グローバリズムと神道(24)

日本書紀に見る日本の「基部構造」(5)
今回は、これまで整理してきたことがらを踏まえて、いよいよ、二人目の、そして、歴史家によれば本当の「ハツクニシラススメラミコト」(初めて日本を統治した天皇)ではないかとされる崇神天皇の事績を通じて、日本の「基部構造」をさぐっていきたいと思います。



あらためてこれまでの要点をおさらいすると、

1. 日本の神様である「八百万の神たち」は、「天津神」(天神)と、「国津神」(地祇)の二種類の神様から成る。

2. 「天津神」(天神)と「国津神」(地祇)という二種類の神々は、元来、「上昇と降下」「登場と退場」「即位と退位」という真逆の役割を日本神話の中で担っていたが、その神々が「八百万の神たち」として一つに集結し、共に等しく祀られることによって、神道の祭祀は、「上昇と降下」「登場と退場」「即位と退位」という正反対の運動を、循環する渦巻きのように、その内部に抱え込むことになった。

3. 天孫降臨の際に皇孫らに授けられた「神勅」に基づく「祭政一致」のイデオロギーの下で、日本の統治は始まった。

4. 一人目の「ハツクニシラススメラミコト」(初めて日本を統治した天皇)である神武天皇は、圧倒的な武力や権力によって、土着の人々を圧倒し征服したのではなく、土着の人々によって祀られてきた「国津神」(地祇)を、自らの祀る「天津神」(天神)と平等に祀ることによって、平和的にヤマトの平定を行った。

以上の四点を踏まえて、『日本書紀』に書かれた崇神天皇の事績を読み返しますと、そこには大変興味深いことが書かれていることに気づきます。要点をまとめると次のようになります。

1. 崇神天皇のお住まいには、天照大神と、倭大国魂神(日本大国魂神)という、天神と地祇の二柱の神が祀られていたが、疫病がやまず、民が反逆し、国が乱れた。

2. 崇神天皇は、アマテラスが皇孫にさずけた「同床共殿の神勅(宝鏡奉斎の神勅)」を破り、お住まいに祀られていた二柱の神を、皇居の外に祀ることに決めた。(伊勢神宮の始まり)

3. 崇神天皇は、オオクニヌシの別名であり、オオクニヌシの「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」とされる出雲の神、オオモノヌシを、三輪山に厚く祀った。(大神神社の始まり)

4. これによって、天津神、国津神が「共ににこみて」(一緒ににっこりとなさり)、国が平らかに治り、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初めて日本を統治した天皇)と呼ばれるようになった。

『日本書紀』の崇神天皇条を読んで気づくのは「あまつかみくにつかみ」(天神地祇・神祇)という言葉が多く登場することです。ざっと数えただけで、六ヶ所にこの言葉が使われており、崇神天皇が、神武天皇と同様、「天津神」と「国津神」を平等にお祀りしようと苦心されていた様子が伝わってきます。

「天皇の住まう同じ床、同じ建物内に八咫鏡を祀れ」と、アマテラスがニニギに命じた「同床共殿の神勅(宝鏡奉斎の神勅)」に従い、崇神天皇のお住まいには天照大神の御霊が祀られていましたが、同時に、由来の不明な「倭大国魂神」(やまとのおおくにたまのかみ)という神様も祀られていました。

「神祇(あまつかみくにつかみ)を崇(かた)て重(あが)めたまう」「天神地祇(あまつかみくにつかみ)を礼(ゐやま)ひて」と、天神地祇が等しく祀られていたことを強調する日本書紀の記述に基づいて考えれば、この神様は当然「国津神」(地祇)であると考えられ、大和地方の土着神であるとも、オオクニヌシの御霊であるとも言われています。

ところが、「同床共殿の神勅」を墨守し、また、天神地祇を等しく恭しくお祀りしても、疫病や民の反乱が続き、国を治めることができず、崇神天皇は悩みます。そして、

「しかして、その神の勢いを畏りて、共に住みたまうに安からず」

(出典: 『日本書紀』巻第五 崇神天皇六年)

強い威光を放つ神をお住まいにお祀りしているのは安心できないという理由で、アマテラスが授けた「同床共殿の神勅」を破り、天照大神と倭大国魂神の二神を、皇居の外に移す決断を行います。

この時、皇居の外に持ち出された八咫鏡が、およそ90年間、20数カ所を転々とした後、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座することになったのが、皇大神宮(伊勢神宮)の始まりとされています。

「同床共殿の神勅」の意味は、「政治」が実践される天皇の住まいで、天照大神の「祭祀」が行われなければならないとするものですから、その本質は「政治」と「宗教」の一体化、「祭政一致」を命じることにありました。

この重要な神勅が「ハツクニシラススメラミコト」(日本を初めて統治した天皇)とされる崇神天皇の統治下で破られ、八咫鏡が皇居の外に祀られたということは、天皇による統治の最初の段階から、五大神勅が命じていた「祭政一致」のイデオロギーは、理念として掲げられてはいても、現実に守られることはなく、「政治」の権威と「宗教」の権威が切り分けられたことを意味します。

民が天皇の権威に服そうとせずに、反逆を繰り返して悩まれたのであれば、まして民を圧倒するために、高天原の威光と宗教的な権威を振りかざして、八咫鏡を皇居から持ち出してはならなかったはずですが、崇神天皇はむしろ「神の勢いを畏りて」、つまり自らの宗教的な権威を振りかざすことが民の反発を増すことをかえって恐れて、自らの「政治」的な権威と「宗教」的な権威を切り離し、その間に一定の距離を設けたのです。

「祭政一致」は、日本を統一した天皇を中心とする勢力の祖先の土地である「高天原」における伝統だったかもしれませんが、「葦原中国」(日本列島)の先住民族である縄文の人々の文化には、「政治」と「宗教」の二つの権威を切り分ける習慣があったとする宗教学者の指摘もありますから、「葦原中国」の現実の統治にあたっては、崇神天皇は、祖先の伝統を修正し、先住民の伝統に自らを適合させる必要性があったのかもしれません。

ここから、日本の「基部構造」の一つが抽出できます。

日本の「基部構造」2

「祭政一致」は理念として掲げられてはいても、現実においては、日本の国家統治の最初の段階より、「政治」と「祭祀」は一定の距離を保つことになった。

「ハツクニシラススメラミコト」(日本を始めて統治した天皇)とされる崇神天皇の姿を通して伝わってくるのは、天照大神の輝かしい神威を背負い、祭政一致のイデオロギーの下で神格化された強大な政治権力により、民を抑え、力強く国家を支配した猛々しい帝王の姿とは真逆に、土着神の祟りや民の反逆に怯えながら、「政治」と「宗教」の正しい立ち位置を、試行錯誤しながら模索する弱々しい王の姿です。

しかし、それでも国は治りません。崇神天皇の模索は続きます。

(つづく)
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