グローバリズムがもたらす社会

笑顔の消えた、悲痛に満ちた社会。
この記事は、旧ブログ「グローバリズムがもたらす社会」(2013年2月23日)の再掲です。よしふるさんが記事を動画化してくださった機会に再掲させていただきます。

グローバリズムとは何でしょうか。

それはどのような社会をもたらすでしょうか。

その最も典型的で極端な例を、私たちは朝鮮の歴史の中に見いだすことができます。

なぜなら、長い間、朝鮮が組み込まれていた中華体制(冊封体制)とは、国家の枠を超えた一種のグローバリズムに他ならなかったからです。

ハーバード大学の朝鮮史の教授、カーター・J・エッカートの『日本帝国の申し子』には次のように書かれています。

事大主義の遺産

朝鮮の学者は南北を問わず、ナショナリズムという見地から朝鮮の歴史を説明しようとする。しかし朝鮮におけるナショナリズムは歴史が浅く、19世紀後半に帝国主義への反動から生まれ、植民地統治の経験を経て強まったものである。もちろんそれまでにも朝鮮人は民族、言語ともに周囲の国とは異なることを自覚していたし、王や支配王朝に対しても忠誠心を抱いていた。しかし、19世紀後半までは、国家としての「朝鮮」という概念や、同じ半島に住む同胞の「朝鮮人」に対する忠誠心はむしろ希薄だった。それよりはるかに強かったのは、王に対する忠誠心に加えて、村や地域、そして何よりも氏族、家系、肉親、血縁集団への帰属意識だったのである。

とくに支配階級にとっては、ナショナリズムという概念はなじめないどころか、野蛮なものにさえ映ったことだろう。少なくとも7世紀以降、支配階級は文化的にはみずからを朝鮮人というより、中国を中心とする大きな世界文明の一員と考えていた。朝鮮の王位は、かたちの上では中国の皇帝によって与えられる地位であったし、宮廷人や貴族の間では中国語が書き言葉として用いられた。また中国の哲学や文学の古典が、あらゆる教育の基礎となっていた。朝鮮の支配階級にとって、中国文化に触れないことは野蛮人となるに等しかったのである。

李朝の初期、こうした中国文化崇拝は、事大主義と呼ばれる外交政策として具体化する。事大(サデ)とは「偉大なる物につかえること」で、「偉大なるもの」とはすなわち中国に他ならなかった。ある意味で、事大主義は巧妙な外交戦術ともいえ、これによって朝鮮は偉大なる国家(当時の一般的な儒教用語でいうところの「兄」)から恩寵、庇護、そして洗練された文化を手に入れたのである。しかし一方で外国に対するこのような崇拝と服従は、朝鮮の支配階級に存在しえたかもしれない民族意識を多いに弱めることになった。

(中略)

1876年以降、ナショナリズムが成長する一方で、みずからのアイデンティティを異文化の枠組みの中に見いだすという支配階級の伝統的な傾向は、植民地時代にも引き継がれたようだ。彼らは文明の中心を中国から日本に置きかえ、日本を朝鮮の「兄」と見なした。

(出典: カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子』)

朝鮮のようにグローバル秩序に組み込まれた国では、その支配階級は、自らをその国家の一員としてではなく、グローバル秩序の一員として認識するようになります。そして自国の残りの人々を、グローバル秩序(文明)の外側にいる存在として、搾取の対象として扱うようになります。

つまり、グローバル秩序の中に組み込まれた国では、国民は「良民」と「賤民」の二つに二分されていきます。

WJFプロジェクトの動画「日韓紛争概説『危機に瀕する日本』第二巻: セックスと嘘と従軍慰安婦」の第二章は、まさに、朝鮮における、その問題を取り上げています。
第2章: 李氏朝鮮

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人々がつねに笑顔で暮らしていた日本と、人々がつねに悲痛な表情で暮らしていた朝鮮。

上の当時東アジアを訪問した外国人による記述をよめば、19世紀までの日本と朝鮮の社会は大きく異なっていたことがわかります。

なぜこんなにも異なっていたのか。

それは日本が、朝鮮とは異なり、中華体制のようなグローバル秩序には組み込まれておらず、国家の独立を守っていたからに他なりません。

独立した国家では、為政者は、自らの民の利益のために政治を行わざるを得ないからです。

江戸時代、世界にまれに見る善政が行われたのは、日本が鎖国をし、国家の独立を守り抜いていたことと無関係ではありません。

その一方、朝鮮のようなグローバル秩序に組み込まれた国家では、為政者は、自らの民の利益は二の次、三の次にしてでも、グローバル秩序の利益のために政治を行うことを余儀なくされます。

今、日本は、中華体制に組み込まれた朝鮮のように、TPPを通して、国家の枠組みを超えた、グローバルな秩序に組み込まれようとしています。

為政者は、すでに、国民の利益ではなく、グローバル秩序の利益のために、政治を行いつつあります。

そのことは、現在の政治家の行動を見ればはっきりと見て取ることができます。

この傾向は、現在の安倍政権にも、如実に現れています。

TPPや道州制のように、国民にとってはなんのメリットもない政策を、どうして、日本の政治家は執拗に導入しようとするのでしょうか。

それは、彼らが、既に、「国民」の側ではなく、「グローバル秩序」の側に立っているからに他なりません。

国家の機能を弱め、国民に犠牲を強いてでも、グローバル秩序の利益のために、政治を行おうとする立場を「新自由主義」と言います。

安倍政権は、この傾向を強く帯びています。

安倍政権の閣僚は「新自由主義者」で固められています。

安倍総理自身が「新自由主義者」であることは、安倍総理自身の過去の来歴や発言をしらべれば、簡単に確かめられる事実です。

日本がグローバルな秩序に完全に組み込まれてしまったとき、待ち受けているのは、朝鮮と同じく、国民の「良民」と「賤民」への徹底した二分化です。

この階層差は、小泉政権以来、すでに「正社員」と「契約社員・派遣労働者・パート」などの二分化として私たちの社会に現れていますが、この傾向は、今後、ますますひどくなっていきます。

社会のごく一握りの人が、たとえばグローバル企業の社員のような「グローバル秩序」の一員として、その恩恵に預かり、他の国民は、「グローバル秩序」の利益のために、奴隷のように虐げられた生活を送らざるを得なくなっていきます。

国家の枠組みや、国家の自主独立は、国民の格差を軽減し、国民の一致と団結を守っていくためにも、これから、絶対に守っていかなくてはならないものです。

国民の利益ではなく、「グローバルな秩序」の利益のために政治を行うような政治家を排除し、真に国民のための政治が行われるようにするためにも、「日本の独立」というものを、これから、なんとしても回復していかなくてはなりません。

「日本の独立」の回復のために最も必要なことは、国民がそれを願うことだと思います。

ある意味、必要なことは、ただそれだけと言っても過言ではありません。

なぜなら、日本は、自分の足で立つ潜在的な力を十分に備えているからです。

戦後の教育により、日本人は自分の足で立つことができないと、思い込まされてきました。

必要なのは、その思い込みを振り払って、私たちが自分の足で立てることに気づくことであり、

また、自分の足で立ちたいと、願うことだけだと思います。
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