新しい「国家主義」の確立を目指して
「非政治」と「政治」の対称性を保持する縄文以来の伝統。
宗教学者の中沢新一は、『カイエ・ソバージュ』という書物の中で大変興味ぶかい指摘を行っています。
・縄文文化もその一部であり、南北アメリカ大陸のインディアンの文化の源流でもあった、環太平洋地域に広がっていた新石器文化には、「自然」と「人為(文化)」の間の対称性を維持しようとする特徴が見られた。
・19世紀に行われた人類学の研究によれば、北米インディアンの社会では、自然の力を司る「シャーマン・戦士・秘密結社のリーダー」と、現実社会の調整役を担う「首長」(今の言葉で言えば「政治家」)の役割は峻別されていた。
・「自然」の力を司る権威と「人為(文化や社会)」を司る権威の峻別は、縄文社会にも同様に見られたであろう。
・この二つの権威の峻別が崩れ、両者が接近し同一化したとき「王」が生まれ、「国家」が誕生した。
日本の歴史において、天皇が、「自然」と「人為」の二つの権威を兼ね備える「王」や「皇帝」として振舞った時代が皆無ではなかったとはいえ、縄文の森の中で日本人の無意識の中に焼き付けられたであろう刻印は、歴史の進展の中で消滅することなく、やがて自ずから姿を現していきました。
それは、「自然」に対する祭祀を司る天皇の役割と、「人為(政治)」を司る太政官や幕府の役割の二分という形で顕在化していきました。
律令制という中国から人為的に導入した政治システムが崩れていく過程を通して、縄文らしい社会、つまり本来の日本らしい社会が再び姿を現し、江戸時代には、縄文への回帰が完成していたということになります。
明治維新において、日本は、「自然(非政治)」と「人為(政治)」の二分という縄文文化に根ざす伝統を壊し、西洋の君主制を模倣する形で、天皇と政治を再び一体化させたわけですが、戦後憲法によって、天皇は再び、「政治」から切り離された「非政治」を司る権威という、もともとの立場にお戻りになられました。
今私たちに必要なのは、天皇と政治を一体化させた、縄文以来の伝統からは逸脱した、日本の歴史の中ではきわめて例外的な体制であった明治体制を理想化したり、規範化したりすることなく、グローバリズムの圧倒的な潮流に耐えうる、古くて新しい「国家主義」を確立することだと思います。
「自然(非政治)」と「人為(政治)」の対称性という縄文以来の伝統に根ざす、古くて新しい「国家主義」においては、従来の「右翼」も「左翼」も、再びただの「日本人」として一致できるはずです。
・縄文文化もその一部であり、南北アメリカ大陸のインディアンの文化の源流でもあった、環太平洋地域に広がっていた新石器文化には、「自然」と「人為(文化)」の間の対称性を維持しようとする特徴が見られた。
・19世紀に行われた人類学の研究によれば、北米インディアンの社会では、自然の力を司る「シャーマン・戦士・秘密結社のリーダー」と、現実社会の調整役を担う「首長」(今の言葉で言えば「政治家」)の役割は峻別されていた。
・「自然」の力を司る権威と「人為(文化や社会)」を司る権威の峻別は、縄文社会にも同様に見られたであろう。
・この二つの権威の峻別が崩れ、両者が接近し同一化したとき「王」が生まれ、「国家」が誕生した。
それまで対称性社会(自然と人為の間に対称性を維持しようとする新石器時代の社会)では「文化」と「自然」は異質な原理として、できるかぎり分離されていました。ところが、「自然」のものである権力=力能を社会の内部に持ち込んだ王のいる世界では、このような分離は不可能になります。王自身が「文化」と「自然」のハイブリッドなのですし、クニの権力も同じハイブリッドを原理として構成されるからです。このハイブリッドな構成体に与えられた名前こそ、「文明」に他なりません。野蛮はここから発生します。
(出典: 中沢新一『カイエ・ソバージュ』第2部「熊から王へ」第8章「『人食い』としての王」)
日本の歴史において、天皇が、「自然」と「人為」の二つの権威を兼ね備える「王」や「皇帝」として振舞った時代が皆無ではなかったとはいえ、縄文の森の中で日本人の無意識の中に焼き付けられたであろう刻印は、歴史の進展の中で消滅することなく、やがて自ずから姿を現していきました。
それは、「自然」に対する祭祀を司る天皇の役割と、「人為(政治)」を司る太政官や幕府の役割の二分という形で顕在化していきました。
律令制という中国から人為的に導入した政治システムが崩れていく過程を通して、縄文らしい社会、つまり本来の日本らしい社会が再び姿を現し、江戸時代には、縄文への回帰が完成していたということになります。
明治維新において、日本は、「自然(非政治)」と「人為(政治)」の二分という縄文文化に根ざす伝統を壊し、西洋の君主制を模倣する形で、天皇と政治を再び一体化させたわけですが、戦後憲法によって、天皇は再び、「政治」から切り離された「非政治」を司る権威という、もともとの立場にお戻りになられました。
今私たちに必要なのは、天皇と政治を一体化させた、縄文以来の伝統からは逸脱した、日本の歴史の中ではきわめて例外的な体制であった明治体制を理想化したり、規範化したりすることなく、グローバリズムの圧倒的な潮流に耐えうる、古くて新しい「国家主義」を確立することだと思います。
「自然(非政治)」と「人為(政治)」の対称性という縄文以来の伝統に根ざす、古くて新しい「国家主義」においては、従来の「右翼」も「左翼」も、再びただの「日本人」として一致できるはずです。
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