一瀉千里の奔流となり得る日(6)
日本にいながら、「よそもの」として日本人は疎外されていく。
西洋とは異なり、自然と人間を一体のものとみなしていた江戸時代までの日本では、「神話の思考」と「文明の思考」は一つに「習合」し、相互に影響しあうことで、生活や文化や共同体が営まれていました。

長い時間をかけて、「神話の思考」=「魂」という、日本人の心の深部に最もフィットするように形成された社会や文化や共同体の中で生きていたかつての日本人は、皆、笑顔にあふれて、幸福そうだったと、幕末や明治の始めに日本を訪れた外国人たちは記しています。
このような牧歌的な日本の風景も、明治維新、文明開化、富国強兵、敗戦、高度経済成長、バブルの崩壊、構造改革など経て、この150年間に大きく変化しました。
これからの日本は、下の図のようになっていきます。

社会制度は、世界の各地から日本に移住してくる、文化的な背景や宗教(すなわち「魂」)が異なるどんな外国人でも違和感なく暮らせるように無色透明なものへと抽象化、非文脈化され、日本人の「神話の思考」=「魂」とは無関係に、地球規模で統一されたグローバル・スタンダードに合わせて画一化させられていきます。
つまり、日本に暮らしながら、日本人は自分たちの「神話の思考」=「魂」に合わせて作られた独特の社会制度の中では、暮らすことができないようになります。
日本人だけが自分たちの「神話の思考」=「魂」に合わせて国の制度を改変しようとすれば、第二次世界大戦を戦ったことを戦後70年たっても国際社会から糾弾され続けているのと同じように、「文明の思考」が司る「グローバル秩序」の撹乱者として、「ファシスト」「危険な民族主義者」「民族差別主義者」「ヘイトスピーカー」として、悪者のレッテルを貼られ、いつまでもいつまでもバッシングされるようになります。
「文明の思考」は、世界規模で普遍妥当なシステムを構築するためだけに用いられるようになります。日本の国立大学から文系学部が廃止されつつある現状は、この傾向を端的に示しています。
一方、世界規模で画一化されていくシステムの設計には一切関与を許されず、自分たちが生きて行く「場所」を形成する力を奪われて行き場を失った「神話の思考」は、ただの慰め草として、共同体からばらばらに切り離された個人の間を、商品として流通するようになります。
戦時中、日本人の「神話の思考」は、外国人に嫌悪感と恐怖を与えました。それは、日本人の「神話の思考」が、世界を変革しようとする意志と力を当時は保持していたからです。
一方、現在では、「クール・ジャパン」などと呼ばれて、日本人の「神話の思考」を描いたアニメや漫画が、世界中でひたすら無害なもの、かわいらしいものとして、人気を博しています。
このことは、日本人の「神話の思考」が、現実世界の構成のためには何の力をもたなくなったこと、無力化され去勢されてしまったことと表裏一体の出来事です。
これらのことは、簡単に言えば、日本人が日本列島に暮らしながら、そのまま「奴隷化」していくことを意味します。
アフリカから新大陸アメリカへと強制連行された黒人奴隷をイメージすればわかるように、「奴隷」の本質は、自分たちの「魂」の形に合わせた作られた故郷の共同体から引き離されて、自分たちの「魂」と無関係な社会制度の中に無理やり放り込まれることです。

とするならば、日本人の「魂」に合わせて作られていたかつての日本社会が破壊されて、日本人の「魂」と無関係な社会制度へと「構造改革」されていくことは、日本列島に暮らしながら、日本という国が日本人にとって「よそよそしい」(fremd)ものと変質し、日本人が「疎外」(Entfremdung)され、まるで、外国で生きることを強要される奴隷のような存在へと変化していくことを意味します。

