慰安婦芸人と路傍の石
二項対立のロジックを打ち破るもの。
外国人の慰安婦問題に関する見方を変革する代わりに、その華麗なパフォーマンスによって、日本の「保守」の人々を熱狂させた「慰安婦芸人」谷山雄二朗氏が、「欧米人にとってあまりに不快な映画であり、日本人の印象を貶め、日本に被害を与えることになる」と、アメリカ人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏に酷評されることになる「スコッツボローガールズ」という映画を製作していたとき、WJFプロジェクトは何をしていたでしょうか。
WJFプロジェクトは「地面の石ころ」のような慰安婦動画を作ろうとしていました。
「地面の石ころ」のような慰安婦動画とは、一体なんなのか。
次の古い記事の引用を読んでいただければ、イメージしていただけるかもしれません。
「地面の石ころ」とは、右か左か、あれかこれか、あったかなかったか、性奴隷か売春婦かといった、二項対立の問いの向こう側の広がる「多様なあるがままの事実の世界」に、ただ黙って転がっている、なんでもない石ころです。
事実を語る動画というものは、なんでもない石ころが転がっている、なんでもない地面から語りかけるものでなくてはならないし、二手に分かれて争っている人々をふたたび、なんでもない地面に連れ戻すものでなくてはなりません。
その意味で、WJFプロジェクトは、「地面の石ころ」のような慰安婦動画を作ろうと苦心していました。
あまりにも、人々に気づかれず、振り向かれない動画になってしまったのは、「地面の石ころ」に近づきすぎた結果かもしれません。
同じ趣旨のことを、次のようにも語りました。
WJFプロジェクトが、「嫌韓」と「反日」、二手に分かれて反目し合う人々の垂直方向上方から舞い落ちるものを手にとって差し出そうとしていたとき、では、例の「慰安婦芸人」は、何を語ろうとしていたか。
谷山氏は、例によって
「慰安婦は、性奴隷と売春婦のどちらなのか」
という「保守」の間に流布され、使い古されてきた二項対立を振りかざして、人々をいずれか片方の立場の中に囲い込み、閉じ込めようとしています。
ここで首をかしげざるをえないのは、谷山雄二朗氏は、みなさんもご存知のように、英語に堪能であり、慰安婦に関する英語の文献を何冊も原文で読み、「スコッツボロボーイズ事件」を知っているほどアメリカ現代史に精通しており、原稿もみずに滔々とスピーチできるほど優秀な頭脳をおもちの方ですが、彼は、英語圏では、「性奴隷」という言葉が、下の図のように「売春婦」という概念と重なる部分をもつ言葉として用いられているという基本的なことをご存知なかったのでしょうか。

そんなはずはありません。英語のニュースや新聞記事に日常的に触れていれば、「性奴隷」という言葉が売春婦も含めて使われていることぐらい、誰でも簡単に確認できる事実だからです。
英語圏における「性奴隷」の意味をご存知であるはずの谷山氏は、どんなに「慰安婦は売春婦であった」という事実を示したところで、論理上、「慰安婦は性奴隷ではない」ということを示すことにはならないことぐらいお分かりになるはずです。
どうしてそのことをわかっていながら、
「慰安婦は、性奴隷と売春婦のどちらなのか」
というナンセンスな問いを、谷山氏は続けるのでしょうか。
この二項対立の問題設定では、慰安婦問題は、永遠に答えにたどり着かず、「慰安婦は性奴隷だ」という全称命題を掲げる人々と「慰安婦は売春婦だ」という全称命題を掲げる人々の争いは延々と続き、国民はいつまでも、二分化されたままです。
「慰安婦芸人」が、二項対立のロジックを好み、国民の二分化を煽り立てるようなパフォーマンスを続けるのと対照的に、「地面の石ころ」を目指した「慰安婦神話の脱神話化」は、国民の二分化を脱するような、包摂的、包括的、俯瞰的、媒介的、多元的なロジックを採用しています。
このロジックこそ、反日勢力がけぎらいするロジックです。
これでは、日本人をあおり立てたり、囲い込んだりすることができないからです。
「慰安婦神話の脱神話化」が彼らに黙殺される理由の一つがここにあると考えています。
WJFプロジェクトは「地面の石ころ」のような慰安婦動画を作ろうとしていました。
嘘や煽動に満ちた醜悪でインチキでくだらない「保守」言論人の世界と異なり、芸術において、嘘は成立しません。
素の姿で歌う人がそこにあり、素の姿で歌われる歌がただそこにあるだけです。
太陽がただ空をめぐり、石ころがただ地面に横たわるように。
慰安婦の動画も、どれだけ地面の石ころに近づけるでしょうか。
(出典: WJFプロジェクト「芸術は嘘をつかない」2013年10月01日)
「地面の石ころ」のような慰安婦動画とは、一体なんなのか。
次の古い記事の引用を読んでいただければ、イメージしていただけるかもしれません。
「慰安婦は性奴隷だ」
と述べる事も、
「慰安婦は性奴隷ではない」
と述べる事も、
「慰安婦」と呼ばれた、生身の人間の集団に関する多様な事実からは、乖離しています。
しかし、国民は、
「慰安婦は性奴隷だ」
という全称命題を掲げる人々と、
「慰安婦は性奴隷ではない」
という全称命題を掲げる人々に、
二分されてきました。
慰安婦問題は、国民を二つに切り分ける装置として機能しているのです。
慰安婦問題は、また、誤報を行った朝日新聞ら「左派」を叩く事によって、自民党のような「右派」が正しいかのように見せかける装置としても役立っています。
