一瀉千里の奔流となり得る日(4)

「精神(Geist)」と「魂(Seele)」。

(後で詳しく説明しますが、上の図は話をわかりやすくするために単純化しています)

日本の戦後は、「文明の思考」に立つアメリカから注入された「自由主義」を、真なるもの、善なるもの、美しいもの、正しいものとして賛美し、かつての自分たちを支えていた「神話の思考」を、前近代的な醜いもの、悪しきもの、邪なものとして否定するところから出発しました。

その延長線上に展開しているのが、現在、それが単に「左翼」ではないという理由で、自民党や安倍政権を無闇に支持し続け、それが単に「社会主義」ではないという理由で「アメリカ」や「自由主義」を無闇に信奉し続ける、自らの本質と正反対の「保守」という呼称を名乗る軽薄な勢力の存在なのであり、彼らは、「アメリカの思考」「文明の思考」に自らを無邪気に同一化させることによって、日本を根底から否定し、破壊してしまっていることに全く気づいていません。

すると、どういう社会が到来するのか。ヴェルナー・ゾンバルトというドイツの経済学者が、1930年代にすでに警告していた事態に、これからますます拍車がかかっていくのです。

私たちが今日その発達の最終的な局面を経験しつつある「経済時代」の原理が、まさにこの時代のヨーロッパでは、人間のすべてのむ生活と体験の領域に、全面的な浸透を始めていたのである。この経済時代の原理が、人間の体験にもたらすものを、ゾムバルトはつぎつぎと列挙していく。

最初に目につくのは、田邉元ならばそれを社会の「種的基体」と呼ぶところの共同体の古い形態が、解体壊滅していくという現象である。そうした共同体は、土地の占有と結びつきながら、長い時間をかけて発達してきたもので、その土地の上でおもに農業が営まれてきた。伝統的な民族文化は、そのような土地との一体性の感情や思考に基礎付けられている。どんな個人も、そのような共同体の中では、自分が決して孤立した単独者などではなく、土地と深く結びついた「種」の一員であることを自覚しているのである。

このような「種の感情」にみたされた共同体の人々の心は、「精神」ではなく「魂」によって生きていたのである、とゾムバルトは言う。彼の言う「精神」というのは、個体性を無にさらしていくような「種」の強制力から解き放たれた自由な個人が、堅固な「有」の感覚に支えられながら、貨幣や記号のような「有」の表象道具を用いて構成的に作り上げた、都市的な世界をささえている心的な構造体のことを言う。このような「精神」は、大地的なものとの深い結びつきのうちに形作られてきた「魂」を、破壊してしまう力を持っている。その結果、「現代においては、われわれの生活が精神的形象の一体化にゆだねられ、この精神的形象にしたがってわれわれの努力なしにおのずと形成させられゆくという現代にきわめて一般的な過程」が進行していくことになる。カフカの小説にみごとに描きだされているように、このような形に「精神化」された世界では、個人は個性的に生きることをもはや望まず(逆説的なことには、「精神」ではなく「魂」によって生きる「種」的な社会の中では、人々はいまよりもずっと個性的に生きることができたのである)、規則の体系の中に入り込み、「その舵のとるにまかせて」生きることのほうを、好むようになるのだ。

このような「精神化」された世界では、さまざまな公共施設の建設が相次ぐ。「われわれの消費構造の方面では、精神化 は、とくにいわゆる消費の共同化によって、すなわちある財貨が『共産的』に用いられる場合に起こる。消費の共同化とは、公立の学校、博物館などをいう。病院、育児所、劇場、音楽堂、映画館、ホテル、レストラン、酒保、水道、電気、暖房の中央配給、公立の交通機関、団体旅行等々、みなしかり。いたるところで個人の自由は束縛せられはじめ、われわれはわれわれを左右する精神的形象に身を委ねる」。政府はますますこのよう公共建築を建て散らしていくことを、自分の任務と考えるようになる。それもこれも「魂」というものが「精神」に改造されて、ますます資本の総運動過程に巻き込まれていくようになったためなのだ。それと並行して、人間の労働も「生を条件づけ、生を充実する営みではなくなって」、抽象的な労働力というものに変化していってしまう。

当然こういう世界では、「平準化」が進む。生活のあらゆる領域でのスタンダードが求められ、商品化社会の進展とともに、それはグローバル化さえ目指すようになる。各国間や地方ごとに存在していた経営の組織やその中での人間関係の特殊性が失われて、単一のスタンダードに従って「改良」されていくことが、求められるのだ。スタンダード化という「ペスト病の近代的現象形態」は、メディアと交通機関の飛躍的な発達を促す。それによって、世界は都市化され、都市と農村との間の差異は解消され、人々が「同じものを食べ、同じ着物を着、同じ家に住み、同じ歌をうたい、同じ踊りを踊り、同じ祭りをまつる」ようになれば、オリンピックやワールドカップという新しい同一性の祭りに熱狂する人々の間で、地方や国や民族の間の特質は、次第に消滅していくことになるだろうし、そのような「平準化」を自由や解放の徴しと思い込むような錯覚が蔓延していても、もはやそれを錯覚だと気づくものもいなくなってしまうだろう。グローバル・スタンダードという「類」のふりをする「種」の膨張体(最近の話で言えば、それはあくまでも「アメリカ種」なのであって、けっして「人類」という普遍などではない)が、地球惑星をおおいつくしていくという運動が、この時代の「高度資本主義」において初めて、自己実現に向けての条件を整え始めたのである。

(出典: 中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』)

ゾンバルトが「精神(Geist)」と呼ぶものが「文明の思考」に依拠し、「魂(Seele)」と呼ぶものが「神話の思考」に依拠するものであることは、いうまでもありません。

すり減らされた魂」という記事でも指摘しましたが、日本人の中に、グローバリズムに対する強い抵抗が起きずにいるのは、日本人が「魂」を、そして、それが根ざす「神話の思考」を、すっかり痩せ細らせてしまっていることのなによりの徴です。



敗戦によって、「神話の思考」が徹底的に否定され、戦後の日本人の心の中から欠落してしまっているため、「文明の思考」という思考のレベルで展開されている、「自由主義か、社会主義か」、「右翼か、左翼か」、という二項対立しか、戦後日本人の意識に浮上してきません。


(画像出典: 「垂直方向上方から降りかかる問題」2015年2月24日)

その結果、グローバリズムという、上から強くのしかかる作用の力に対して、それへの反発として、歴史や伝統や「神話の思考」の深部からはねかえそうとする反作用の力は、日本人の「魂」の中から全く発生してこないのです。
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