長い時間をかけて、「神話の思考」=「魂」という、日本人の心の深部に最もフィットするように形成された社会や文化や共同体の中で生きていたかつての日本人は、皆、笑顔にあふれて、幸福そうだったと、幕末や明治の始めに日本を訪れた外国人たちは記しています。
「彼らはみなよく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのかどうか、疑わしくなる。」
(出典: 初代アメリカ駐日総領事 タウンゼント・ハリス)
「これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む千四百人の住民中、一生のうちによその土地へ行ったことのあるものは二十人といないそうだ。村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」
「平野だけでなく丘や山に至るまで肥沃でよく耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気が良く、そして温和である」
「確かにこれほど広く一般国民が贅沢さを必要としないということは、すべての人々がごくわずかなもので生活できるということである。幸福よりも惨めさの源泉になり、しばしば破滅をもたらすような、自己顕示欲に基づく競争がこの国には存在しない」
(出典: 初代イギリス駐日総領事 ラザフォード・オールコック)
このような牧歌的な日本の風景も、明治維新、文明開化、富国強兵、敗戦、高度経済成長、バブルの崩壊、構造改革など経て、この150年間に大きく変化しました。
これからの日本は、下の図のようになっていきます。

社会制度は、世界の各地から日本に移住してくる、文化的な背景や宗教(すなわち「魂」)が異なるどんな外国人でも違和感なく暮らせるように無色透明なものへと抽象化、非文脈化され、日本人の「神話の思考」=「魂」とは無関係に、地球規模で統一されたグローバル・スタンダードに合わせて画一化させられていきます。
つまり、日本に暮らしながら、日本人は自分たちの「神話の思考」=「魂」に合わせて作られた独特の社会制度の中では、暮らすことができないようになります。
日本人だけが自分たちの「神話の思考」=「魂」に合わせて国の制度を改変しようとすれば、第二次世界大戦を戦ったことを戦後70年たっても国際社会から糾弾され続けているのと同じように、「文明の思考」が司る「グローバル秩序」の撹乱者として、「ファシスト」「危険な民族主義者」「民族差別主義者」「ヘイトスピーカー」として、悪者のレッテルを貼られ、いつまでもいつまでもバッシングされるようになります。
「文明の思考」は、世界規模で普遍妥当なシステムを構築するためだけに用いられるようになります。日本の国立大学から文系学部が廃止されつつある現状は、この傾向を端的に示しています。
一方、世界規模で画一化されていくシステムの設計には一切関与を許されず、自分たちが生きて行く「場所」を形成する力を奪われて行き場を失った「神話の思考」は、ただの慰め草として、共同体からばらばらに切り離された個人の間を、商品として流通するようになります。
戦時中、日本人の「神話の思考」は、外国人に嫌悪感と恐怖を与えました。それは、日本人の「神話の思考」が、世界を変革しようとする意志と力を当時は保持していたからです。
一方、現在では、「クール・ジャパン」などと呼ばれて、日本人の「神話の思考」を描いたアニメや漫画が、世界中でひたすら無害なもの、かわいらしいものとして、人気を博しています。
このことは、日本人の「神話の思考」が、現実世界の構成のためには何の力をもたなくなったこと、無力化され去勢されてしまったことと表裏一体の出来事です。
これらのことは、簡単に言えば、日本人が日本列島に暮らしながら、そのまま「奴隷化」していくことを意味します。
アフリカから新大陸アメリカへと強制連行された黒人奴隷をイメージすればわかるように、「奴隷」の本質は、自分たちの「魂」の形に合わせた作られた故郷の共同体から引き離されて、自分たちの「魂」と無関係な社会制度の中に無理やり放り込まれることです。

とするならば、日本人の「魂」に合わせて作られていたかつての日本社会が破壊されて、日本人の「魂」と無関係な社会制度へと「構造改革」されていくことは、日本列島に暮らしながら、日本という国が日本人にとって「よそよそしい」(fremd)ものと変質し、日本人が「疎外」(Entfremdung)され、まるで、外国で生きることを強要される奴隷のような存在へと変化していくことを意味します。
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