誹謗中傷を超えて
事実を語る、世界の小さな構成要素として。
2013年に、安倍政権の危険性を警告するWJFプロジェクトの記事を動画にして、さかんにニコニコ動画に公開してくださっていたよしふるさんが、最近、再び、WJFプロジェクトの記事を動画にしてくださっています。
(動画のコメント一覧)
以前と異なるのは、コメント欄での人々の反応です。
二年前には、WJFプロジェクトやよしふるさんに対する罵詈雑言で動画が埋め尽くされていました。
下はその一例です。
(動画のコメント一覧)
しかし、今は、動画の主張に共感するコメントが多く見られます。
安倍政権が発足して一週間も経たない、2013年1月1日に、「2013年」という記事で安倍政権の危険性に警鐘を鳴らし始めてから、WJFプロジェクトは、ありとあらゆる誹謗中傷を浴びてきました。
下はそのほんの一例です。



(出典: Yahoo知恵袋)
悪口を言う人の数は減ったものの、WJFプロジェクトのいたらなさにも原因はあるのですが、WJFプロジェクトの主張は、いまだ十分に多くの人たちに届き、理解されているとは言えません。
しかし、WJFプロジェクトを2011年8月に立ち上げて、一番最初に記した下のブログの記事の通り、嘘、偽り、つじつまの合わないデタラメばかりがまかり通る世の中にあって、勇気をもって事実を語る、世界の小さな構成要素であり続けたいと願っています。
それは、同じパスカルの言葉を借りるならば、右にも左にもぶれない、一つの定点として立ち続けるためです。
(動画のコメント一覧)
以前と異なるのは、コメント欄での人々の反応です。
二年前には、WJFプロジェクトやよしふるさんに対する罵詈雑言で動画が埋め尽くされていました。
下はその一例です。
(動画のコメント一覧)
しかし、今は、動画の主張に共感するコメントが多く見られます。
安倍政権が発足して一週間も経たない、2013年1月1日に、「2013年」という記事で安倍政権の危険性に警鐘を鳴らし始めてから、WJFプロジェクトは、ありとあらゆる誹謗中傷を浴びてきました。
下はそのほんの一例です。



(出典: Yahoo知恵袋)
悪口を言う人の数は減ったものの、WJFプロジェクトのいたらなさにも原因はあるのですが、WJFプロジェクトの主張は、いまだ十分に多くの人たちに届き、理解されているとは言えません。
しかし、WJFプロジェクトを2011年8月に立ち上げて、一番最初に記した下のブログの記事の通り、嘘、偽り、つじつまの合わないデタラメばかりがまかり通る世の中にあって、勇気をもって事実を語る、世界の小さな構成要素であり続けたいと願っています。
「クレオパトラの鼻がもう少し短かったら 世界の顔は変わったであろう」
パスカルは、死後に「パンセ」としてまとめられることになった思索の断片ノートにこう書き残していました。
歴史を動かしているのは、一部の権力者の意志ではなく、自然のささやかな偶然や世界を構成するごく微小な要素であると言い当てた言葉でしょうか。
クレオパトラの鼻どころか、現代は俳優の小さなつぶやきですら、日本の歴史をぬりかえてしまう時代です。
ひとつの小さな動画だって、長く見続けられることによって、きっと日本や世界を根底から作り替える力をもつ。 そんな意気込みと目論見で動画を作成しています。
高岡蒼甫さんについて。
正直な言葉、正直な人間のもつ力ってものすごいと思いました。
彼の言葉には、いまや評論家やテレビコメンテーターの言葉の何千倍もの力があります。
彼と同じ勇気を日本の小さな構成要素である私たち一人一人がそれぞれの場所で奮い、
正直な言葉を語って行くなら日本には大きな変化がきっと訪れると思いました。
正直はやはり最良の策です。
正直者がバカを見るのはあくまで一時的なことであり、
最終的に朽ち滅んでいくのは、常に嘘をつく側の人々です。
クレオパトラの鼻であれ、俳優のつぶやきであれ、YouTubeの短い動画であれ、
あるがままの事実とその表明は、一部の人々の恣意や権力意志に打ち克って
新しい歴史を作っていきます。
(出典: WJFプロジェクト「クレオパトラの鼻」2011年8月2日)
それは、同じパスカルの言葉を借りるならば、右にも左にもぶれない、一つの定点として立ち続けるためです。
« Quand tout se remue également, rien ne se remue en apparence, comme en un vaisseau. Quand tous vont vers le débordement, nul n’y semble aller : celui qui s’arrête fait remarquer l’emportement des autres, comme un point fixe. »
「すべてのものが一様に揺れ動くなら、ちょうど船中にいるようなもので外見上は何一つ動かない。すべての人が放埒に向かってゆくならば誰もそこへ向かってゆくようには見えない。足を止めている人は、ちょうど一定点のようにして、他の人々の激動を示してくれる。」
(パスカル『パンセ』プロンシュヴィック版断章382、津田穣訳)
