「国家」と「クニ」(1)

研究ノートです。
天神的原理(アマテラス)・・・「国家」
地祇的原理(オオクニヌシ)・・・「クニ」


天神的原理・・・垂直的原理
地祇的原理・・・水平的原理

「国家」・・・制度や理念としての
「クニ」・・・身体や心や記憶で感受するものとしての

天神的原理の一元化としての国家神道は、日本を近代「国家」として立たせた。

しかし、「地祇的原理」から切り離され、一元化され、純化され、孤立した天神的原理(まるで岩戸の隠れたアマテラスのように)は、グローバリズムと強い親和性を持ち、「国家」の自死を招く。

(例: 新自由主義政党自民党に警戒感を抱かない神社本庁、グローバリズムに傾斜する右派の人々)

「国家」は、「クニ」であることをやめるとき、自死と解体に向かう。

純化された国家主義は、国家の自死・解体・崩壊を招く。

「国家」を自死から防ぐものは、「クニ」であり「地祇的原理」である。

「クニ」とは、「国家」の内容と根底である。

地祇たちの王、オオクニヌシは、「クニ」(国家の内容と根底、地祇的原理)を司る神であるがゆえに「オオクニヌシ」と呼ばれる。

いま、必要なのは「国家」を「クニ」として、私たちの手に取り戻すことである。

「国家」と「クニ」が切り離されている。

「国家」から「クニ」が、ますます排除されようとしている。

(日本らしさが排除されるオリンピックの意匠、英語ばかりを使う左翼の活動家たち、グローバリストの政治家を「愛国者」と錯覚する右翼の人たち)

「天神的原理」が「地祇的原理」と融合を遂げなくてはならない。

「国家」が再び「クニ」とならなければならない。
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「国」が先か「国家」が先か?

この「国」と「国家」という問題、これは何も日本だけに限られる問題ではありませんから、もう少し平たく「国」と「国家」の形成というものについて考えてみましょう。

パターン1

世界中の様々な地域に、人々の集落が形成されて行くにつれて、そうした集落が次第に集合体あるいは共同体へと成長して行き、そうした地域ごとに異なった地域社会が形成されて来た、というのが人類社会というものが形成されて来たプロセスである、と言っていいでしょう。

そのようにして、地域ごとに集合体、共同体が形成されてくれば、それを維持して行くための掟(秩序)や仕組み(組織)というものが必要になってきます。

この場合の、「地域ごとの集合体、共同体」が「国」の原形となり、「それを維持して行くための掟(秩序)や仕組み(組織)というもの」が「国家」となった、というように考えてみてはどうでしょうか?

すなわち、「国」というものは、世界中の様々な地域ごとに、長い歴史の中で、徐々に形成されて来た集落の発展形としての集合体あるいは共同体が土台となったもの(地域共同社会)であり、これに対して、「国家」というものは、その「国」を維持して行くために意図的に作られた「掟(秩序)や仕組み(組織)」であるもの、これをあえて近代的な概念で表現すれば「国を維持するための統治体としての機構」であるもの、と言うことができるのではないでしょうか。

つまり、「国」とは世界中の地域ごとに徐々に形成されて行った「地域共同体社会」であり、「国家」とは、その「国を維持するための統治体としての機構」として意図的に作られたものであり、このために、必然的に政治的な性格を持つ組織ということになるわけなのです。

このために、その形成のパターンとしては、まず始めに「国」というものが形成されて、その「国という土台」の上にその統治体としての「国家」というものが形成される、というあり方となるのです。

パターン2

もっとも、必ずしもこのようなパターンになるとは限らないわけで、力のある者が「弱肉強食」的なやり方で、自分が支配する集団を形成し、その集団を率いて、力ずく(武力やその他の支配の手段)である地域を自分の支配下に組み入れてしまい、そこに自分の支配する「国家」を作ってしまう、というパターンもあるからです。

これもまた、人類社会というものが形成されて来たもう一つのプロセス、と言うことができるでしょう。

いわゆる「征服者」というのがこの「力ある者」のことで、こうして力ずくで作られた「国家」の下(もと)に上から「国」が形成される、といったパターンが出来上がるのです。

こうした場合には、まず始めに「国家」というものが支配者の手によって力ずくで作られ、その支配下に「国」が形成されて行く、というあり方となるわけです。



世界中にある「国」と「国家」の形成というものは、このいずれかのパターンに拠っていると言えるのではないでしょうか?

総じて言えば、パターン1の場合には、「国」とは、概ね自然発生的と言ってもいい、人々の集落の発展形として形成されてきたあり方のものであるのに対して、パターン2の場合には、「国」とは、支配者の力によって上から人工的(強制的)に作られるというあり方のもの、となります。

このどちらのパターンであるのかによって、「国」というものに対する発想も概念も大きく違ってくることになるわけですが、「国家」というものが「国を統治するための掟(秩序)と仕組み(組織)」から成る、意図的・人工的に作られる「国の統治体」であるということは、このどちらのパターンである場合にも共通である、と言えるでしょう。

ただし、パターン1で誕生する国家は「国の民の手による合意的なもの」であるのに対して、パターン2で誕生する国家は「支配者による恣意的もの」、という点で大きく違っているのですが。

もっとも、パターン1による国家の形成ではあっても、その国家の権力を握ったものが次第にその国民を強圧的に支配するようになる、といった場合もあるわけなのですが。

さらには、パターン1で形成された国家が、パターン2で形成された国家に征服されて、パターン2のような国家のあり方に変質してしまう、といった場合もむろんあるわけです。



このように、「国」と「国家」というものは、言うまでもなく、多くの部分で重なっているものではあるものの、決して「国」=「国家」ではないわけです。

パターン1の場合には、まず「国」というものが徐々に形成されて、その上に「国家」というものが国を土台として形成されます。しかし、パターン2の場合には、まず始めに「国家」というものが意図的に形成されて、その国家の下に「国」というものが形成されることになります。

あえて図式的な言い方をするならば、パターン1の国は「合意形成型の国」であり、対してパターン2の国は「統治的な国」ということになるでしょう。

このために、パターン1の場合には「国があっての国家」であるのに対して、パターン2の場合には「国家あっての国」という、まったく正反対の「国と国家との関係」になるわけです。

これは、世界中のどこの「国と国家の関係」についても言えることである、と思われるのですが、このどちらのパターンであるのかという判断は、なかなかに難しいものです。

日本の場合には、果たして、このパターン1と2のどちらと言えるのでしょうか?

社会科学の概念

天神、地祇、国家、クニなどの語を論を構築する概念として使うのは、
なかなかいいアイデアだと思います。

佐伯啓思はある本の中で日本を論じる際に用いられる社会科学用語に
激しい不信感を表明していました。

これらはすべて明治期に西欧のsocial science を輸入する際につくられた翻訳語で実際には、日本にないものを表現しており、いわば仕立ての違う服を着せるようなものだからです。

たとえば、共同体はcommunityの翻訳語ですが、それにぴったりするものは日本に存在せず、ムラとvillageもその実態は異なります。



俺が無知だから良くわからないんだが、移民や外国人を受け入れるのに保守や右って呼ばれる国って世界に存在するんですかね。移民によって成立した国ねら別でしょうが。
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