グローバリズムと神道(27)
日本書紀に見る日本の「基部構造」(8)
「天神」と「地祇」。
それぞれの最重要の神様である、アマテラスとオオクニヌシを、大和の地に等しくお祀りした崇神天皇。
皇居から奈良県桜井市の三輪山の麓にあったとされる笠縫邑(かさぬいむら)に移されたアマテラスの御神体「八咫鏡」は、その後90年間各地を転々としたあと、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座し、現在の神宮内宮となりました。
また、皇孫に国を譲ったとされる出雲の大王オオクニヌシ(オオモノヌシ)は、三輪山に祀られ、現在の大神神社(おおみわじんじゃ)となりました。
その結果、「天神」と「地祇」が、共に「にこむ」(にこやかに和む)ようになり、「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)による日本の統治は始まったのだと、日本書紀は記しています。
国民が、「右翼」と「左翼」に分離して憎み合う、現在の日本とは異なっています。
さて、このように、「天神」と「地祇」を対等に祀る祭祀の形が確立されたことは、その後の日本の国や政治のあり方に、どのような影響を与えたでしょうか。
その意味を正しく理解するために、仮に「地祇」が祀られずに「天神」のみが祀られていた場合、日本はどのような国となっていたかを想像してみましょう。
おそらく、日本は、下の図のような国になっていたはずです。

これは、天皇が宗教によって権威づけられた強大な権力を振るって民を支配するイメージであり、中国歴代王朝の皇帝のように、中央集権的な独裁力をいかんなく発揮した「アジア」的専制君主のイメージと同一です。
「祭政一致」の神権政治が行われていたかのように語られがちな古代のヤマト王権は、このような専制的な政治体制であったかのように誤解されることがあります。
このような強大な権力から人々が自由になるためには「革命」という手段しか存在しなかったでしょう。
しかし、日本書紀の記述を信じるなら、実際のヤマト王権は下のような構造をもっていました。

「政治的権威を付与する神」としての、「天神」アマテラスが象徴する「政治」の権威と、「政治的権威を奪われた神」としての、「地祇」オオクニヌシが象徴する「非政治」の権威という、「政治」と「非政治」の、相反する二つの権威が対等に並び立っていました。
ここで「天神」は、朝廷のような政治の中枢に属する氏族たちの代表者として、そして「地祇」は、政治的な力を剥奪されたもの、政治的な力を持たない者、被支配階級の人々の代表者として立っています。そして、この二つの権威は、互いを牽制し、相対化する働きをもっていました。
この構図は、その後の日本の歴史を通じて、重要な「基部構造」の一つとなりました。
「政治」と「非政治」のこの二つの権威は、ただ静的に隣り合っていただけではなく、陰陽太極図のような一つのダイナミックな渦となって、日本の歴史を動かす原動力となっていきます。

また、この二つの権威は、歴史を通じて不思議なバランス装置としても働き、平安時代後期に、「天神」を中心とした律令体制が綻びを見せるときには、熊野詣のような「地祇」への崇敬が人々の間に盛んとなって「天神」体制を相対化し、また反対に、江戸幕府による「地祇」体制が確立されると、今度は伊勢詣のような「天神」に対する崇敬が人々の間に広まって、「地祇」体制を相対化するという、不思議な現象が見られました。
さて、この二つの権威は、どのように並び立ち、そして影響を与え合うようになったか、もう少し詳しく見ていきましょう。
そもそも三輪山におけるオオクニヌシ(オオモノヌシ)の祭祀は、その祟りへの畏れから始まったものですが、古事記には、崇神天皇の次の垂仁天皇の御代にも、天皇の皇子が、オオクニヌシの祟りによって成人しても口がきけなかったため、出雲大社に詣でることによって、やっと口がきけるようになったという出来事が記されています。
オオクニヌシの祟りに対するこの畏れは、一つの原型として後の時代にも引き継がれていき、菅原道眞、崇徳上皇、平将門への怨霊信仰となり、「政治」の権威に対して隠然たる力を発揮しました。
つまり、オオクニヌシのような、「政治的権威を奪われた者・政治的権威を持たない者」=「非政治的存在」たちの系譜が、一つの権威として確立されていったことを意味します。
三輪山に祀られたオオクニヌシの御霊は、天智天皇の時代、都が滋賀県大津の近江宮に移された際に、比叡山東麓の日吉大社(ひえたいしゃ)の西本宮に勧請されました。
日吉大社は、平安遷都以降は、京都の東北の表鬼門に位置していることから、鬼門除けの神社として朝廷の崇敬を集め、さらに神仏習合が進むことによって、比叡山延暦寺と一体化します。
ところが平安時代の末期になると、「地祇」オオクニヌシのこの社は、「強訴」という一種の左翼デモの拠点となって、「天神」の末裔である都の貴族たちを悩ませることになります。
延暦寺のような寺には、当時、租税を逃れるために、田を捨てて出家した元農民の僧侶が多く集まって生活していました。それらの僧侶たちは、寺の権利を守るために、甲冑や刀や弓矢で武装したのみならず、延暦寺の守護神とされていた日吉大社の神輿を持ち出して、度々都に入り、朝廷に訴えを起こしました。

