出す「絶対類」ではなく、「種的類」にすぎないからだ。ひとつの強力な「種」がヘゲモニーを握って、地球上にグローバルな基準を設定していくとき、そういう世界を生きる「個」はみずから「種」に対する否定性を失って、「個の自己喪失としての種化」を起こすことになる。このとき、「個」は自己を喪失し、「類」は「種的類」にまで自分を疎外していく。「種的基体」の解体を推し進める資本主義においては、「個」も「類」も抽象化されて、自己の喪失に陥っていく。

「種化した類」と基体を喪失したもろもろの「個」とから成るこのような世界では、国家のめざすべき平等化の理想も、実際には空洞化していくことになるだろう。不平等はさまざまな領域でのテリトリー占有をめざす「種」の構造から生み出され、それを否定する「個」によって、脱テリトリー化の実践が行為されるとき、はじめてその中から平等をめざす「類」が発生してくる。ところが「種的類」によってグローバル・スタンダード化された世界では、平等は空虚な欺瞞に陥り、じっさいには不平等が惑星の前面に広がっていくようになるだろう。

(出典: 中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』)

上の文章をわかりやすく要約すれば、単なる資本主義も、単なる社会主義も、単なる民族主義も、人間を救わないということ。

資本主義は、「資本主義ではないもの」を、社会主義は「社会主義ではないもの」を、民族主義は「民族主義ではないもの」をくぐりぬけなくてはならない。

「そうではないものをくぐりぬける」=「否定によって媒介される」

「個」が「種(共同体的なもの)」を否定するときに、「種」が立ち現れ、
「種」が「個」を否定するときに、「類」が立ち現れる。

否定を契機として、新しい場所が現実化する、そうした弁証法が、田邊元の「種の論理」であり、21世紀の世界に大きな意味をもつだろうと、中沢新一は予言する。

すると、資本主義に対しては、ただ単に「資本主義反対」というだけでは足らないし、

社会主義に対しては、ただ単に「社会主義反対」というだけでは足らないし、

グローバリズムに対しては、ただ単に「グローバリズム反対」というだけでは足らない。

資本主義も、社会主義も、グローバリズムも、個人主義も否定しながら、それらを飲み込み、包摂するほどの「広い場所」の顕在化が求められる。

古への源からあふれだす「一瀉千里の奔流」とは、すべてを否定しながら、それらを飲み込んでいく、底なしの「広い場所」のことであろうか。

西田幾多郎の「述語主義」は、結果的にはラジカルにもこのような無限ないし無から、「父の名」の機能を解除してしまおうとしている。具体的普遍者の系列は、そのうちに有限の領域を踏み越えていく。そして、多様な無限の世界が、開かれてくる。ひとつの無限ないし無は、さらにそれを包摂するより大きな無限ないし無に出会っていく。ここでは、無は底なしなのである。底なしの深さに向かって、包摂の系列は続いていく。そうなると西田のいう具体的普遍者は、ヘーゲルの場合のように、シニフィアンを生産したり、心理として固定したりする「父の名」の機能を、失ってしまうことになる。あらゆるシニフィアンが、「述語面」の底を通して、たえまない超越を果たしているので、超越的なその述語面の底に広がっていく世界を、ひとつの「世界」や「全体」としてとらえることはできなくなっていく。そこには、彼がのちに描き出しているように、不確固な多数者がたがいを映し出しあっている、華厳経的な「世界ならざる世界」が広がっていく。

(出典: 中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』)

一神教の実現しようとする「世界」を、「世界ならざる世界」が飲み込んでいる。
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