「非政治」が「政治」を圧倒する国

非政治が「主」、政治は「従」。
ある方が、小林よしのり氏による興味深い記事を紹介してくださいました。

東京大学名誉教授の御厨貴氏は、「少なくとも日本に関して言えば、保守に明確な定義はありません」と言い切った。

例えばアメリカの保守は、「建国の時点のことを守る」ということが基本である。アメリカの保守派が銃規制に反対するのも、建国当時に市民が銃を持ち戦った精神に基づいている。

イギリスの場合は、王に対して貴族階級が反乱を起こし、近代議会政治を始めた時点のことを守るのが基本。政治は貴族階級が行なうものであり、貴族の利益を一番反映すること、すなわち「階級社会を守る」ということがイギリスの保守である。

つまり、保守とは歴史上のある時点の体制を守るということなのだ。それでは日本ではいつの時点の体制を守るのが「保守」なのだろうか?

(出典: 小林よしのりライジング Vol.105「保守がいない保守バブル」ゴーマニズム宣言・第103回「保守とは何かを考える」)

上に引用したのは有料の記事の一部であり、ニコニコ動画の有料アカウントをもたない私には、小林よしのり氏が「日本ではいつの時点の体制を守るのが『保守』なのだろうか?」という問いにどう答えたのかは拝読できませんが、私なりにこの問いに答えを与えてみたいと思います。

私の考えはこうです。

「特定時点の体制を『保守』しようとするのは、日本の『保守』の姿勢ではない。」

私がこう考えるのは次のような理由によります。

日本の歴史を振り返ると、政治体制は様々に変化してきましたが、その一方で万世一系の皇室の存在がありました。

つまり、日本では、「変わりえないもの」と、「変わりうるもの」による、二重の支配が行われてきました。

天皇という「変わりえない権威」が存在したからこそ、国家としての一貫性を保ちながら、政治体制は、柔軟に「変わりうるもの」として変転を許されていました。

天皇は国家安泰や五穀豊穣を祈る祭祀を司る一方、政治に直接携わる親政の時代はきわめて例外的でした。

「政治」「人為(ノモス)」は太政官や幕府が司り、天皇は祭祀を通じて「非政治」「自然(ピュシス)」を司っていました。

そして、古来より、大地に根ざしていきる国民(おおみたから)は、本来的には、「非政治」や、「自然」や、それらを司る「変わりえない権威」こそに帰属しました。

つまり、日本は、「政治」が「非政治」を、「人為」が「自然」を、「変わりうるもの」が「変わりえないもの」を制圧する国ではなく、逆に、「非政治」が「政治」を、「自然」が「人為」を、「変わりえないもの」が「変わりうるもの」を圧倒する国である。

この意味において、日本はまさしく「神国」と呼ばれるべき国でした。

日本において、政治体制は、「変わりえない天皇の権威」の下で、「変わりうるもの」として想定されていますから、特定時点の政治体制を「保守」しようとすることは、日本本来の「保守」の姿ではありません。

安倍政権という特定の政権を「保守」しようとしたり、安倍という特定の政治家を権威づけようとする人々が、「保守」を名乗るのはナンセンスの極みです。

「非政治」を司る天皇の権威の下に、「政治」を相対化していくことこそ、日本の本来の「保守」的な姿勢だからです。

参考記事:「非政治」に「政治」を圧倒せしめよ
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コラッジョさん

治安維持法は、まさに、天皇と資本主義という特定の経済体制が、「国体」として同一化され神聖視されてしまった例であると思います。

明治体制における天皇と政治の結びつきについては、それ以前の時代との比較とともに、さらに詳細に調べていきたいと思います。

No title

>明治体制によって、天皇と政治が結合し一体化された。それによって、天皇制と産業資本主義が結合し、二つの立場が生まれた。

質問なのですが、これは明治維新による結果ではなく、「治安維持法」によるものではないでしょうか?

http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht14-46.htm
第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

三島由紀夫は、
「この法律は天皇陛下の神聖性と、単なる俗な金儲けを一緒くたにしたとんでもない代物であり、これのせいで天皇陛下の神聖性は衰退したのだ」
と激怒していましたが。

プラモデル工作員さん

>根底に目を向けよ、さすれば縄文から現代に至る非政治の力が地表に湧き出し、政治を浄化するだろう、と語るのはもはや宗教のように思われますが、しばらく考えてみます。

もう一度同じことをいます。

明治体制によって、天皇と政治が結合し一体化された。それによって、天皇制と産業資本主義が結合し、二つの立場が生まれた。

「天皇制+資本主義」という体制を護持しようとする「右翼」と呼ばれる立場と、
「天皇制+資本主義」という体制を否定し、壊そうとする「左翼」と呼ばれる立場です。

前者は、天皇制を護持しようとするのと同時に、天皇制と必然的に結合していると彼らが信じる資本主義体制をも護持しようとするので、この立場の人々が新自由主義と呼ばれる暴走した資本主義まで護持しようとすれば、グローバル化を招きいれて、日本の伝統的な社会は壊れていきます。

