グローバリズムと神道(16)

熊野、上皇が憧れた地祇たちの聖地(1)
縄文時代からの古い信仰に根ざし、日本の各地に息づいていた土着の神々、「国津神」。

日本の八百万の神々には、「神議り」(議論)をするという顕著な特徴が見られますが、異なる文化が互いを廃絶し合うことなく大らかに「習合」を重ねていくという神道の伝統も合わせて考えるならば、各地の豪族が議論や交渉を通して協力関係を築いていた、ヤマト王権成立以前の日本の姿が見えてきます。

その葦原中国に一層の秩序と統一をもたらすため、中央集権制の確立という使命をもって登場した、アマテラスの子孫とその協力者である「天津神」の軍勢。

「天津神」たちの活躍を記した『古事記』や『日本書紀』という書物は、律令国家の構成員である名門氏族たちの由来を記した名士目録という側面ももっており、記紀編纂と律令制度の完成は、国際化の進む古代東アジアにおいて、「日本」という国号を冠した国家を立ち上げようとする企図の下になされた表裏一体の出来事でした。

国家の三要素は、「領土、人民、権力」の三つであると言われていますが、「国津神」が、領土と人民という国家の「素材」(質料)を提供したとするならば、「天津神」は、権力や制度といった国家の「設計図」(形相)を提示したと言えます。

日本という国家は、中央集権というベクトルを担った「天津神」と、地方分権というベクトルを担った「国津神」の「習合」によって生まれたのであり、中央集権と地方分権という対立するテーゼを止揚したのが、「国譲り」という政権交代のシステムであったわけです。

「国譲り」によって、日本は、「易姓革命」という理念に基づいて王朝交代を重ねてきた中国とは異なる道を歩むことになりました。(中国にも「禅譲」という、日本の「国譲り」と似ている政権交代の仕組みがありましたが、日本のように二つの権力が並び立つような二極的な体制を形成しなかった点で、「国譲り」の論理と仕組みとは異なっています。)



中国では、皇帝の一元的な絶対権力を頂点に官僚のヒエラルキーが築かれ、徹底した中央集権化が行われていたのに対して、日本では、常に「政治」と「非政治」の二つの権威が並び立ち、しかも、記紀成立と同時にスタートした日本の律令体制下では、天皇はすでに「非政治」的な権威の頂点に掲げられつつ、実際の「政治」的権力の座からは疎外されていたのであり、政治の実権を独占していたのは、記紀の編纂と律令制度の設計に関わった藤原氏の子孫たちであったという特徴が見られました。

そして、日本では、中国のような王朝交代が起きなかった代わりに、中央集権を司る「天津神」と、地方分権を司る「国津神」の間で、「政治」と「非政治」の役割交代が何度か繰り返され、その役割交代の際に、日本神話の底に横たわる目に見えない「力」が躍動していた。

その一つの事例として、平安時代後期から鎌倉時代のはじまりにかけて、上皇や武士たちの間に流行した「熊野詣」という社会現象を取り上げようというのが、これまでのまとめです。

ちなみに、「グローバリズムと神道」という、このような回りくどい一連の記事をなぜ書いているかといえば、グローバリズムが席巻しつつある現在の日本において「保守」思想は可能なのか、可能ならばその「保守」思想は、どのような形をとるのかという問題を考えるためです。

安倍批判に転じると、私たちは左翼思想や陰謀論という簡単な解に走りがちですが、そこを一歩踏みとどまって、「右翼」や「左翼」といった対立が生まれる以前の、「根」や「底」の方へ、問題を掘り下げて考える必要があるからです。

さて、「記紀・律令体制」とは、藤原氏が政治的権力を独占する「藤原氏体制」に他ならなかったわけですが、皇室が「院政」という制度を考案して、政治的権力の奪還を画策したとき、「藤原氏体制」打倒の尖兵となった上皇や武士たちを「熊野」という土地に引寄せたものは何だったのでしょうか。

