憲法とは革命の産物である
「革命の毒」からいかに逃れるか。
憲法とは革命の産物である。
フランス革命やアメリカ独立戦争という、王権や過去の歴史との切断の後、新たに人工的な国家を建設しようとした際に要請されたものが、さまざまな宣言や憲法という文言であった。
だから、王権が倒されなかったイギリスには憲法はない。議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等のうち、国家の性格を規定するものの集合体が憲法とみなされている。
フランスやアメリカが、憲法によって、過去の歴史からの切断の上に国家を規定するのに対して、イギリスは、過去の歴史的歩みの総体の上に国家を位置づけている。
日本もイギリスの形に習うべきであったが、明治政府が採用したのは、プロイセンの欽定憲法だった。
1871年まで、さまざまな領邦国家に分かれていたドイツには、統一国家は存在しなかった。
ナショナリズムと啓蒙主義の高まりの中で、1848年、フランクフルト国民議会が憲法制定によってドイツの統一を図り、プロイセン王国の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に帝位と憲法を捧げようとしたが、プロイセン王は、自由主義者たちによる下からの統一を嫌って戴冠を拒否。
1850年に欽定憲法を定めて、1871年、次のプロイセン国王ヴィルヘルム1世が、ドイツ皇帝として戴冠し、統一ドイツが生まれた。
ドイツがさまざまな領邦国家に分かれていた様子は、日本の江戸時代の幕藩体制と似ていなくはないが、鎌倉時代以降の封建制の時代にも、万世一系の天皇が存在し続けていた日本と異なり、プロイセン国王がドイツを統一した歴史は過去にはない以上「ドイツ帝国」は、半ば「人工国家」として建設されたとも言える。
ドイツの欽定憲法すらが、日本という世界でもっとも古い「自然国家」という国体にはそぐわない、ごわごわとした「西洋の洋服」だったのだ。
明治体制が孕んだ矛盾は明治憲法だけではないのだが、それらの矛盾が噴出する形で、やがて明治体制が第二次世界大戦における敗戦という破綻を迎えたのは、歴史の必然であったとも言える。
そして、戦後、アメリカによって日本国憲法が日本にもたらされた。
日本国憲法が、他のあらゆる憲法と同様、過去からの切断や人工国家の創出という、「革命の産物」という性格をもつことはいうまでもない。
しかし「革命の産物」としての憲法の毒は、同じ革命の毒を孕んだ新しい憲法を制定したり、憲法改正を行うことによって強化されることはあっても、弱められることはない。
日本国憲法の制定という革命がいやだからといって、憲法改正という別の革命を起こしても、革命の毒から逃れられないのは、当たり前の話である。
それは顔についた泥を、泥だらけの手で拭っても、よけいに泥だらけにしてしまうのと似ている。
憲法にこだわればこだわるほど、日本は自然国家という本来のあり方から離れて人工国家と化してしまう。
「革命の産物」としての、日本国憲法の毒が弱められる現実的な方途、日本国憲法が「無効化」される現実的な方途は、唯一、それをいじることなく放置して、その形骸化を図ることである。
かき回さなければ泥はやがて水の中に沈殿していき、水は透明となる。
同じように近代憲法という革命の毒が沈殿していくのを、我々は静かに待つべきなのだ。
ちょうど古代に制定された律令制が、長い時間をかけて形骸化し、その形骸化していく過程の中に、日本の本来の形が浮かび上がっていったように、我々も、何百年と日本国憲法を放置するうちに、やがてその中に、日本の本来の姿が自ずから浮かび上がるのを待つべきである。
憲法改正や、憲法破棄という人為的な方法によって、憲法を乗り越えるというやり方は、日本的なやり方ではない。
日本人の歴史的歩みの総体の中に、日本国憲法すらも静かに包摂していく。そして、その中に溶かし去っていく。
イギリスのように、長い時間をかけて、過去のあらゆる法体系の一部として日本国憲法が位置付けられ不文憲法化していくのを静かに待つ。
それが日本的なやり方である。
過去を否定し、そこからの断絶だの、脱却だの、破棄だのを図るのは、日本人の所作ではない。
過去との連続性と、継承の上に、未来を創っていく。
憲法というものが本来的に孕む近代主義の毒を知り、日本人が、愛国・保守の立場から、「憲法改正」だの「憲法破棄」だのといった迷妄を破り、「言挙げせぬ国」としての日本の本質に目覚めんことを願う。
