グローバリズムと神道(7)
地祇たちの反逆、日本史の抱える「重層性」(1)
古事記や日本書紀などの日本神話に描かれる「八百万神等」(やおよろずのかみたち)は、アマテラス、ニニギ、イワレヒコ(神武天皇)など、高天原に起源を持ち、日本の統一を成し遂げた皇室の祖である「天津神」(天神)と、オオクニヌシ、ニギハヤヒなどの、土着勢力の神霊、祖霊として祀られる「国津神」(地祇)に分けられます。
(ちなみに日本の国土の創出である「国産み」を行ったイザナギ・イザナミ以前に、世界の創出である「天地開闢」に携わった「造化三神」を含む五柱の神々は「別天津神」(ことあまつかみ)と呼ばれて、「国生み」以降の「天津神」とは若干区別されています。)
スサノオは、死んだイザナミに会いに黄泉国を訪れたイザナギが、腐敗したイザナミの体を見て命からがら逃げてきた後に、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊をした際、アマテラスやツキヨミなどと共に生まれた「三貴子」の一柱であり、本来は「天津神」の一柱に数えられるべき神ですが、下の図表をご覧になればおわかりのとおり、日本神話において、「イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ、ニギハヤヒ、オオモノヌシ」などは、「国津神」の系統の神々として描かれています。

注意すべきなのは、日本神話において「根の国」は、単純な「悪」しき忌むべき場所としては扱われているわけではなく、世界の根底として、豊饒さをもたらす根源として、罪過が運び去られて浄化がなされる場所として、大きな使命のために鍛錬を受ける場所として、積極的な意味をも与えられている点です。
実際、イザナギがアマテラスを始めとする「三貴子」を生んだり、オオクニヌシが国づくりを行ったり等の、プロダクティブな行為がなされたのは、これらの神々が「根の国・黄泉国」に下り、帰還したあとの出来事です。
「高天原」と「根の国」、「天津神」と「国津神」は、善悪二元的な対立概念としてではなく、東洋思想における「陰陽」概念に似て、相互補完的な役割を持つものとして描かれています。
つまり、日本神話が「八百万神等」の物語を通して描くのは、「善」と「悪」の二勢力による対立や相克や交渉なのではなく、また、単に「たくさんの神々がいました」ということでもなく、日本の国や歴史の内部に、その始まりの時点から胚胎され、保持され続けている「重層性」です。
この「重層性」は、古代史のみならず、日本の全歴史を通じて、現代に至るまで、この国の中にそのまま息づくものであり、この国が日本という国であらんとする限り抱え続けるものです。
この「重層性」は、それが失われる時、日本は日本ではなくなってしまうといっても過言ではないほど、日本の本質をなしています。
「多元的保守思想」の確立という、本ブログの根幹テーマにとっても、この「重層性」を解き明かすことは極めて重要です。
この「重層性」を理解するとき、現代の私たちが陥りがちな「右翼」や「左翼」、いずれの迷妄からも私たちは容易に脱却できるようになるはずです。(つづく)
(ちなみに日本の国土の創出である「国産み」を行ったイザナギ・イザナミ以前に、世界の創出である「天地開闢」に携わった「造化三神」を含む五柱の神々は「別天津神」(ことあまつかみ)と呼ばれて、「国生み」以降の「天津神」とは若干区別されています。)
スサノオは、死んだイザナミに会いに黄泉国を訪れたイザナギが、腐敗したイザナミの体を見て命からがら逃げてきた後に、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊をした際、アマテラスやツキヨミなどと共に生まれた「三貴子」の一柱であり、本来は「天津神」の一柱に数えられるべき神ですが、下の図表をご覧になればおわかりのとおり、日本神話において、「イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ、ニギハヤヒ、オオモノヌシ」などは、「国津神」の系統の神々として描かれています。

注意すべきなのは、日本神話において「根の国」は、単純な「悪」しき忌むべき場所としては扱われているわけではなく、世界の根底として、豊饒さをもたらす根源として、罪過が運び去られて浄化がなされる場所として、大きな使命のために鍛錬を受ける場所として、積極的な意味をも与えられている点です。
実際、イザナギがアマテラスを始めとする「三貴子」を生んだり、オオクニヌシが国づくりを行ったり等の、プロダクティブな行為がなされたのは、これらの神々が「根の国・黄泉国」に下り、帰還したあとの出来事です。
「高天原」と「根の国」、「天津神」と「国津神」は、善悪二元的な対立概念としてではなく、東洋思想における「陰陽」概念に似て、相互補完的な役割を持つものとして描かれています。
つまり、日本神話が「八百万神等」の物語を通して描くのは、「善」と「悪」の二勢力による対立や相克や交渉なのではなく、また、単に「たくさんの神々がいました」ということでもなく、日本の国や歴史の内部に、その始まりの時点から胚胎され、保持され続けている「重層性」です。
この「重層性」は、古代史のみならず、日本の全歴史を通じて、現代に至るまで、この国の中にそのまま息づくものであり、この国が日本という国であらんとする限り抱え続けるものです。
この「重層性」は、それが失われる時、日本は日本ではなくなってしまうといっても過言ではないほど、日本の本質をなしています。
「多元的保守思想」の確立という、本ブログの根幹テーマにとっても、この「重層性」を解き明かすことは極めて重要です。
この「重層性」を理解するとき、現代の私たちが陥りがちな「右翼」や「左翼」、いずれの迷妄からも私たちは容易に脱却できるようになるはずです。(つづく)
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