もっともシンプルな説明によれば、その理由は、「平安後期に浄土思想が流行し、熊野という土地が、極楽浄土とみなされたため」だったと言われています。

しかし、なぜ、「熊野」という土地が、極楽浄土の地とみなされたのか。

極楽浄土とは、この世に対するあの世、此岸に対する彼岸のことですから、現実世界(上皇や源平の武士たちにとっては京都)からの「物理的な隔たり」と同時に、「質的な隔たり」がそこにはなくてはなりません。

京都からの参詣に当時往復一ヶ月も要した熊野という土地は、京都と物理的に離れていただけでなく、質的にも、天神の子孫らが治める京都とは懸け離れた土地であったはずです。

それは、単に鬱蒼とした熊野の原始的な森の神秘性が極楽浄土の雰囲気を醸し出していたというに止まらず、熊野が出雲と深いつながりをもち、黄泉や根の国・底の国を背景にもつ「国津神」たちの聖地であった「場所の記憶」と無関係ではなかったでしょう。

「長寛勘文」という平安末期に行われた宗教裁判の中で、熊野三山の祭神が何なのか、伊勢の皇大神宮の祭神と同体なのか異なるのかが争われた事実があり、また、鎌倉時代初期の伊勢地方の豪族、藤原実重の『作善日記』によると、毎年元日には、伊勢と熊野と多賀の各神社に米を奉納していたという記録がありますから、当時の人々の間に、この三つの神社の祭神を同体の神とみなす信仰がひろがっていた可能性が考えられます。

従って、上皇たちが「熊野は地祇たちの聖地なり」という明確な自覚をもって参詣していたとまでは言えないのですが、熊野が伊勢とは異質な土地として自覚されていったことを示す一つの根拠として、上皇らが京都から熊野に参詣する際の公式ルートが、伊勢を経由する「伊勢路」から、大阪から紀伊半島の西側を海沿いに回る「紀伊路」に転じていった事実が挙げられます。

「紀伊路」を通って紀伊半島南東に位置する田辺に至り、そこから「中辺路」を通って熊野本宮大社を参詣し、そこから熊野川を舟で下って熊野速玉大社に至り、最後に熊野那智大社に向かうのが、上皇たちの熊野巡礼の公式ルートとして定着していきました。

ところで中世的な浄土信仰のめばえた院政期になると、古代的な死者の国、熊野は阿弥陀如来、あるいは観音の浄土として意識されてくる。このような古代原始信仰における他界が、中世には浄土となる例は高野山や善光寺にも見られる。(中略)このように熊野信仰の中世的変質が院政期を境に起こってくると共に、熊野三山の信仰管理者は急速に仏教に傾斜していくのは当然であろう。これは伊勢と熊野を同体とする古代信仰を解体させ、熊野は仏教化した独自の教団を組織するようになった。この転換期を象徴するのが、伊勢路から紀伊路への転換で、公的な熊野詣ではすべて紀伊路を通るようになるのである。もちろん庶民信仰ではこんな具合にきっぱりと割り切ったわけではなく、伊勢あっての熊野、熊野あっての伊勢であったが、神道理論上からはこのとき以来、伊勢と熊野は截然と分離する。この神道理論を結論づけたのが有名な「長寛勘文」である。

(出典: 五来重著『熊野詣』)

伊勢も熊野も同体であるとみなす平安-鎌倉期の庶民に広がった通念を破って、熊野が浄土信仰との習合を深め、伊勢とは異質化していく背景には、熊野がもともと「古代原始信仰における他界」であったという、「記紀・律令体制」成立以前の古い場所の記憶と無関係ではないはずです。

この場所の記憶は、「記紀・律令体制」の下ではかき消されていましたが、この体制の綻びとともに、その記憶が人々の無意識の中に呼び覚まされ、それが浄土信仰との習合を促進させていったのではないでしょうか。

ちなみに「熊野三山」の祭神は、家都御子神、熊野速玉男神、熊野牟須美神であり、「熊野三所権現」とも呼ばれたこの三柱の神々は、後の時代には、それぞれスサノオ、イザナギ、イザナミに比定されるようになりますが、もともとは記紀に登場しない正体のわからない土着の神々でした。