朝廷は、京都の鬼門を守る日吉神社の神威を振りかざして政治的要求をつきつける僧兵や神人に対して矢を放つこともできず、多くの場合、彼らの要求を受け入れるしかありませんでした。
崇神天皇による三輪山でのオオクニヌシの祭祀が端緒となって樹立された「非政治の権威」が、貧しさから出家した元農民のような政治的権威を奪われた者、政治的権威を持たない者たちに力を与えて、朝廷という「政治の権威」を圧倒した様子を伝える歴史のエピソードです。
同じことは、藤原氏の氏社である春日大社でも起きました。春日大社と一体化していた興福寺の僧たちが、春日大社の御神体の鏡を榊に取り付けた「春日神木」を掲げ、法螺貝を吹きながら入洛すると、藤原氏たちは、氏神の御神体への崇敬から、館に謹慎・蟄居しなくてはならず、この慣習を破った者は藤原氏から追放されてしまいました。朝廷の要職を占める藤原氏がこぞって謹慎することで朝廷は機能停止状態に陥り、興福寺の僧たちの要求を受け入れなくてはなりませんでした。
神道というと、常に体制側に用意され、体制に加担するイデオロギーの類であるかのように誤解されがちですが、「政治」と「非政治」という相異なる二つの権威を内に含み、この二つは、互いを牽制しあいながら日本の歴史を編み上げてきたのです。
つまり、「右翼」的な要素も、「左翼」的な要素も、神道は一つに包含しているのです。
(つづきますが、動画制作作業のため、このシリーズは少しお休みします)
それぞれの最重要の神様である、アマテラスとオオクニヌシを、大和の地に等しくお祀りした崇神天皇。
皇居から奈良県桜井市の三輪山の麓にあったとされる笠縫邑(かさぬいむら)に移されたアマテラスの御神体「八咫鏡」は、その後90年間各地を転々としたあと、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座し、現在の神宮内宮となりました。
また、皇孫に国を譲ったとされる出雲の大王オオクニヌシ(オオモノヌシ)は、三輪山に祀られ、現在の大神神社(おおみわじんじゃ)となりました。
その結果、「天神」と「地祇」が、共に「にこむ」(にこやかに和む)ようになり、「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)による日本の統治は始まったのだと、日本書紀は記しています。
国民が、「右翼」と「左翼」に分離して憎み合う、現在の日本とは異なっています。
さて、このように、「天神」と「地祇」を対等に祀る祭祀の形が確立されたことは、その後の日本の国や政治のあり方に、どのような影響を与えたでしょうか。
その意味を正しく理解するために、仮に「地祇」が祀られずに「天神」のみが祀られていた場合、日本はどのような国となっていたかを想像してみましょう。
おそらく、日本は、下の図のような国になっていたはずです。

これは、天皇が宗教によって権威づけられた強大な権力を振るって民を支配するイメージであり、中国歴代王朝の皇帝のように、中央集権的な独裁力をいかんなく発揮した「アジア」的専制君主のイメージと同一です。
「祭政一致」の神権政治が行われていたかのように語られがちな古代のヤマト王権は、このような専制的な政治体制であったかのように誤解されることがあります。
このような強大な権力から人々が自由になるためには「革命」という手段しか存在しなかったでしょう。
しかし、日本書紀の記述を信じるなら、実際のヤマト王権は下のような構造をもっていました。

