>グローバリズムに対して立ち上がり、一元化しつつある世界の潮流に抗い、多極的な世界をこの地球上に止めることができるとしたら、それに貢献できるのは私たち日本人である。
まず絶望的に無理でしょうな、GNP/GDP至上主義に染まりきって、ひたすら資本主義万歳でアメリカ崇拝、のエコノミックアニマルに成り下がり、そうかと思えば、大日本帝国という英米を主力とした欧米列強帝国主義の追従だった日本帝国主義の栄光、が忘れられずに、ひたすら大日本帝国回帰でしかない、カルト信者に成り下がった「現代日本人」には。
そもそも、一神教に対するものは多神教であって、日本の根源たる神道は多神教であるが故に、その価値観というよりも世界観、いや宇宙観そのものが、一神教的な価値観・世界観・宇宙観とは根本的に異なっているのです。
実は、古代ヨーロッパも多神教世界だったわけで、古代ギリシア、古代ゲルマン世界、アイルランドなど、全て多神教でした。あのローマ帝国も、さんざん迫害弾圧して潰そうとしたキリスト教を導入するまでは、多神教だったわけです。
ヨーロッパ(欧米)のキリスト教と呼ばれているものは、実は「ローマ帝国の国家宗教となったキリスト教」がローマ帝国の手によってヨーロッパ中に広められたもので、「キリスト教」と名乗ってはいるものの、その教祖たるイエス・キリストの教えとは、およそ似ても似つかないシロモノなのです。
つまり、欧米のキリスト教なるものは、これを「ローマ帝国教」(もしくは単に「ローマ教」)と「正しく」呼び変えてみれば、実にしっくり来ます。まさに、略奪強奪・大虐殺・迫害・侵略・征服・支配と、その罪の免罪のイデオロギーなんですから。彼らヨーロッパ人が、「十字架」の旗の下で世界中を侵略して、植民地帝国による世界支配体制を作り上げた土台を成していたものが、この「ローマ帝国教」であったわけなのですから。
そして、この「キリスト教(と呼ばれているローマ帝国教)」に代表される一神教とは、「全能の神」という絶対者が支配する世界ですから、そこでは全てのものが正と否に分けられる。昼と夜、光と闇、善と悪、聖と俗、貴と卑、正統と異端などなど、といった具合にものごとが二元的に区分され、非常に厳格なものとなります。
つまりは、一神教的な価値観こそが、まさに「二元論」的発想の大元を成しているものなのです。
これに対して、多神教的な価値観というものは、多元的である故に、この二元的な区分けの発想を持ちませんから、物事に対する捉え方も多様で寛容なものとなります。
しかし、天皇絶対崇拝が国家権力によって有無を言わさず強要された、大日本帝国時代の「天皇教」とも言うべき「天皇制」とはどうだったのか?
これはまさに「一神教」的「天皇教」であって、もはや多神教である神道のあり方ではありません。しょせん、国家権力によって作られた「国家神道」など、権力による神道の一神教化だったのですから、大日本帝国の「天皇制」なるものとは、文字通りに国家権力の強要による「一神教的天皇教」に過ぎないものだったのです。
だから、この「天皇教信仰」を拒否すると、特高警察や憲兵に有無を言わさず連行されて、拷問されて転向を強要される、というものだったのです。中世のカソリック教会が行っていた「異端審問」という、拷問による異端の棄教という転向強要と全く同じで。
この天皇絶対崇拝である「一神教的天皇教」イデオロギーの下で、やれ「一君万民」だの「君民一体」だのといった、国家権力が強制的に注入する「国民精神」とやらを叩き込んだのが、大日本帝国時代の国民教育だったわけで、その頂点にあったものが「一神教的天皇教」による「大日本帝国式天皇制」だった、というわけです。
ソ連共産党=コミンテルンが「天皇制打倒」として打倒の対象とした「天皇制」なるものとは、大日本帝国という欧米列強追従帝国主義国家による、この「一神教的天皇教」による「大日本帝国式天皇制」だったわけで、こんなものなら「打倒」の対象とされるのも当り前、なのです。
しょせん、大日本帝国という近代日本国家など、欧米列強によって「欧米列強式帝国主義国家」となる道を強要されながら、自らも次第に「帝国主義の道」へと染まって行ってしまって、自ら「日本のあるぺき道」を踏み外して行ってしまった国家、だったのですから、これを否定したところで、少しも「日本そのものの否定」などではありません。
何よりも、多神教の国である日本を、天皇絶対崇拝という「一神教的天皇教」国家に変えてしまったことこそ、大日本帝国なる近代日本国家の最大の罪(かなりキリスト教的な発想、ではありまずか)であった、と言ってしまってもいいのですから。
実は、絶対崇拝の対象とされた天皇自身も、国家権力が絶対権威に祭り上げて、その「天皇の絶対権威」を利用して、国家権力が絶対の権力を振るうための道具(これを「玉」と言う)、として政治利用されていたわけなのですから。
