グローバリズムと神道(6)
「神社」は、いまだ、「もり」であることをやめない。

大晦日には、大掃除の合間に、日々お参りしている地元の神社の「師走大祓」(しわすのおおはらえ)の神事に参加し、半年間の罪や穢れを祓い清めていただくと共に、元旦には、初詣に赴き、国と、個人生活と、WJFプロジェクトと、それを支えてくださる皆様の新しい一年の安寧をお祈りさせていただきました。
神社や神道が、歴史の中でどんな変節を経てきたとしても、古来より受け継がれた祈りの所作を守ることが、そのまま、この国の形や魂を守ることにつながると信じるからです。
引き続き「グローバリズムと神道」に関する考察を進めていきます。
宗教の中には、異なる文化や宗教に直面したとき、これらを廃絶しようとする排他的な姿勢をもつものがあります。
しかし、神道は、縄文時代の最もシンプルな自然崇拝を根底に持ちながら、外来の文化や宗教を排除することなく、おおらかに受け入れ、それらとの「習合」を重ねていきました。
それは、長い時の流れの中で、幾層もの地層が大地の上に堆積していく過程と似ています。
縄文時代から日本列島に土着してきた人々の自然崇拝に、祖霊崇拝や、渡来してきた弥生人たちの信仰、中国大陸の文化や作法、仏教や儒教が「習合」していきました。
しかし、幾たびも重ねられてきた「習合」によって、神道はその始まりの姿から、何かすっかり別のものに変質してしまったかといえば、その根底にある「本質」は何も変わるところはなかったと考えます。
神社が神気に満ちた「もり」であることをやめたことは、古代から現在に至るまでなかった。
そのことは、私たちが神社に赴く時に、自らの心と体で、現在も直接確認できることがらではないでしょうか。
地下水が、その上に積み重なった幾層もの地層を浸透して、やがて、地表にこんこんと湧き出ずるように、神社という場所の根底に、古代から息づくスピリットが、その上に加えられていった様々な外来の要素を透過して、それらの意味や形を時間をかけて変質させながら、表出してくる。
この根絶しがたい「本質」がもつ根強い浸透力のゆえに、神道は、外来の文化に対して偏狭で排他的な態度を示すことなく、時にはあまりに無防備なまでに鷹揚に受け入れてきたのではないかと考えます。
また、この「本質」を根底に抱えているからこそ、その上に、どんなに「非本質」的に見える地層が堆積して「本質」を覆い隠すように見えても、神道という伝統を、私たち日本人は放棄してはならないのだと思います。
「本質」に接近するには、それを覆う「非本質」的なものを媒介するしかないからです。
つまり神道は、一見矛盾する二つの特質を抱えています。
1. 外来の文化や宗教に対して無防備なほど寛容である。
2. しかし、その根底に、受け入れた外来の文化や宗教を変質させ、同化してしまう、「本質」を抱える。
この二つの特質は、神道のみならず、日本の文化全般に当てはまる特質でもあります。(つづく)
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