日韓は独仏と異なる(1)
イギリスの傀儡としての明治政府。
下のような記事が話題になっています。
フランス外相の指摘の通りであり、第二次世界大戦において、ドイツとフランスの間に起きたことと、19世紀後半から、第二次世界大戦の終結までに、日本と朝鮮(韓国)の間に起きたことは全く異なります。
その違いを端的に述べれば、第二次世界大戦勃発当時、ドイツも、フランスも、互いに独立した国民国家であったのに比して、朝鮮は、西洋の帝国主義が東アジアに押し寄せた19世紀に、独立した国家ではなかった、「国家」や「民族」という明確な概念すらも存在しなかったという事情があります。
当時の東アジアがどういう状態であったかを振り返れば、冊封体制(中華体制)という、中華帝国を中心とした、グローバルな秩序が支配しており、朝鮮もこれに参加していました。
「朝鮮人」という民族意識は共有されておらず、朝鮮の支配階級であった両班は、自分たちを朝鮮人としてではなく、中華体制というグローバル秩序の成員と見なし、本来は同胞として扱われるべき人々を、賤民として、動物のように虐げていました。
下は、以前にも当ブログで紹介したことのある、ハーバード大学の朝鮮史の教授、カーター・J・エッカートの『日本帝国の申し子』からの引用です。
このように、近代的な意味での「国家」という明確な概念を持たなかった世界の他地域を、「国民国家」という概念を他の地域に先駆けて樹立し、産業革命によって原料の供給地と市場の拡大を求められた西洋各国は、「無主地」と見なして進出していき、次々に植民地化していきました。
しかし、中華体制というグローバルな秩序を早い段階に離脱していた日本には、「国民国家」に近似した、国内で完結した権力の秩序と、外国の侵略から自国を守ろうとする防衛意識と、国学の隆盛等によるナショナリズムがすでに定着していました。
ナショナリズムを、中華体制というグローバルな秩序に亀裂を生じさせる野蛮なもの、中華文明に劣る土着の意識に基づく卑しむべきもの、とみなした朝鮮とは、対照的な国の姿がそこにはありました。
西洋人たちは、強い民族意識と攘夷思想を持つ屈強な侍たちが津々浦々に陣取っていた日本を、植民地として直接支配するコストを支払う代わりに、近代的な「国民国家」としての国家再編に協力することで、彼らの傀儡として日本を間接的に支配する方法を選びました。
イギリスは、薩長を介した天皇を中心とした国家再編を構想し、フランスは江戸幕府による日本の近代国家への再編を構想しましたが、結局は、イギリス=薩長連合が、フランス=幕府連合に勝利しました。
当時、ロシアの南下政策を恐れていたイギリスにとって、東アジアに、武装した好戦的な傀儡国家を持つことは大きな利がありました。
第二次世界大戦後に、アメリカが、ソ連や共産主義の南下を防ぐ防波堤として、韓国や日本という傀儡を必要としたのと同じように。
(つづく)
日韓は「独仏と異なる」=歴史問題で見解-仏外相
フランスのファビウス外相は14日、東京都内の仏大使公邸で記者会見し、フランスとドイツを引き合いに、日本に歴史認識での反省を求めた韓国外務省当局者の発言に関し、「(仏独と)アジアでは取り巻く状況も地理的条件も異なることを忘れてはいけない」と述べ、単純に比較できないとの見解を示した。
ファビウス外相は「仏独は(歴史上)互いを侵略したが、第2次大戦終結を機に和解した。今では世界で最も仲の良い国だ」と強調。「そこから何か感じてもらえると思う」と語った。
また、ウクライナ政府軍と親ロシア派の新たな停戦合意から1カ月を迎えるウクライナ東部情勢について、ファビウス外相は「おおむね停戦は守られている」と評価。その上で「緊張感が残るのは事実だ。ウクライナ東部に独立性を持たせることが求められる」と指摘し、東部への自治権付与を盛り込む停戦合意の着実な履行を訴えた。
(出典: 時事 2015年3月14日)
フランス外相の指摘の通りであり、第二次世界大戦において、ドイツとフランスの間に起きたことと、19世紀後半から、第二次世界大戦の終結までに、日本と朝鮮(韓国)の間に起きたことは全く異なります。
その違いを端的に述べれば、第二次世界大戦勃発当時、ドイツも、フランスも、互いに独立した国民国家であったのに比して、朝鮮は、西洋の帝国主義が東アジアに押し寄せた19世紀に、独立した国家ではなかった、「国家」や「民族」という明確な概念すらも存在しなかったという事情があります。
当時の東アジアがどういう状態であったかを振り返れば、冊封体制(中華体制)という、中華帝国を中心とした、グローバルな秩序が支配しており、朝鮮もこれに参加していました。
