「非政治」が「政治」を圧倒する時

「非政治の権威」が静かに立ち上がる。
昨年の暮れ、さかんに「非政治」と「政治」というキーワードを使って記事を書いていた時期があります。

「政治」が「政治」を糾し得る時代は過ぎ去りました。

一つの「政治」が、他の「政治」に置き換わる、「政権交代」と呼ばれる小手先の療法によっては、現代の日本の政治の病根は根治できません。

「あれがだめだからこれ、これがだめだからあれ」という既成のカタログからの取捨選択によっては、もはや日本はどうにも救われません。

必要なのは、どの陣営であれ「政治」そのものが、「非政治」の広さと深みと「根底」から、圧倒的な力で、批判され、否定され、粛正され、解体され、新しく塗り替えられていくことです。

そのために求められるのは、「非政治」のエネルギーの結集です。

ここで「非政治」とは、時には無邪気に遊ぶ子どもの笑顔であり、時には魂の内奥からわきあがる感情のざわめきであり、時には大地に這いつくばって暮らしを営む人々の怒りであり、時には国家の安寧と五穀豊穣を願ってやまない天皇陛下の祈りであり、時には安倍晋三の体内に潜むがん細胞であり、時には事実をあるがままに語る人々の群れであり、時には火山からの水蒸気の噴出であり、時には大地にふりそぞぐ雨であり、時には太古から語り継がれる神話であり、時には連綿と受け継がれる伝統であり、時には人々の心を打つ音楽であったりします。

つまり、「非政治」とは、「自然」からわき起こり立ち上がるすべてのものの総称ですが、そうしたものの連携と結集が、今や「政治」を圧倒し、浄化しなくてはならない。

この、日本を浄化しうる「非政治」の広さと深みと「根底」を、私は「多元性」と呼びます。

(出典: WJFプロジェクト「『非政治』に『政治』を圧倒せしめよ」2014年10月10日)

日本の歴史を振り返ると、政治体制は様々に変化してきましたが、その一方で万世一系の皇室の存在がありました。

つまり、日本では、「変わりえないもの」と、「変わりうるもの」による、二重の支配が行われてきました。

天皇という「変わりえない権威」が存在したからこそ、国家としての一貫性を保ちながら、政治体制は、柔軟に「変わりうるもの」として変転を許されていました。

天皇は国家安泰や五穀豊穣を祈る祭祀を司る一方、政治に直接携わる親政の時代はきわめて例外的でした。

「政治」や「人為(ノモス)」は太政官や幕府が司り、天皇は祭祀を通じて「非政治」や「自然(ピュシス)」を司っていました。

そして、古来より、大地に根ざしていきる国民(おおみたから)は、本来的には、「非政治」や、「自然」や、それらを司る「変わりえない権威」こそに帰属しました。

つまり、日本は、「政治」が「非政治」を、「人為」が「自然」を、「変わりうるもの」が「変わりえないもの」を制圧する国ではなく、逆に、「非政治」が「政治」を、「自然」が「人為」を、「変わりえないもの」が「変わりうるもの」を圧倒する国である。

この意味において、日本はまさしく「神国」と呼ばれるべき国でした。

日本において、政治体制は、「変わりえない天皇の権威」の下で、「変わりうるもの」として想定されていますから、特定時点の政治体制を「保守」しようとすることは、日本本来の「保守」の姿ではありません。

安倍政権という特定の政権を「保守」しようとしたり、安倍という特定の政治家を権威づけようとする人々が、「保守」を名乗るのはナンセンスの極みです。

「非政治」を司る天皇の権威の下に、「政治」を相対化していくことこそ、日本の本来の「保守」的な姿勢だからです。

(出典: WJFプロジェクト「『非政治』が『政治』を圧倒する国」2014年10月24日)

衆院選が終わり、早くも自民党・公明党の圧勝が報じられています。

最初から、わかりきっていたばかばかしい展開です。

選挙によって「政治」を変えられる段階はとうに過ぎ去りました。

「政治」によって「政治」を変えられる段階はとうに過ぎ去りました。

しかし、うなだれてはいけません。

「非政治」が、「政治」を圧倒します。

それは、火山の噴火のような天変地異かもしれない。

それは、ある種の、私たちの痛みを伴うカタストロフかもしれない。

あるいは、総理大臣の突然の辞任かもしれない。

なんらかの形で、この国の浄化は、「政治」や「人為」とは異なる方向からの力によって、行われることになるでしょう。

(出典: WJFプロジェクト「『非政治』が『政治』を圧倒するであろう」2014年12月14日)

そして、いま、「非政治」が「政治」を圧倒するときが、ついに訪れようとしています。

安倍談話と真逆の天皇談話出れば国際的には上位の声明となる

攻める時は雄弁になる。それが安倍晋三・総理大臣のスタイルだった。「憲法解釈の最高責任者は私だ」「支持率のために政治をやっていない」──安保法制審議の中でも強気の発言を繰り返してきた。