浄土思想が、現世を厭い、「この世」とは異なる「あの世」を憧憬する思想であるならば、「記紀・律令体制」という都の現状を厭い、そこからの離脱を願いながら極楽浄土を憧れた人々が、都の現状を支える「天津神」の聖地伊勢ではなく、熊野という記紀神話にとっての「他界」に憧れを抱いたことは、ごく自然なことだったでしょう。

彼らは、まさに記紀が意図した時代の埒外に足を踏み出そうとしていたのですから。

(つづく)
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

No title

>ちなみに、「グローバリズムと神道」という、このような回りくどい一連の記事を、なぜ書いているかといえば、グローバリズムが席巻しつつある現在の日本において「保守」思想は可能なのか、可能ならばその「保守」思想は、どのような形をとるのかという問題を考えるためです。

管理人様の意図は解ってるつもりです。
一度は私も同じような事を考え、様々な神道の文献や神道家の文献を読んで挫折した経緯がありますので。
まず、(時代背景を勘案しても)あまりに自民党贔屓すぎる『神社本庁』や『神道政治連盟』の論調に付いていけなかった事、
何よりも、神道の理解が難しすぎて、完全には理解できなかった事、これが大きかったのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B%E4%B8%80%E9%83% 8E

戦前、京都帝国大学を代表する碩学の西晋一郎氏は、晩年、

【神道といふものは難しいものですネ】

と歎息したそうです。
しかし著作の欄を見ればわかりますが、西晋一郎氏は膨大な「国体論」や「東洋道徳論」を著していた学者であり、決して西洋一辺倒で日本の事にまるっきり無知だった学者ではありません。
むしろ、21世紀現在の人間とは到底比較にならず、当時としても膨大な文献を読破渉猟していた、大変な勉強家だったのでしょう。
そんな大学者でさえ、「難しい」と嘆くほど、神道というのは、深く理解しようと努めれば努めるほど難しい代物なのです。

わざわざその「茨の道」を傷だらけになっても真っ直ぐに突き進もうとされている管理人様の御努力に、素直に賞賛と応援を送ります。

単純な【戦前回帰】ではなく、また【自民党政権擁護】ではなく、また【アメリカ擁護】でもない、ついでに【ヨーロッパの保守思想家の思想を借りずに済む】、
そのような文字通りの【真正保守】(中川八洋一派の大好きな言葉です)という存在が絶対にあるはずなのです。

>安倍批判に転じると、私たちは左翼思想や陰謀論という簡単な解に走りがちですが、そこを一歩踏みとどまって、「右翼」や「左翼」といった対立が生まれる以前の、「根」や「底」の方へ、問題を掘り下げて考える必要があるからです。

元々、日本の場合、右翼と左翼は同じ【西郷隆盛】という一人の巨人から生まれた双生児ですからね。
西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を好んでいましたが、
「敬天」を重要視したのが右翼で頭山満たちが引き継ぎ、
「愛人」を重要視したのが左翼で中江兆民たちが引き継いだ経緯があります。
しかも頭山満と中江兆民の二人は仲良しでした。

左翼の世界にマルクス主義が流れ込んでくるのは、大正デモクラシーとか大正教養主義の頃からですし、
それは右翼にも等しく「国家社会主義」という形でナチスドイツかファシストイタリアを経由して影響を与えました。

完全に右翼と左翼が対立構造に入るのは、戦後の冷戦時代が開始されてからです。
意外と、その対立の歴史は長くないのですね。
WJFプロジェクトについて
ご寄付のお願い
作品リスト
政治的立場
WJFプロジェクトは、日本の主権、伝統、国柄を守る保守的な観点から、安倍政権が推し進めるTPP参加、構造改革、規制緩和、憲法改正、安保法制、移民受入などのグローバル化政策に反対しています。
TPP交渉差止・違憲訴訟の会
YouTube
WJFプロジェクトの動画作品は以下のYouTubeのチャンネルでご覧になれます。

お知らせ
アクセス・カウンター


今日の一言
蓮舫の二重国籍問題のジレンマ

違う入り口を選んだハズなのに、ドアを開けると、同じ出口につながっている。
最新記事
コメント
<>+-
アーカイブ


RSSリンク
RSSリーダーに下のリンクを登録されると、ブログの記事やコメントの更新通知を受け取ることができます。