陰謀と陰謀論
なぜ、陰謀論に共感をもてないか。
「陰謀」は、英語で"conspiracy"と言います。
語源をたどれば、con「共に」+ spiro「息をする」という意味です。
以前、"Dum spiro, spero." (While I breathe, I hope.) 「息をする限り、私は希望を持つ」というラテン語の表現を紹介したことがありますが、この表現を元に考えれば、「共に息をする」とは、「共に願いを共有する」という意味に敷衍することができるかもしれません。
こう考えると、世界は「陰謀」(共有された願い)にあふれています。
100の人間の集団があれば、100の「陰謀」(共有された願い)が存在するはずです。
自動車会社であれば、よい車を作って一台でも多く売ろうとする「陰謀」(共有された願い)をもっているはずですし、サッカーチームであれば、一点でもゴールネットをゆらそうとする「陰謀」(共有された願い)をもっています。
誰かの誕生日を祝おうとする少人数の一時的な集まりであっても、そこには「誕生日を祝おう」という「陰謀」(共有された願い)が存在します。
人間の集団が存在するところには、必ず何かの「陰謀」(共有された願い)が存在し、また反対に、何かの「陰謀」」(共有された願い)が存在するところには、必ず人間の集団が存在します。
しかし、特定の集団の「陰謀」(共有された願い)が、他の人間の集団の「陰謀」(共有された願い)を圧倒して、世界を一元的にコントロールするということは、果たしてあり得るのでしょうか。
自動車会社であれば、複数の会社が、互いによい車を作ろうとする「陰謀」(共有された願い)と「陰謀」(共有された願い)を戦わせて、しのぎを削り合います。
サッカーの試合であれば、一点でも多く得点を奪おうという二つのチームの「陰謀」(共有された願い)と「陰謀」(共有された願い)がぶつかり合います。
しかし、一つの会社や一つのチームの「陰謀」(共有された願い)のみが、恒常的に、他の会社やチームの「陰謀」(共有された願い)を完全な形で圧倒し続けるということは、通常起こり得ません。
現実の世界は、多様な勢力や集団の「陰謀」(共有された願い)が、複雑に交錯し、また拮抗して成り立っています。
現在、インターネット上には、さまざまな陰謀論がとびかい、特に安倍政権に批判的な人たちの間で、何かの陰謀論を振りかざすということが見られます。
ユダヤ人陰謀論、在日陰謀論、統一教会陰謀論、フリーメーソン陰謀論、イルミナティ陰謀論・・・
ユダヤ人であれ、在日であれ、統一教会であれ、フリーメーソンであれ、イルミナティであれ、特定の人間の集団が存在すれば、そこに「陰謀」(共有された願い)が存在するのは、誰にも否定することのできない明白な事実です。
よからぬ「陰謀」(共有された願い)をもつ権力集団が存在することを、私たちは否定すべきではありません。それは自動車会社やサッカーチームが、「陰謀」(共有された願い)を抱えているのと同じことだからです。
にも関わらず、私が陰謀論に共感が持てないのは、この世界には「陰謀」(共有された願い)などというものは存在しないと考えるからではなく、むしろこの世界はありとあらゆる種類の「陰謀」(共有された願い)にあふれており、特定の集団が仮にどんなにパワフルな権力をもつとしても、彼らの「陰謀」(共有された願い)だけが、他の様々な集団の「陰謀」(共有された願い)を圧倒して、一元的に世界をコントロールするなどということは現実に考えられないと思うからです。
また陰謀論を振りかざす人たちは、特定のパワフルな権力集団のみが「陰謀」(共有された願い)をもくろみ、それ以外の人間は、まるで、一方的に操られるだけの意思を持たない受身な客体にすぎないかのように語ります。そのような世界観や人間観にも、私はなじめません。まるで、特定集団の権力を誇大視することによって、私たちに意思の放棄を迫っているかのようにすら感じられるからです。
仮に全知全能のパワフルな権力を持ち、かつ何世代にもわたってその権力を継承できるような集団がこの地上のどこかに存在するとしても、彼らは、「今夜の夕飯はカレーライスにしよう」というある一家のささやかな「陰謀」(共有された願い)すら覆すことはできないではありませんか。
語源をたどれば、con「共に」+ spiro「息をする」という意味です。
以前、"Dum spiro, spero." (While I breathe, I hope.) 「息をする限り、私は希望を持つ」というラテン語の表現を紹介したことがありますが、この表現を元に考えれば、「共に息をする」とは、「共に願いを共有する」という意味に敷衍することができるかもしれません。
こう考えると、世界は「陰謀」(共有された願い)にあふれています。
100の人間の集団があれば、100の「陰謀」(共有された願い)が存在するはずです。
自動車会社であれば、よい車を作って一台でも多く売ろうとする「陰謀」(共有された願い)をもっているはずですし、サッカーチームであれば、一点でもゴールネットをゆらそうとする「陰謀」(共有された願い)をもっています。