雄弁な総理と対照的に、黙々と国民のため、平和のための祈りを続けてきたのが今上天皇である。その天皇がついに「お言葉」を発する
──安倍首相があれだけ入れ込んでいた戦後70年談話の格下げ(閣議決定をしない=私的談話となる方針が明らかになった)に動き始めたのは、沈黙を破って発される「お言葉」の重みが、政権を揺るがすことを怖れているからではないか。

天皇は毎年8月15日に全国戦没者追悼式に出席し、「お言葉」を述べる。この20年近くは、例年、文面もほぼ決まっている。

〈ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります〉

だが、官邸が気にしているのは、安倍首相が歴史認識の転換を行なう内容の70年談話を出した場合、全国戦没者追悼式とは別に、天皇の特別な「戦後70年のお言葉」が発表されるという情報が流れたことだ。自民党幹部が語る。

「終戦記念日に陛下が先の大戦についてメッセージをお出しになるのではないかという情報は5月頃から流れている。陛下は先帝(昭和天皇)から、先の大戦で軍部の独走を阻止できなかった無念の思いや多大な戦死者と民間人犠牲者を出したことへのつらいお気持ちを受け継がれている。万が一、お言葉の中で首相談話から省いたアジア諸国の戦争被害に対する思いが述べられれば、安倍首相は国際的、国内的に体面を失うだけでは済まない」

安倍首相は戦後70年談話で日本の針路を変えるために、ブレーンの学者を集めた有識者懇談会でその内容を検討させてきた。

(閣議決定された)村山談話、小泉談話は、かつての戦争を「植民地支配と侵略」と定義し、アジア諸国への「心からのお詫び」という言葉が盛り込まれた。それに対して安倍首相は「侵略戦争は国際的な定義として確立されていない」「A級戦犯は国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない」(2013年、2006年の国会答弁)と従来の政府の戦争認識に批判的な歴史観を持ち、安倍談話では「侵略」や「お詫び」を“NGワード”とする考えを示唆してきた。

そこに安倍談話と真逆の「天皇談話」が出されれば、国際的には「日本の国家元首のステートメント」として、首相の“私的談話”より上位の声明とみなされる。

(出典: 週刊ポスト2015年8月7日号)

「非政治」の権威である天皇陛下が、70年目の終戦記念日に「お言葉」を発せられれば、それは、「政治」の権力者である安倍晋三が出す70年談話(それがいかなる内容のものになるにせよ)、を圧倒することになるでしょう。

日本という国の顕著な特徴は、その歴史を通じて、「非政治」の権威と、「政治」の権力の二つが、常に並置されてきたことです。



参考記事:
WJFプロジェクト「グローバリズムと神道(27)」(2015年2月25日)


天皇という「非政治」の権威が日本に存在するおかげで、「政治」の権力は、現在の安倍晋三のように、右傾化した大衆によってどんなに神格化され熱狂的で盲目的でカルト的な信奉を集めるようなことがあろうとも、いともかんたんに相対化され、無力化され、そのカリスマ性を剥奪されてしまいます。

安倍政権に批判的な左派の人々の中には、日本国憲法の定める現在の天皇制すらも唾棄し、軽蔑し、廃止すべきだと考える人々がいますが、彼らは、天皇のもつ「非政治」の権威が、「政治」の権力に対して及ぼしうる抑止力を理解していません。

日本に「非政治」の権威が存在しなければ、「政治」権力それ自身が、擬似宗教的な「権威」を身にまとって、暴走を始めることになります。

あらゆる伝統的・宗教的な「権威」の存在を否定した共産主義国家で、毛沢東や、スターリンのような政治権力者自身が神格化されていき、歯止めが効かなくなったのと同じように。

天皇という存在を誤解しているのは、左派の日本人ばかりではありません。

山本太郎が、「子供と労働者を被ばくから救って下さるよう、お手をお貸し下さい」と、福島の原発事故の窮状を伝える手書きの手紙を、天皇陛下にうやうやしく渡そうとしただけで、「不敬だ」「死刑にしろ」といって大騒ぎをした右派の日本人も、日本における天皇という存在の本質を理解しているとは言えません。

参考記事:
WJFプロジェクト「グローバリズムと神道(26)」(2015年2月18日)


彼らは、とにかく戦前と同じように、天皇をはるか高みにおいて畏れ敬うことが、唯一の正しい天皇への崇敬のあり方だと勘違いしています。

右派にせよ、左派にせよ、戦後の日本人が、天皇という存在をここまで理解できなくなってしまっているのは、大日本帝國憲法が定めた戦前の「明治体制」を基準にして、天皇に関する全てを語ろうとするからです。

