グローバリズムと神道(1)
神道の抱える二律背反。
「右翼」でもなく、「左翼」でもなく、冷戦構造に由来する二極的な対立構図を超えて、「日本の根っこ」からまっすぐに生え出た政治を再興する。
このような課題を真摯に受け止めるとき、私たち日本人は、どうしても、神道という日本の伝統と向き合わざるをえません。
宗教のみならず、人間の様々な営みは、単に外側から観察するだけでは理解することはできません。その中に入り、共感をもって人々と価値観を共有しつつも、それと同時に、ある距離感をもって客観的にその営みを見つめる眼差しを失わずにいることも、大切なことです。
「共感」(コミットメント)と「客観」(ディタッチメント)という二つの姿勢を保ちながら、宗教や人々の営みを理解しようとする姿勢は、WJFプロジェクトが、日本の「ネット保守」の抱える矛盾を看破する上でも、大いに役だったかもしれません。「ネット保守」は宗教と酷似した特徴を抱えているからです。
今、私の関心は、一人の日本人として、「日本の根っこ」に関わるであろう、日本の古くからの神祇信仰に向けられています。
明確な教義をもたないことに由来するわかりにくさと、あまりに卑近な存在であるために、神社や神道にそれほど熱心に寄りつくことなく暮らしてきた私でしたが、今年は、「日本の根っこ」を探し求めながら、折をみては、さまざまな神社を訪れる機会を得た一年となりました。
日本の津々浦々に現在も無数の神社が存在し、今もたくさんの人々が参拝する姿を目の当たりにし、そのことのありがたさを実感すると同時に、日本人の生活と密接なつながりをもってきた神社や神道も、なかなか一筋縄ではいかないことがわかってきました。
律令制の導入と同時に整備された記紀神話に内包されている問題。本地垂迹説を掲げた両部神道から、反本地垂迹説を唱えた吉田神道の流布、国学の隆盛を経て、明治維新に伴う廃仏毀釈と国家神道の樹立とその蹉跌。そして戦後に再編された神社本庁による様々な逸脱行為、などの問題点も見えてきました。
神道は、律令制という古代北東アジアの「グローバル・スタンダード」を受け入れた時代に、記紀や主要な神社が整備されていることからわかるように、また産業資本主義と帝国主義と近代国民国家という19世紀における「グローバル・スタンダード」を受け入れた明治維新において神道の純化や復興が必要とされたことからもわかるように、日本のグローバル化を促進するのと同時に、日本の伝統を保持するという、二律背反の性質を、当初から抱えています。
神社や神道は日本人にとって何であり、また何であり得るのか。
日本人は、この伝統とどのような姿勢で関わるべきなのか。
この問いに答えることは、今後ますますグローバル化していくであろう、これからの日本を生きて行く上で、そしてグローバル化の潮流に抗いながら日本人らしい生き方を守っていく上で、大切な問いになると思います。
「多元的保守思想」という当プロジェクトが掲げるテーマにとっても、避けることのできない問題であると思います。
ここでも「共感」と「客観」、「信じること」と「疑うこと」という二つの姿勢を保ちながら、神道のもつ意義や可能性と、その問題点を同時に見つめていくことが大切なのだろうと思います。
この問題をしばらく考えていきたいと思います。
このような課題を真摯に受け止めるとき、私たち日本人は、どうしても、神道という日本の伝統と向き合わざるをえません。
宗教のみならず、人間の様々な営みは、単に外側から観察するだけでは理解することはできません。その中に入り、共感をもって人々と価値観を共有しつつも、それと同時に、ある距離感をもって客観的にその営みを見つめる眼差しを失わずにいることも、大切なことです。
「共感」(コミットメント)と「客観」(ディタッチメント)という二つの姿勢を保ちながら、宗教や人々の営みを理解しようとする姿勢は、WJFプロジェクトが、日本の「ネット保守」の抱える矛盾を看破する上でも、大いに役だったかもしれません。「ネット保守」は宗教と酷似した特徴を抱えているからです。
今、私の関心は、一人の日本人として、「日本の根っこ」に関わるであろう、日本の古くからの神祇信仰に向けられています。
明確な教義をもたないことに由来するわかりにくさと、あまりに卑近な存在であるために、神社や神道にそれほど熱心に寄りつくことなく暮らしてきた私でしたが、今年は、「日本の根っこ」を探し求めながら、折をみては、さまざまな神社を訪れる機会を得た一年となりました。
日本の津々浦々に現在も無数の神社が存在し、今もたくさんの人々が参拝する姿を目の当たりにし、そのことのありがたさを実感すると同時に、日本人の生活と密接なつながりをもってきた神社や神道も、なかなか一筋縄ではいかないことがわかってきました。
律令制の導入と同時に整備された記紀神話に内包されている問題。本地垂迹説を掲げた両部神道から、反本地垂迹説を唱えた吉田神道の流布、国学の隆盛を経て、明治維新に伴う廃仏毀釈と国家神道の樹立とその蹉跌。そして戦後に再編された神社本庁による様々な逸脱行為、などの問題点も見えてきました。
神道は、律令制という古代北東アジアの「グローバル・スタンダード」を受け入れた時代に、記紀や主要な神社が整備されていることからわかるように、また産業資本主義と帝国主義と近代国民国家という19世紀における「グローバル・スタンダード」を受け入れた明治維新において神道の純化や復興が必要とされたことからもわかるように、日本のグローバル化を促進するのと同時に、日本の伝統を保持するという、二律背反の性質を、当初から抱えています。
神社や神道は日本人にとって何であり、また何であり得るのか。
日本人は、この伝統とどのような姿勢で関わるべきなのか。
この問いに答えることは、今後ますますグローバル化していくであろう、これからの日本を生きて行く上で、そしてグローバル化の潮流に抗いながら日本人らしい生き方を守っていく上で、大切な問いになると思います。
「多元的保守思想」という当プロジェクトが掲げるテーマにとっても、避けることのできない問題であると思います。
ここでも「共感」と「客観」、「信じること」と「疑うこと」という二つの姿勢を保ちながら、神道のもつ意義や可能性と、その問題点を同時に見つめていくことが大切なのだろうと思います。
この問題をしばらく考えていきたいと思います。
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