グローバリズムと神道(15)
「国譲り」神話のもつ二つの意味。
オオクニヌシの「国譲り」神話は、古代におきた無数の「国譲り」の雛形であったことを、以前に述べました。
各地の豪族、「国主」(クニヌシ)は、「国造」(クニノミヤツコ)としてヤマト朝廷に帰順するかわりに、その土地の支配を認められる封建的関係を朝廷と結ぶ段階を経て、律令体制下では、その土地の政治的実権を、朝廷から派遣された官吏「国司」(クニノツカサ)に譲り、自らはその土地の祭祀を司る宗教的な権威職である「社家」とされていきました。「顕世」の政治を皇室にゆだねて、自らは「幽世」の主宰者の地位に退避したオオクニヌシのように。
「国譲り」に「国譲り」を重ねて、各地の政治的実権を一点に吸い集めたヤマト朝廷の頂点に君臨したのが皇室だったわけですが、実は、皇室そのものが宗教的権威として祭り上げられることで、権力の座から疎外されていくカラクリも、「国譲り」神話の中には織り込まれていました。
「国譲り」神話は、このように政治的実権を一身に集めようとする権力者にとってまことに都合のよい非情で理不尽な側面をもつ一方で、「政治」と「非政治」の権威が、並置され、継承されていくという、日本独特の社会構造も生み出しました。
宗教学者、中沢新一氏は、「政治」と「祭祀」が分離され、並置されるのは、アメリカ原住民や、縄文時代など、新石器文明のコミュニティーに見られた特徴であり、「政治」と「祭祀」が一体化するときに「国家」が発生したと述べていますが、日本は、「国譲り」神話のおかげで、国家の誕生以降も、「政治」と「非政治」の権威が常に並置されるという、縄文的な社会構造を、現代に至るまで継承することになったのです。
この「政治」と「非政治」の二重性、もしくは重層性のおかげで、「政治」の権威は、「非政治」の権威によって常に相対化され、政治にほころびが見えた時には、「政治」と「非政治」の役割がゆるやかに入れ替わる「国譲り」も、日本の歴史を通じて幾度か繰り返されてきました。
このように、時代を糺す(ただす)力も、日本の神話の中に胚胎されていたことを思うならば、単に「記紀」や「神話」が、特定の権力者によって政治利用された来歴があるからといって、これらを完全に廃するわけにはいかなくなるのです。
神話を廃するかわりに、神話を利用しようとしてきた権力者の「人為」や「政治」や「野心」や「陰謀」を相対化し覆し糺していく、神話の根底に横たわる「力」に、私たちは目を向けなくてはなりません。
さて、その「力」の一端が、熊野という聖地に現れた。そのことをいよいよ詳しく見ていきましょう。
(つづく)
各地の豪族、「国主」(クニヌシ)は、「国造」(クニノミヤツコ)としてヤマト朝廷に帰順するかわりに、その土地の支配を認められる封建的関係を朝廷と結ぶ段階を経て、律令体制下では、その土地の政治的実権を、朝廷から派遣された官吏「国司」(クニノツカサ)に譲り、自らはその土地の祭祀を司る宗教的な権威職である「社家」とされていきました。「顕世」の政治を皇室にゆだねて、自らは「幽世」の主宰者の地位に退避したオオクニヌシのように。
「国譲り」に「国譲り」を重ねて、各地の政治的実権を一点に吸い集めたヤマト朝廷の頂点に君臨したのが皇室だったわけですが、実は、皇室そのものが宗教的権威として祭り上げられることで、権力の座から疎外されていくカラクリも、「国譲り」神話の中には織り込まれていました。
「国譲り」神話は、このように政治的実権を一身に集めようとする権力者にとってまことに都合のよい非情で理不尽な側面をもつ一方で、「政治」と「非政治」の権威が、並置され、継承されていくという、日本独特の社会構造も生み出しました。
宗教学者、中沢新一氏は、「政治」と「祭祀」が分離され、並置されるのは、アメリカ原住民や、縄文時代など、新石器文明のコミュニティーに見られた特徴であり、「政治」と「祭祀」が一体化するときに「国家」が発生したと述べていますが、日本は、「国譲り」神話のおかげで、国家の誕生以降も、「政治」と「非政治」の権威が常に並置されるという、縄文的な社会構造を、現代に至るまで継承することになったのです。
この「政治」と「非政治」の二重性、もしくは重層性のおかげで、「政治」の権威は、「非政治」の権威によって常に相対化され、政治にほころびが見えた時には、「政治」と「非政治」の役割がゆるやかに入れ替わる「国譲り」も、日本の歴史を通じて幾度か繰り返されてきました。
このように、時代を糺す(ただす)力も、日本の神話の中に胚胎されていたことを思うならば、単に「記紀」や「神話」が、特定の権力者によって政治利用された来歴があるからといって、これらを完全に廃するわけにはいかなくなるのです。
神話を廃するかわりに、神話を利用しようとしてきた権力者の「人為」や「政治」や「野心」や「陰謀」を相対化し覆し糺していく、神話の根底に横たわる「力」に、私たちは目を向けなくてはなりません。
さて、その「力」の一端が、熊野という聖地に現れた。そのことをいよいよ詳しく見ていきましょう。
(つづく)
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