その意味では、天皇絶対崇拝という形を取りながら、「本来の天皇のあり方」を真っ向から否定するものであった、とも言えるわけですから、「天皇絶対崇拝による天皇の本質的否定」であった、という見方すらできるのです。
そして、皮肉なことに(?)、その天皇のあり方を「天皇本来のあり方に近いもの」に戻したのが、「マッカーサー憲法」たる「日本国憲法」であった、というわけなのです。
ところが、いまだにほとんどの日本人がこの「大日本帝国式天皇制」の発想に染まったままで、一方はこれを断固否定し、もう一方は断固肯定する、という馬鹿げたことをやっている。いやそもそも、この「大日本帝国」なる近代日本国家こそが、日本そのものである、とほとんどの日本人が無意識の内に思い込んでいるのです。
このために、「戦後日本」VS「大日本帝国」という二元論の図式でしか日本というものを考えることができないでいる、というのが、まさに「現在の日本人の愚かなる精神の構図」、となっているわけなのです。
この「エコノミックアニマル」VS「カルト信者」という図式の中に閉じ込められたままでいる限り、一神教世界が創り上げている「グローバリズム(資本主義支配)」というものに対して、多元的な価値観を以って向き合う、「脱グローバリズム」という多神教世界たる神道の価値観・世界観・宇宙観による対峙など、とうてい今の日本人には期待し得ないのです。
中沢新一の母方の叔父が網野善彦なんですよぇ~。
どちらもなにかと問題を含んだ学者です。
そういえば、西部邁が東大を辞めたのは中沢氏が原因でしたっけ。
西部氏が中沢氏を東大に引っ張て来ようとしたんですが、
教授会で否決され、それに怒って、辞職したのでした。
私も中沢氏は好きじゃないです。
自己保身と世渡りがうますぎてね。
初期の著作はいいと思います。チベット関係のやつ。
でも、オーム事件以降の彼の自己欺瞞に満ちた対応は
島田裕巳が怒るとおり、ひどいものです。
1980年代のいわゆるニューアカブームの旗手のひとりでしたが
ポストモダンの言説がどのような世界情勢の中で可能であったのか
彼はまったく自己総括していませんね。
だから、彼の本、ず~っと前に読むのやめちゃいました。
本屋で、何年も前に、憲法9条擁護の対談本だしてるのを見かけたり
したけど、手に取る気にもならなかったっけ。
グローバリズムに対する初期のレジスタンスで思い出すのは
サパティスタたちの運動かな。
メキシコのチアパスで,1994年のNAFTA発行日に武装ほう起した連中。
左翼だけど保守でもあった。いや、保守というより、「死守」というべきかもしれない。
左翼思想を持った都市部出身の若者たちがチアパスのインディオたちの共同体に
入り込み、10年くらい一緒に生活した後に、NAFTAで彼らの生活が壊される
ということで立ち上がった。
彼らは、すっかりインディオたちに溶け込み、インディオたちが彼らの教師であり、
リーダーという、普通の左翼運動の「前衛思想」とは真逆の思想をもっていて、
リーダー兼スポークスマンは「マルコス副司令官「」と名乗り、覆面をし、
「正司令官」はインディオたちであるというスタンスを貫いていた
そういえば、アメリカ大陸のネイティブたちは、古代にベーリング海峡を渡って、
ユーラシア大陸から移動したモンゴロイドたちで、日本人や縄文文化と遠い親戚関係
にあたる連中。彼らのアニミスティックでシャーマニスティックな霊性は反グローバリズム
に深い関係があるのかもしれない。
で、やがて、サパティスタたちは武装闘争からインターネットを使っての言論戦略へと
戦略シフトし、その特異で難解で魅力的な言説によって世界の知的な人々を
惹きつけるようになった。今はもう、世代が変わり、彼らも表に出てくることは
なくなったし、世界の人々もグローバリズムのおかげで(?)生活に追われるようになり、
彼らのことなどほとんど忘れてしまった。。。。かな?。。。
彼らの運動は左翼思想と保守運動の独特な融合だった思う。
インディオたちの文化生活共同体を死守するというものなんだから、
これほど「保守的」なものもあまりない。
ということで(?)、日本以外にも「縄文的」な文化基盤をもった人たちはいて、
彼らはすでに反グローバリズム抵抗運動の実績をかなり持っているのです。
まあ、以上、ランダムな文字通りの雑感でした。
中沢新一なんて、オウム真理教事件の時、オウムを擁護したり、坂本弁護士はオウムに殺されてはいないなんて嘘を言って小林よしのりに批判されていて、その時から中沢新一は嘘つきだとレッテルを貼り、全否定して彼の言論などは無視していました。
でも、ここでWJFさんが取り上げてくださり、なるほどと思いました。哲学者としての洞察力は確かにあり、彼を全否定することで時々見せる鋭さを見過ごすことになるところでした。
いろんな言説から注意深く真実を抽出するという作業も私たちはしていかなくてはなりません。
そのためには、全否定や全肯定といった単純さからも脱却すべきかもしれませんね。