誰かの誕生日を祝おうとする少人数の一時的な集まりであっても、そこには「誕生日を祝おう」という「陰謀」(共有された願い)が存在します。
人間の集団が存在するところには、必ず何かの「陰謀」(共有された願い)が存在し、また反対に、何かの「陰謀」」(共有された願い)が存在するところには、必ず人間の集団が存在します。
しかし、特定の集団の「陰謀」(共有された願い)が、他の人間の集団の「陰謀」(共有された願い)を圧倒して、世界を一元的にコントロールするということは、果たしてあり得るのでしょうか。
自動車会社であれば、複数の会社が、互いによい車を作ろうとする「陰謀」(共有された願い)と「陰謀」(共有された願い)を戦わせて、しのぎを削り合います。
サッカーの試合であれば、一点でも多く得点を奪おうという二つのチームの「陰謀」(共有された願い)と「陰謀」(共有された願い)がぶつかり合います。
しかし、一つの会社や一つのチームの「陰謀」(共有された願い)のみが、恒常的に、他の会社やチームの「陰謀」(共有された願い)を完全な形で圧倒し続けるということは、通常起こり得ません。
現実の世界は、多様な勢力や集団の「陰謀」(共有された願い)が、複雑に交錯し、また拮抗して成り立っています。
現在、インターネット上には、さまざまな陰謀論がとびかい、特に安倍政権に批判的な人たちの間で、何かの陰謀論を振りかざすということが見られます。
ユダヤ人陰謀論、在日陰謀論、統一教会陰謀論、フリーメーソン陰謀論、イルミナティ陰謀論・・・
ユダヤ人であれ、在日であれ、統一教会であれ、フリーメーソンであれ、イルミナティであれ、特定の人間の集団が存在すれば、そこに「陰謀」(共有された願い)が存在するのは、誰にも否定することのできない明白な事実です。
よからぬ「陰謀」(共有された願い)をもつ権力集団が存在することを、私たちは否定すべきではありません。それは自動車会社やサッカーチームが、「陰謀」(共有された願い)を抱えているのと同じことだからです。
にも関わらず、私が陰謀論に共感が持てないのは、この世界には「陰謀」(共有された願い)などというものは存在しないと考えるからではなく、むしろこの世界はありとあらゆる種類の「陰謀」(共有された願い)にあふれており、特定の集団が仮にどんなにパワフルな権力をもつとしても、彼らの「陰謀」(共有された願い)だけが、他の様々な集団の「陰謀」(共有された願い)を圧倒して、一元的に世界をコントロールするなどということは現実に考えられないと思うからです。
また陰謀論を振りかざす人たちは、特定のパワフルな権力集団のみが「陰謀」(共有された願い)をもくろみ、それ以外の人間は、まるで、一方的に操られるだけの意思を持たない受身な客体にすぎないかのように語ります。そのような世界観や人間観にも、私はなじめません。まるで、特定集団の権力を誇大視することによって、私たちに意思の放棄を迫っているかのようにすら感じられるからです。
仮に全知全能のパワフルな権力を持ち、かつ何世代にもわたってその権力を継承できるような集団がこの地上のどこかに存在するとしても、彼らは、「今夜の夕飯はカレーライスにしよう」というある一家のささやかな「陰謀」(共有された願い)すら覆すことはできないではありませんか。
かねがね、ペシミスティックな陰謀論の類いが好きではないと繰り返し申し上げていますが、その理由は、陰謀論者たちが、国家の消滅という陰謀を企てる人々の執拗な「意志」を熱心に語ることがあっても、国家をあらしめようとする私たちの側の「希望」や「意志」をそれほど熱心には語ろうとしないからです。
陰謀論者たちが、富や権力を握るグローバリストたちの隠された「陰謀」を親切に私たちに解き明かすことによって、国家を維持しようとする私たちの「希望」や「意志」を打ち砕き、一種の諦念に導こうとするならば、彼らは「陰謀」を企てるグローバリストたちに加担しているにすぎません。となると、陰謀論者すらも、実は私たちの味方であるふりをしながら、私たちに「無駄な抵抗はやめよ」と武装解除を説得するグローバリストたちが派遣した洗脳部隊であるのかもしれないのです。
国家を消滅させようと「陰謀」を企むパワフルな人々がいるならば、私たちも国家をあらしめようとする「陰謀」を企めばよい。そのレジスタンスが千年も二千年も継続されることになろうとも、私たちは強い「希望」と「意志」をもって戦い続ければよい。その「希望」と「意志」を、ひとつの物語として、生まれくる新しい日本人たちに語り継いでいけばよい。
しかし、「希望」や「意志」ではなく、誤った幻想が、破滅へとさらに私たちを追いやるならば、私たちはその幻想から目覚めなくてはなりません。
私たちが「希望」や「意志」の力で国家を維持しなくてはならないときに、国家を消滅させようとする勢力の側に立つグローバリストの政治家を、間違っても支持するなどということがあってはならないのです。
(出典: WJFプロジェクト「事実と幻想」2013年8月28日)
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