「朝鮮人」という民族意識は共有されておらず、朝鮮の支配階級であった両班は、自分たちを朝鮮人としてではなく、中華体制というグローバル秩序の成員と見なし、本来は同胞として扱われるべき人々を、賤民として、動物のように虐げていました。
下は、以前にも当ブログで紹介したことのある、ハーバード大学の朝鮮史の教授、カーター・J・エッカートの『日本帝国の申し子』からの引用です。
事大主義の遺産
朝鮮の学者は南北を問わず、ナショナリズムという見地から朝鮮の歴史を説明しようとする。しかし朝鮮におけるナショナリズムは歴史が浅く、19世紀後半に帝国主義への反動から生まれ、植民地統治の経験を経て強まったものである。もちろんそれまでにも朝鮮人は民族、言語ともに周囲の国とは異なることを自覚していたし、王や支配王朝に対しても忠誠心を抱いていた。しかし、19世紀後半までは、国家としての「朝鮮」という概念や、同じ半島に住む同胞の「朝鮮人」に対する忠誠心はむしろ希薄だった。それよりはるかに強かったのは、王に対する忠誠心に加えて、村や地域、そして何よりも氏族、家系、肉親、血縁集団への帰属意識だったのである。
とくに支配階級にとっては、ナショナリズムという概念はなじめないどころか、野蛮なものにさえ映ったことだろう。少なくとも7世紀以降、支配階級は文化的にはみずからを朝鮮人というより、中国を中心とする大きな世界文明の一員と考えていた。朝鮮の王位は、かたちの上では中国の皇帝によって与えられる地位であったし、宮廷人や貴族の間では中国語が書き言葉として用いられた。また中国の哲学や文学の古典が、あらゆる教育の基礎となっていた。朝鮮の支配階級にとって、中国文化に触れないことは野蛮人となるに等しかったのである。
李朝の初期、こうした中国文化崇拝は、事大主義と呼ばれる外交政策として具体化する。事大(サデ)とは「偉大なる物につかえること」で、「偉大なるもの」とはすなわち中国に他ならなかった。ある意味で、事大主義は巧妙な外交戦術ともいえ、これによって朝鮮は偉大なる国家(当時の一般的な儒教用語でいうところの「兄」)から恩寵、庇護、そして洗練された文化を手に入れたのである。しかし一方で外国に対するこのような崇拝と服従は、朝鮮の支配階級に存在しえたかもしれない民族意識を多いに弱めることになった。(中略)
1876年以降、ナショナリズムが成長する一方で、みずからのアイデンティティを異文化の枠組みの中に見いだすという支配階級の伝統的な傾向は、植民地時代にも引き継がれたようだ。彼らは文明の中心を中国から日本に置きかえ、日本を朝鮮の「兄」と見なした。
(出典: カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子』)
このように、近代的な意味での「国家」という明確な概念を持たなかった世界の他地域を、「国民国家」という概念を他の地域に先駆けて樹立し、産業革命によって原料の供給地と市場の拡大を求められた西洋各国は、「無主地」と見なして進出していき、次々に植民地化していきました。
しかし、中華体制というグローバルな秩序を早い段階に離脱していた日本には、「国民国家」に近似した、国内で完結した権力の秩序と、外国の侵略から自国を守ろうとする防衛意識と、国学の隆盛等によるナショナリズムがすでに定着していました。
ナショナリズムを、中華体制というグローバルな秩序に亀裂を生じさせる野蛮なもの、中華文明に劣る土着の意識に基づく卑しむべきもの、とみなした朝鮮とは、対照的な国の姿がそこにはありました。
西洋人たちは、強い民族意識と攘夷思想を持つ屈強な侍たちが津々浦々に陣取っていた日本を、植民地として直接支配するコストを支払う代わりに、近代的な「国民国家」としての国家再編に協力することで、彼らの傀儡として日本を間接的に支配する方法を選びました。
イギリスは、薩長を介した天皇を中心とした国家再編を構想し、フランスは江戸幕府による日本の近代国家への再編を構想しましたが、結局は、イギリス=薩長連合が、フランス=幕府連合に勝利しました。
当時、ロシアの南下政策を恐れていたイギリスにとって、東アジアに、武装した好戦的な傀儡国家を持つことは大きな利がありました。
第二次世界大戦後に、アメリカが、ソ連や共産主義の南下を防ぐ防波堤として、韓国や日本という傀儡を必要としたのと同じように。
(つづく)

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