グローバリズムと神道(13)
もう一つの「国譲り」。

一昨年、60年ぶりの遷宮によって、屋根を美しく葺き替えられた出雲大社の本殿。
「子供二人の申しましたとおりに、私も決して背くことではございません。この葦原中国は、仰せのままに悦んでさしあげましょう。ただ私の住むところのために、天神の御子の、代々御世を嗣ぎ給うべき天津日嗣の、その御膳をおつくりする御厨である、煙立ち上る、富足りた、天之御巣の壮大な構えと同じほどに、地の底の岩根までも深く宮柱を埋め、高天原に氷木の届くほどに屋根の高い、立派な宮殿を築いて私を祭ってくださいますならば、私は百に足らぬ八十の、曲がりくねった道また道を訪ねてゆき、遠い黄泉国に身を隠すことにいたしましょう。」
(出典:『古事記』上つ巻 福永武彦訳)
高皇産霊尊は二柱の神を再び遣わして、大己貴神(オオクニヌシの別名)に勅していわれるのに、「(前略)あなたが行われる現世の政治のことは、皇孫が致しましょう。あなたは幽界の神事を受け持ってください。またあなたが住むべき宮居は、今お造りいたしますが、千尋もある栲の縄でゆわえて、しっかりと結びつくりましょう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚くいたしましょう。(中略)またあなたの祭祀を掌るのは、天穂日命がいたします。」と、そこで大己貴神が答えていわれるのに、「天神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。私が治めることの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて幽界の神事を担当しましょう」と。
(出典:『日本書紀』神代下 第九段 宇治谷孟訳)
1744年に建造された、高さ24mの現在の出雲大社の本殿も、現存する神社建築の中で最大の規模を誇るものですが、過去には、下の図のように、48m、さらに古くには、96mもの高さの社殿が建てられたと伝えられています。

代々「出雲国造」(出雲大社の宮司)を務めてきた千家家に伝わる、平安-鎌倉期の出雲大社の本殿の平面図と言われる「金輪御造営差図」にも、「引橋長一町」(「階の長さは約109m」の意)の文字が読み取れ、

平成12年には、この平面図に描かれた通りの、三本の大木を一組にゆわえた巨大な柱のあとが出雲大社の現在の本殿前の地下から発掘され、巨大神殿の実在を裏付けました。

記紀において、オオクニヌシが「国譲り」の条件としたと伝えられる通り、壮大な社殿に、「幽世の主宰者」としての高い崇敬を受けながら、オオクニヌシが手厚く祀られていたことが改めて明らかになったわけです。
これまで述べてきた通り、この「国譲り」というモデルを歴史の初期段階で手に入れたおかげで、私たちの国は、その後の歴史の中で、「天津神」(中央勢力)と「国津神」(地方や末端勢力)が、互いに他を根絶しあったり、革命によって王朝や政府の転覆を図ったりすることなく、平和的に政治的権力を移譲し合い、共存する関係を維持することが可能になったわけですが、そのようなポジティブな側面があった一方、少し穿った見方をするならば、「国譲り」とは畢竟、
「宗教的権威や非政治的名誉職として高く祭り上げることで、政治的権力を相手から奪う手法」
とみなすこともできます。
通常、祭政一致の古代社会においては、宗教的な権威を付与されることは、政治的権威の裏付けとなったと私たちは考えがちですが、記紀の描くオオクニヌシの姿は、そのような私たちの思い込みとは裏腹に、オオクニヌシが現実世界において政治的権威を手に入れたのは、彼が、兄たちにいじめられたり、父スサノオの迫害を受けたり、人間としての徹底した「弱さ」を露呈することを通してであり、逆にオオクニヌシが、「幽世の主宰者」として、宗教的な権威に祭り上げた段階では、彼は完全に、現実世界から退避させられ、政治的権威を奪われています。
こう考えるならば、実は、アマテラスの子孫として天皇や皇室を高く称揚した『古事記』や『日本書紀』という書物は、天皇の政治的権力の正統性を明確にするための書物であるどころか、実は、宗教的権威として称揚することによって、皇室から政治的権力を奪取し、無力化するための意図が隠されていた可能性すら浮上してきます。
宗教的な崇敬の対象とされることによって、現実世界における政治的な実権を奪われたのは、「国津神」であるオオクニヌシのみならず、「天津神」の子孫とされた天皇自身でもあったかもしれないのです。
実際に、記紀編纂とともに確立された律令制において、政治的な実権は、太政官の最高権力者であった藤原氏が掌握していたのであり、天皇と、藤原氏の間には、律令という法的な枠組みの中で、「政治」と「非政治」の権威を移譲し合う、もう一つの「国譲り」が起きていたとも考えられます。

こう考えると、なぜ記紀の神話の三分の一は、オオクニヌシに関する物語で占められているのか。なぜ、記紀は、オオクニヌシを、皇室が恐れるべき神として描いているのか。その理由も見えてきます。
剣の神「タケミカヅチ」によって刃を突きつけられていたのは、オオクニヌシやその子らだけではなかった。
「タケミカヅチ」が、オオクニヌシとその子らに剣を突きつけて「国譲り」を要求することを通して、「タケミカヅチ」(すなわち藤原氏)は、天皇とその子らに剣を突きつけて「国譲り」を求めていたのかもしれない。
天皇自らが、もう一人の「オオクニヌシ」であったのかもしれないのです。
実際に、729年、記紀や大宝律令の編纂に携わった藤原氏の実質的な祖、藤原不比等の四人の兄弟らによって、藤原氏の意向に従わない皇族の長屋王とその家族が死に追いやられるという凄惨な事件が起きました。
天皇を神の子孫とした『古事記』完成から17年、『日本書紀』完成からはわずか9年目の出来事です。
(つづく)
- 関連記事
-
- グローバリズムと神道(15) (2015/01/20)
- グローバリズムと神道(14) (2015/01/20)
- グローバリズムと神道(13) (2015/01/20)
- グローバリズムと神道(12) (2015/01/18)
- グローバリズムと神道(11) (2015/01/18)