あなたよりも貴いあなた
岩屋の外へ。
有名なアマテラスの天岩戸隠れの神話。
この物語を、岩屋に引きこもったアマテラスになった気持ちで読んでみましょう。
弟スサノヲの乱暴狼藉に怒り悲しんで、岩屋に隠れてしまったアマテラス。岩屋の外では、神々が、楽しそうに踊り笑う声が聞こえてきます。アマテラスが、岩戸を開けて外を覗くと、「あなたよりも貴い神様がいらっしゃるので、私たちは喜んでいるのです」とアメノウズメがいい、アマテラスに鏡が差し出されます。鏡に映る自分の姿に導かれるように、アマテラスは岩屋の外に歩み出ます・・・
アマテラスが岩屋に隠れたように、私たちもなんらかの岩屋の中に閉じこめられています。
その岩屋とは、私たちを縛りつけている固定した考え方かもしれないし、わたしたちがしがみついている特定の立場のことかもしれません。
しかし、私たちを閉じ込めている岩屋の外からは、いつも、賑やかで楽しそうな声が聞こえてきます。
そこには「あなたよりも貴いあなた」が存在するためです。
自分の固定した考えや特定の立場の外に目を向けたとたんに、鏡が差し出され、そこには、「あなたよりも貴いあなた」の姿が映し出されます。
その「あなたよりも貴いあなた」の姿に導かれて、私たちは、固定した考えや、特定の立場から抜け出すことができます。
「あなたよりも貴いあなた」とは、考えやイデオロギーに絡め取られる以前の、心の一番深い部分にある、私たち自身のことでしょう。
この時、鏡の役割を果たすものは様々です。
天地を照らす太陽そのものが、この鏡の役割を果たすかもしれません。
窓の外に目をむけ、扉をあけて家の外に出れば、そこには、日に日に新たに、「あなたよりも貴いあなた」が存在することでしょう。
お寺の仏像が、鏡の役割をするかもしれません。仏像とは、私たち人間が実際にはそうであり、またそうでありうる貴い姿(仏性)を刻んだものにほかならないからです。
また、神社の本殿の御扉の前に置かれているのも、まさにこの鏡であり、そこにも「あなたよりも貴いあなた」の姿が映し出されることでしょう。
どんな形であれ、最も深い己の本心と向き合いながら、私たちは、自分を閉じ込めている岩屋から、日々歩み出さなければなりません。
「これより内側には、二度とお戻りにならないで下さい。」
世界は、あなたの本心が放つ光を必要としているのですから。
あなたの光があってこそ、わたしたちは賑やかに笑うことができるのですから。
一方、アマテラス大御神は、岩屋の奥深く閉じこもっていたが、神神の愉しげに笑い興じる声が、波音のようにここまで聞えて来るので、不審の気持をとどめることが出来なかった。そこで厳重に閉め切った石屋戸を細めに開き、中から次のように尋ねた。
「私がこうして隠れている以上は、当然高天原も暗く、葦原中国も暗くて、ひっそりしていることと思っていたら、これはいったいどういうことなのか?なんのわけがあって、アメノウズメはそうして踊り廻っているのか?神々たちはそうして声をあげて笑うのか?」
こう訊かれて、さっそく、アメノウズメが踊りをやめて答えて言うには、
「あなた様よりも、もっと尊い神様がここにおいでになりますので、それで私どもは悦んで、笑ったり踊ったりしているのでございます。」
こう答えている間に、アメノコヤネノ命とフトタマノ命とが、かねての鏡を差し出して、アマテラス大御神に見せた。見ればなるほど、そこには一柱の尊い神様のお姿が、明るく照り輝いて映っているのであるから、アマテラス大御神はいよいよ不思議なことだと考えて、少しばかり戸の中から出て様子を見ようとした。この時を待ちかねて今まで隠れていたアメノタヂカラヲノ神は、さっそく日の神の手を取って、岩屋戸の前へと引き出した。一方フトタマノ命は、素早くそのうしろに注連縄を張りめぐらして、こう言った。
「これより内側には、二度とお戻りにならないで下さい。」
こうして、アマテラス大御神がふたたび姿を現わしたので、その時、天上の高天原も、地上の葦原中国も、しぜんに前のように明るく照り輝くこととなった。
(出典: 『古事記』福永武彦現代語訳)
この物語を、岩屋に引きこもったアマテラスになった気持ちで読んでみましょう。
弟スサノヲの乱暴狼藉に怒り悲しんで、岩屋に隠れてしまったアマテラス。岩屋の外では、神々が、楽しそうに踊り笑う声が聞こえてきます。アマテラスが、岩戸を開けて外を覗くと、「あなたよりも貴い神様がいらっしゃるので、私たちは喜んでいるのです」とアメノウズメがいい、アマテラスに鏡が差し出されます。鏡に映る自分の姿に導かれるように、アマテラスは岩屋の外に歩み出ます・・・
アマテラスが岩屋に隠れたように、私たちもなんらかの岩屋の中に閉じこめられています。
その岩屋とは、私たちを縛りつけている固定した考え方かもしれないし、わたしたちがしがみついている特定の立場のことかもしれません。
しかし、私たちを閉じ込めている岩屋の外からは、いつも、賑やかで楽しそうな声が聞こえてきます。
そこには「あなたよりも貴いあなた」が存在するためです。
自分の固定した考えや特定の立場の外に目を向けたとたんに、鏡が差し出され、そこには、「あなたよりも貴いあなた」の姿が映し出されます。
その「あなたよりも貴いあなた」の姿に導かれて、私たちは、固定した考えや、特定の立場から抜け出すことができます。
「あなたよりも貴いあなた」とは、考えやイデオロギーに絡め取られる以前の、心の一番深い部分にある、私たち自身のことでしょう。
この時、鏡の役割を果たすものは様々です。
天地を照らす太陽そのものが、この鏡の役割を果たすかもしれません。
窓の外に目をむけ、扉をあけて家の外に出れば、そこには、日に日に新たに、「あなたよりも貴いあなた」が存在することでしょう。
お寺の仏像が、鏡の役割をするかもしれません。仏像とは、私たち人間が実際にはそうであり、またそうでありうる貴い姿(仏性)を刻んだものにほかならないからです。
また、神社の本殿の御扉の前に置かれているのも、まさにこの鏡であり、そこにも「あなたよりも貴いあなた」の姿が映し出されることでしょう。
どんな形であれ、最も深い己の本心と向き合いながら、私たちは、自分を閉じ込めている岩屋から、日々歩み出さなければなりません。
「これより内側には、二度とお戻りにならないで下さい。」
世界は、あなたの本心が放つ光を必要としているのですから。
あなたの光があってこそ、わたしたちは賑やかに笑うことができるのですから。

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