「政治的権威を付与する神」としての、「天神」アマテラスが象徴する「政治」の権威と、「政治的権威を奪われた神」としての、「地祇」オオクニヌシが象徴する「非政治」の権威という、「政治」と「非政治」の、相反する二つの権威が対等に並び立っていました。
ここで「天神」は、朝廷のような政治の中枢に属する氏族たちの代表者として、そして「地祇」は、政治的な力を剥奪されたもの、政治的な力を持たない者、被支配階級の人々の代表者として立っています。そして、この二つの権威は、互いを牽制し、相対化する働きをもっていました。
この構図は、その後の日本の歴史を通じて、重要な「基部構造」の一つとなりました。
日本の基部構造3
「政治」の権威と「非政治」の二つの権威が並置される。
「政治」と「非政治」のこの二つの権威は、ただ静的に隣り合っていただけではなく、陰陽太極図のような一つのダイナミックな渦となって、日本の歴史を動かす原動力となっていきます。

また、この二つの権威は、歴史を通じて不思議なバランス装置としても働き、平安時代後期に、「天神」を中心とした律令体制が綻びを見せるときには、熊野詣のような「地祇」への崇敬が人々の間に盛んとなって「天神」体制を相対化し、また反対に、江戸幕府による「地祇」体制が確立されると、今度は伊勢詣のような「天神」に対する崇敬が人々の間に広まって、「地祇」体制を相対化するという、不思議な現象が見られました。
さて、この二つの権威は、どのように並び立ち、そして影響を与え合うようになったか、もう少し詳しく見ていきましょう。
そもそも三輪山におけるオオクニヌシ(オオモノヌシ)の祭祀は、その祟りへの畏れから始まったものですが、古事記には、崇神天皇の次の垂仁天皇の御代にも、天皇の皇子が、オオクニヌシの祟りによって成人しても口がきけなかったため、出雲大社に詣でることによって、やっと口がきけるようになったという出来事が記されています。
オオクニヌシの祟りに対するこの畏れは、一つの原型として後の時代にも引き継がれていき、菅原道眞、崇徳上皇、平将門への怨霊信仰となり、「政治」の権威に対して隠然たる力を発揮しました。
つまり、オオクニヌシのような、「政治的権威を奪われた者・政治的権威を持たない者」=「非政治的存在」たちの系譜が、一つの権威として確立されていったことを意味します。
三輪山に祀られたオオクニヌシの御霊は、天智天皇の時代、都が滋賀県大津の近江宮に移された際に、比叡山東麓の日吉大社(ひえたいしゃ)の西本宮に勧請されました。
日吉大社は、平安遷都以降は、京都の東北の表鬼門に位置していることから、鬼門除けの神社として朝廷の崇敬を集め、さらに神仏習合が進むことによって、比叡山延暦寺と一体化します。
ところが平安時代の末期になると、「地祇」オオクニヌシのこの社は、「強訴」という一種の左翼デモの拠点となって、「天神」の末裔である都の貴族たちを悩ませることになります。
延暦寺のような寺には、当時、租税を逃れるために、田を捨てて出家した元農民の僧侶が多く集まって生活していました。それらの僧侶たちは、寺の権利を守るために、甲冑や刀や弓矢で武装したのみならず、延暦寺の守護神とされていた日吉大社の神輿を持ち出して、度々都に入り、朝廷に訴えを起こしました。

朝廷は、京都の鬼門を守る日吉神社の神威を振りかざして政治的要求をつきつける僧兵や神人に対して矢を放つこともできず、多くの場合、彼らの要求を受け入れるしかありませんでした。
崇神天皇による三輪山でのオオクニヌシの祭祀が端緒となって樹立された「非政治の権威」が、貧しさから出家した元農民のような政治的権威を奪われた者、政治的権威を持たない者たちに力を与えて、朝廷という「政治の権威」を圧倒した様子を伝える歴史のエピソードです。
同じことは、藤原氏の氏社である春日大社でも起きました。春日大社と一体化していた興福寺の僧たちが、春日大社の御神体の鏡を榊に取り付けた「春日神木」を掲げ、法螺貝を吹きながら入洛すると、藤原氏たちは、氏神の御神体への崇敬から、館に謹慎・蟄居しなくてはならず、この慣習を破った者は藤原氏から追放されてしまいました。朝廷の要職を占める藤原氏がこぞって謹慎することで朝廷は機能停止状態に陥り、興福寺の僧たちの要求を受け入れなくてはなりませんでした。
神道というと、常に体制側に用意され、体制に加担するイデオロギーの類であるかのように誤解されがちですが、「政治」と「非政治」という相異なる二つの権威を内に含み、この二つは、互いを牽制しあいながら日本の歴史を編み上げてきたのです。
つまり、「右翼」的な要素も、「左翼」的な要素も、神道は一つに包含しているのです。
(つづきますが、動画制作作業のため、このシリーズは少しお休みします)
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