慰安婦問題などの「歴史問題」は、「構造改革」を誘発する装置としても機能しています。
私たちは、
「慰安婦は性奴隷か、性奴隷ではないのか」
「慰安婦は売春婦なのか、性奴隷なのか」
という二元的な問いの向こうに、
「歴史問題」と「構造改革」
「右翼」と「左翼」
の間の振り子運動の向こうに、
元来広がっている、多様なあるがままの事実の世界に目を向けなくてはなりません。
事実の世界に回帰した上で、その白でも黒でも右でも左でもないなんでもない場所から、再び、あれかこれかという問いを問い直さなくてはなりません。
事実の世界に回帰することなく、事実から乖離した特定の命題や立場の中に閉じ込められたまま、いつまでも、互いを叩き合っていても、仕方がないのです。
(出典: WJFプロジェクト「国民を切り分ける装置としての慰安婦問題」2014年9月17日)
「地面の石ころ」とは、右か左か、あれかこれか、あったかなかったか、性奴隷か売春婦かといった、二項対立の問いの向こう側の広がる「多様なあるがままの事実の世界」に、ただ黙って転がっている、なんでもない石ころです。
事実を語る動画というものは、なんでもない石ころが転がっている、なんでもない地面から語りかけるものでなくてはならないし、二手に分かれて争っている人々をふたたび、なんでもない地面に連れ戻すものでなくてはなりません。
その意味で、WJFプロジェクトは、「地面の石ころ」のような慰安婦動画を作ろうと苦心していました。
あまりにも、人々に気づかれず、振り向かれない動画になってしまったのは、「地面の石ころ」に近づきすぎた結果かもしれません。
同じ趣旨のことを、次のようにも語りました。
「嫌韓」と「反日」が、互いに鏡写しの行動をとり、対立を煽り、「対称性の構図」を描きながら、大衆を巻き込んだ大騒ぎを展開する一方で、事実は、日の光のように、慈雨のように、桜の花びらのように、雪の結晶のように、垂直方向上方からやさしく降り注ぐ何かです。
ということは、事実を語ろうとするとき、私たちは互いに拳を振りかざしながら、水平方向をにらみ合う代わりに、誰のものでもない空を見上げなくてはなりません。
そこから舞い落ちてくるものをやさしく手のひらに受け止めて差し出すこと。
それが事実を語ることなのであって、狭い「立場」の中から自分を解き放ち、二元的な対立の外側にすっと抜け出して、広い場所に佇むことのできる人だけが、事実を語る資格を持ちます。
(出典: WJFプロジェクト「事実は日の光のように慈雨のように降り注ぐ(4)」2015年4月4日)
WJFプロジェクトが、「嫌韓」と「反日」、二手に分かれて反目し合う人々の垂直方向上方から舞い落ちるものを手にとって差し出そうとしていたとき、では、例の「慰安婦芸人」は、何を語ろうとしていたか。
韓国政府は、「元慰安婦の方々は、日本軍に拉致され、強制連行された性奴隷だった」と語っています。
それに対し、日本側は、「慰安婦は金銭を受け取る軍人向け売春婦だった」と繰り返している。
つまり、どちらかが嘘をついていることになります。
東京なのか、ソウルなのか。
(出典「スコッツボローガールズ・トレーラー」1:30〜)
谷山氏は、例によって
「慰安婦は、性奴隷と売春婦のどちらなのか」
という「保守」の間に流布され、使い古されてきた二項対立を振りかざして、人々をいずれか片方の立場の中に囲い込み、閉じ込めようとしています。
ここで首をかしげざるをえないのは、谷山雄二朗氏は、みなさんもご存知のように、英語に堪能であり、慰安婦に関する英語の文献を何冊も原文で読み、「スコッツボロボーイズ事件」を知っているほどアメリカ現代史に精通しており、原稿もみずに滔々とスピーチできるほど優秀な頭脳をおもちの方ですが、彼は、英語圏では、「性奴隷」という言葉が、下の図のように「売春婦」という概念と重なる部分をもつ言葉として用いられているという基本的なことをご存知なかったのでしょうか。

そんなはずはありません。英語のニュースや新聞記事に日常的に触れていれば、「性奴隷」という言葉が売春婦も含めて使われていることぐらい、誰でも簡単に確認できる事実だからです。
英語圏における「性奴隷」の意味をご存知であるはずの谷山氏は、どんなに「慰安婦は売春婦であった」という事実を示したところで、論理上、「慰安婦は性奴隷ではない」ということを示すことにはならないことぐらいお分かりになるはずです。
どうしてそのことをわかっていながら、
「慰安婦は、性奴隷と売春婦のどちらなのか」
というナンセンスな問いを、谷山氏は続けるのでしょうか。
この二項対立の問題設定では、慰安婦問題は、永遠に答えにたどり着かず、「慰安婦は性奴隷だ」という全称命題を掲げる人々と「慰安婦は売春婦だ」という全称命題を掲げる人々の争いは延々と続き、国民はいつまでも、二分化されたままです。
「慰安婦芸人」が、二項対立のロジックを好み、国民の二分化を煽り立てるようなパフォーマンスを続けるのと対照的に、「地面の石ころ」を目指した「慰安婦神話の脱神話化」は、国民の二分化を脱するような、包摂的、包括的、俯瞰的、媒介的、多元的なロジックを採用しています。
このロジックこそ、反日勢力がけぎらいするロジックです。
これでは、日本人をあおり立てたり、囲い込んだりすることができないからです。
「慰安婦神話の脱神話化」が彼らに黙殺される理由の一つがここにあると考えています。