フランス革命やアメリカ独立戦争という、王権や過去の歴史との切断の後、新たに人工的な国家を建設しようとした際に要請されたものが、さまざまな宣言や憲法という文言であった。
だから、王権が倒されなかったイギリスには憲法はない。議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等のうち、国家の性格を規定するものの集合体が憲法とみなされている。
フランスやアメリカが、憲法によって、過去の歴史からの切断の上に国家を規定するのに対して、イギリスは、過去の歴史的歩みの総体の上に国家を位置づけている。
日本もイギリスの形に習うべきであったが、明治政府が採用したのは、プロイセンの欽定憲法だった。
1871年まで、さまざまな領邦国家に分かれていたドイツには、統一国家は存在しなかった。
ナショナリズムと啓蒙主義の高まりの中で、1848年、フランクフルト国民議会が憲法制定によってドイツの統一を図り、プロイセン王国の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に帝位と憲法を捧げようとしたが、プロイセン王は、自由主義者たちによる下からの統一を嫌って戴冠を拒否。
1850年に欽定憲法を定めて、1871年、次のプロイセン国王ヴィルヘルム1世が、ドイツ皇帝として戴冠し、統一ドイツが生まれた。
ドイツがさまざまな領邦国家に分かれていた様子は、日本の江戸時代の幕藩体制と似ていなくはないが、鎌倉時代以降の封建制の時代にも、万世一系の天皇が存在し続けていた日本と異なり、プロイセン国王がドイツを統一した歴史は過去にはない以上「ドイツ帝国」は、半ば「人工国家」として建設されたとも言える。
ドイツの欽定憲法すらが、日本という世界でもっとも古い「自然国家」という国体にはそぐわない、ごわごわとした「西洋の洋服」だったのだ。
明治体制が孕んだ矛盾は明治憲法だけではないのだが、それらの矛盾が噴出する形で、やがて明治体制が第二次世界大戦における敗戦という破綻を迎えたのは、歴史の必然であったとも言える。
そして、戦後、アメリカによって日本国憲法が日本にもたらされた。
日本国憲法が、他のあらゆる憲法と同様、過去からの切断や人工国家の創出という、「革命の産物」という性格をもつことはいうまでもない。
しかし「革命の産物」としての憲法の毒は、同じ革命の毒を孕んだ新しい憲法を制定したり、憲法改正を行うことによって強化されることはあっても、弱められることはない。
日本国憲法の制定という革命がいやだからといって、憲法改正という別の革命を起こしても、革命の毒から逃れられないのは、当たり前の話である。
それは顔についた泥を、泥だらけの手で拭っても、よけいに泥だらけにしてしまうのと似ている。
憲法にこだわればこだわるほど、日本は自然国家という本来のあり方から離れて人工国家と化してしまう。
「革命の産物」としての、日本国憲法の毒が弱められる現実的な方途、日本国憲法が「無効化」される現実的な方途は、唯一、それをいじることなく放置して、その形骸化を図ることである。
かき回さなければ泥はやがて水の中に沈殿していき、水は透明となる。
同じように近代憲法という革命の毒が沈殿していくのを、我々は静かに待つべきなのだ。
ちょうど古代に制定された律令制が、長い時間をかけて形骸化し、その形骸化していく過程の中に、日本の本来の形が浮かび上がっていったように、我々も、何百年と日本国憲法を放置するうちに、やがてその中に、日本の本来の姿が自ずから浮かび上がるのを待つべきである。
憲法改正や、憲法破棄という人為的な方法によって、憲法を乗り越えるというやり方は、日本的なやり方ではない。
日本人の歴史的歩みの総体の中に、日本国憲法すらも静かに包摂していく。そして、その中に溶かし去っていく。
イギリスのように、長い時間をかけて、過去のあらゆる法体系の一部として日本国憲法が位置付けられ不文憲法化していくのを静かに待つ。
それが日本的なやり方である。
過去を否定し、そこからの断絶だの、脱却だの、破棄だのを図るのは、日本人の所作ではない。
過去との連続性と、継承の上に、未来を創っていく。
憲法というものが本来的に孕む近代主義の毒を知り、日本人が、愛国・保守の立場から、「憲法改正」だの「憲法破棄」だのといった迷妄を破り、「言挙げせぬ国」としての日本の本質に目覚めんことを願う。
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