グローバリズムと神道(20)

日本書紀に見る日本の「基部構造」(1)
(「熊野」のお話が中断していますが、少し話を巻き戻します。)

八百万の神々は、「天津神」(あまつかみ)と「国津神」(くにつかみ)に分けられ、この二群の神々を併せて、「天神地祇」、あるいは「神祇」と呼ぶことをすでにお話ししました。

この二群の神々が象徴する、「中央集権」と「地方分権」という二つの志向性は、古代においてのみならず、現代も含む、日本の全歴史を通じて、時代を進展させる大きな動因として働いてきました。


(注: 上の図はおおまかな概念図であり、出雲王朝は弥生系とされています。)

大雑把に捉えれば、律令制の導入と中央集権制の確立が完成する8世紀の前半までは、「国津神」から「国譲り」によって政治の権力を移譲された「天津神」が活躍した「天神体制」の時代。

その後、律令制が崩れて、武士たちが政治権力を手にしていく江戸時代までの封建制の時代は、地方の土着の勢力を司る「国津神」たちが力を盛り返した「地祇体制」の時代。

明治維新から敗戦までは、記紀神話を政治イデオロギーとして利用し、「国家神道」を確立することで、「天津神」の復権をめざした第二の「天神体制」の時代。

と捉えることができます。

「天神地祇」や「神祇」という言葉(いずれも、訓読みで「あまつかみくにつかみ」と読みます)が、日本書紀や古事記の本文の中に現れるのは、神武東征のくだり以降であり、神武東征より前の、神々が主体となって活躍する「神代」を描いた部分では、「天神」(あまつかみ)と「地祇」(くにつかみ)という言葉が別々に使われることはありますが、「天神地祇」や「神祇」というように、ひとつながりで登場することはありません。

それは、「天神地祇」や「神祇」という、天津神と国津神をひとくくりにした言葉は、あくまで、人間が主体であり神々が客体である「祭祀」について語るときに用いられる言葉だからだと考えられます。

では、どの時点から、「天神」と「地祇」は、ひとくくりの神々として、祭祀の対象とみなされるようになったのでしょうか。日本書紀を調べると、とても興味深いことがわかってきます。

『日本書紀』という長い大部の書物の中で、最初に「天神地祇」や「神祇」という言葉が使われるのは、次の箇所です。

「今、我は是日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向いて虜(あだ)を征つは、これ天道に逆(さか)れり。しかじ、退き還りて弱きことを示して神祇(あまつかみくにつかみ)を礼(ゐや)び祭(いは)ひて、背(そびら)に日神の威(いきおひ)を負ひたてまつりて、影(みかげ)の随(まにま)に圧(おそ)ひ踏みなむには。此の如くせば、かつて刃に血(ちぬ)らずして、虜(あだ)必ず自ずからに敗れなむ。」とのたまふ。

「いま自分は日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天童に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」と言われた。

(出典: 『日本書紀』巻第三「神武天皇 神日本磐余彦天皇」より)


(画像は、坂本勝著『古事記と日本書紀』青春出版社より引用)

神武天皇が率いる軍勢は、はじめ、大阪から直接、大和(奈良)の橿原に入っていこうとしますが、長髄彦という国津神の激しい抵抗にあって苦戦し、兄の五瀬命(いつせのみこと)が致命傷を負ってしまいます。

そのときに「自分たちが苦戦しているのは、アマテラスの子孫でありながら、東の方角に太陽に向かって進軍しているからだ。一旦退却するようにみせて、大和の地の反対側に回り、そこから、天神と地祇の両方をお祀りしながら、太陽の威光を背にして大和に入っていけば、たやすく征服できるにちがいない」と考えて、紀伊半島を船で迂回し、大和の南東に位置する熊野に上陸し、八咫烏に導かれながら、吉野を通って、ついに大和入りを果たします。

そのときに神武天皇が口にした言葉の中に登場するのが「天神地祇」という言葉であり、これが『日本書紀』における「天神地祇」(あまつかみくにつかみ)という概念の初出です。

ヤマトを平和的に統一するための方便として、皇祖神としての「天神」(あまつかみ)だけを祀るのではなく、被征服民の神々である「地祇」(くにつかみ)も等しく祀ることで、倭国の統一事業がたやすくなると神武天皇は考えたわけですが、「天津神」と「国津神」を並立させるという祭祀のあり方を自覚的に採用したことが、日本統一のきっかけになったと、国史である『日本書紀』がはっきりと記しているわけであり、初代天皇に関するこのエピソードは、日本の重要な「基部構造」の一つを提示していると考えざるをえません。

日本の「基部構造」

1. 「天津神」と「国津神」の並置。

「天津神」と「国津神」の並置、つまり「中央集権」と「地方分権」のバランスをとることが、日本の「基部構造」の一つなのですが、「明治体制」にせよ、それを理想化する「右翼」や神社本庁にせよ、「国津神」を比較的軽視し、「天津神」の一元的な支配に傾斜していく傾向がみられます。(「大教院祭神論争」や「廃仏毀釈」や「神社合祀令」など、明治体制がいかに「国津神」を軽視し、弾圧し、粛清し、そのことが国に災いを招いたかについては別の記事で詳しく取り上げます。)

その姿勢は、初代天皇とされる神武天皇が採用された最も基本的な姿勢にそむくものであり、「日本の基部構造に即して変わろうとする変化」=「保守」ではなく、「日本の基部構造を壊して変わろうとする変化」=「革新」の姿勢であると断じざるを得ません。

神武天皇と同じく、記紀において、「はつくにしらすすめらみこと」(「初めて国を治めた天皇」)の諡が与えられたもう一人の天皇、歴史家からは、神武天皇と同一人物であり、実在が確実視しうる最初の天皇なのではないかと考えられている、第10代天皇「崇神天皇」の条を調べると、日本の「基部構造」に関して、さらに興味深いことがわかってきます。

(つづく)
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