「明治体制」を理想化し肯定すれば、右派の日本人が生まれる
「明治体制」を忌み嫌い否定すれば、左派の日本人が生まれる


わけですが、わずか80年足らずの「明治体制」それ自体が、日本の歴史全体の中では、極めて特殊な時代であったことを忘れてしまうと、私たちは日本という国の本質が見えなくなってしまいます。

「明治体制」という特定の一時代にとらわれるのをやめて、「縄文から現代に至る日本人の歩みの全体」を見渡すようになるとき、右翼や左翼の不毛な争いはなくなり、私たちは同じ日本人として、もっと一つに結集することができるようになるはずです。

明治体制は、左翼の人たちがするように、全否定すべき時代では決してありません。

そこには日本人の手によるさまざまな達成があり、改善があり、美しい文化も花開いた時代です。

国際化と帝国主義の時代の波を、日本人が必死で乗り切ろうとした時代でもあります。

決して、「暗黒の時代」というレッテルを貼って片付けてよい時代ではないし、「縄文から現代に至る日本人の歩みの全体」の一部として、私たち日本人があるがままに受け止めていくべき時代であると思います。

しかし、明治体制が、まるで日本にとっての本来の、そして唯一のありかたであるかのように、そこに規範を求めたり、理想化するべきではありません。

なぜなら、イギリスの影響の下で、薩長が作った明治体制という時代は、日本の本来性が回復されるどころか、過去の歴史に照らしても、様々な伝統からの逸脱がみられるからです。

まず、天皇主権ですが、中国の皇帝と違い、日本書紀が編纂された律令制の時代ですら、天皇が直接政治に携わる「天皇親政」は、日本ではきわめて例外的でした。

政治に直接携わっていたのは平安時代には藤原氏ですし、平安時代末期以降は、武家政権に政治の権力は移譲されていきました。

明治体制下ですらも、明治19年の「機務六条」以降は、天皇親政の方針は放棄されました。

では、天皇が政治に携わらない、そのことによって、皇室は解体されたかといえば、話は逆であり、政治に直接携わらなかったからこそ、皇室は政治的な混乱に大きくは巻き込まれることなく、その権威は時代を超えて温存されていきました。

このように、政治権力から天皇を切り離した日本国憲法の象徴天皇制は、日本の伝統的な天皇のあり方にむしろ深く合致したものだと思います。


(出典: WJFプロジェクト 憲法無効論に対する批判 2015年3月21日)

「日本国憲法の定める象徴天皇制は、天皇の伝統的なあり方に合致している」

今上天皇も、六年前、同じ趣旨の言葉をおっしゃられたそうです。

時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが,私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。

(出典: 宮内庁「天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して」平成21年4月8日)

天皇陛下、万歳。
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天皇陛下のお言葉に変化が

今年の全国戦没者追悼式における天皇陛下のお言葉は、例年のものに
「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」
「戦後という,この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき」
「さきの大戦に対する深い反省と共に」
というお言葉が加えられていましたね。

参考までに、やや読みにくいかもしれませんが、拙ブログにて過去十年のお言葉と対比してみました。
50年目、60年目とも異なり、今年はやはり異例と言ってよいように思いました。
http://genuinita.blog.fc2.com/blog-entry-288.html

国民の意識

ご存知の方も多いと思われますので、最初に一言。
どこぞではお騒がせして恐縮です。

さて本題です。
この記事をよく読めば、「大地に根ざしていきる国民(おおみたから)」、つまり「国民」の「意識」(潜在的なものを含む)も包含した内容になっていると私は思うのですが。
因みに、こちらの「天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して」のお言葉については、「明治体制」を理想化し肯定する右派の日本人の一部から失望の声が上がっていましたね。

ちょこぼさん

>選挙で政権を変えなければTPPも原発も消費税増税も戦争も止められない
という当たり前のことを言っただけ

フレキシブルな政権交代が起きるためには、特定の政党や政権に固着し絶対化するようなことをやめなくてはならない。そのためには、政治が相対化されなくてはならない。政治が相対化されるためには、政治の外側に、政治とは切り離された確固たる権威の存在が必要である。日本においては天皇がその役割を果たしています。

政治、それ自体が権威化された、一党独裁の共産主義国家には「政権交代」すら存在しなかったことをお忘れなく。

安倍信者も、毛沢東を熱狂的に支持した紅衛兵よろしく、一切の批判を許さない、自民党による一党独裁国家を目指していますが。

No title

>左翼のプロジェクトではありません
そんなことはわかってる

選挙で政権を変えなければTPPも原発も消費税増税も戦争も止められない
という当たり前のことを言っただけ

No title

選挙で政権を変えなければ政治は変わらない
天皇に権威があっても今の天皇は政治に口出しもできないのが現実
山本太郎が天皇に手紙を渡しても天皇には何もできず原発再稼動も止められない
結局は政治を変えようという国民の意識しだい
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