一方、後者は、新自由主義のような暴走した資本主義に歯止めをかけようとしますが、彼らも資本主義と天皇制は必然的に結合していると信じているため、同時に天皇制のような日本の伝統までも否定し破壊しようとします。

つまり、「右翼」につこうが「左翼」につこうが、日本の伝統的な社会は破壊されていきます。

この問題が生じたのは、そもそも明治体制によって、天皇と政治が結合し、「天皇+資本主義」の結合が、必然的な結合であるかのように誤解されたことによるのであって、この問題を解決するのには、明治維新によって、天皇と政治が結合された、そのこと自体が疑われなくてはならない。

古代より連綿と受け継がれた国家と国民の安寧を祈る宮中祭祀を司る天皇の宗教的な権能と、現実の政治を司る幕府の政治的な権能が並置されていた明治維新直前の日本は、中国の政治システムを導入することによって天皇と政治を一体化させた律令制が崩れることによって、自然と人為の対称性を守る、縄文時代の日本の社会のあり方が、再び姿を現したものだった。

「非政治」の権能と、「政治」の権能が分離され並置されていた、このことの意義を再認識しないことには、「右翼」「左翼」の間を振り子のように行ったり来たりしながら、どっちにせよ日本を破壊してしまう不毛な事態はさけられないだろうとお話ししているのです。

「非政治」の力が「政治」を糾していくという見方を、あなたは宗教だと笑いますが、日本は、天皇陛下が古代より受け継がれた宮中祭祀を現在も執り行い、国家と国民の安寧を日々祈られている宗教的な国家です。

No title

「根底に目を向けよ」ということでしたか。

根底に目を向けよ、さすれば縄文から現代に至る非政治の力が地表に湧き出し、政治を浄化するだろう、と語るのはもはや宗教のように思われますが、しばらく考えてみます。

長々付き合っていただき有難うございました。

プラモデル工作員さん

>非政治のエネルギーをどう結集するか、やはりあなたは答えられない。

「どうする、こうする」という「政治」や「人為」を論じる以前に、「非政治」という根底に目を向けよという話をしているのです。

「どうしたら非政治のエネルギーを傑集できるか」と、あなたが問う段階で、あなたはすでに「非政治」の領域の話を「政治」の領域に引きずり込んでしまっています。

それほどまでにあなたの頭は「政治」と「非政治」を一元化させる明治体制的、近代的な見方に染められています。

右翼を唾棄しながら、あなた自身が一人の右翼なのであり、それゆえにあなたは現在左翼に転じているのですが、右翼にせよ左翼にせよ、「政治」と「非政治」を一元化させる明治体制的な見方に懐疑の目を向けることができていない点で、同じコインの裏表にすぎません。

明治体制的、近代的な見方に立って国の問題を論じる限り、私たち日本人は右翼と左翼に二分され、二つの立場の間をブランコのようにいったりきたりすることしかできなくなってしまいます。

右翼や左翼になることなく政治を批判するために必要なのは、日本人が右翼や左翼に分岐する以前の「根底」に目を向けることです。

その「根底」とは、縄文から現代に至るまで歴史の底流に存在した「非政治」の領域なのであって、その「非政治」の領域は、日本の歴史の中では、地下水がゆっくりと地表に沁みだすように、「政治」の外的な力によって歪められた日本の姿を元来の姿にゆっくりと戻すような力を発揮してきたとお話ししているのです。

その「非政治」の力を私たちは再認識しなくてはなりません。

No title

非政治のエネルギーをどう結集するか、やはりあなたは答えられない。
語ればその瞬間に天皇の権威を政治的に利用することになるからです。
ならば天皇の権威を口にすることは「やってはいけない」事柄であるはずです。
天皇が政治から切り離された理想的な時代だったとあなたが言う江戸時代には、一般庶民にとって天皇は空気のような存在だったのではないだろうか。

それから「神国」という言葉にも違和感を覚えます。
ひょっとすると日本は神国なのかもしれない、という思いは私も心の片隅に持っていますが、おそらくそれもおおっぴらに口にしてはいけない部類の事柄です。
それは語るより体現しないといけないことです。
普通に農作業するお婆さんの方が余程それを体現しているかもしれないのだ。

プラモデル工作員さん

明治体制のように、天皇が政治や経済(産業資本主義)と結びついたのは、日本の歴史の中で例外的ことなのだから、新自由主義と対峙するために、資本家や政府を憎むあまり天皇制打倒を掲げるような共産主義者になる必要はないし、逆に、天皇制を護持しようとするあまり、資本主義や新自由主義まで護持しようとする「右翼」になる必要はない。

右翼も、左翼も、明治体制のように、天皇が政治や経済(産業資本主義)と結びついたのが、日本の歴史の中で例外的なことだという歴史的な事実を知らないがために、そのような錯誤を犯してしまう。

むしろ、天皇は、伝統的に、国家安寧と五穀豊穣を祈る宮中祭祀を通して国民に寄り添う存在なのであり、「非政治」を司る権威である。

「非政治」の力とは、自然の力であり、自然に根ざして生きる国民の素直な願いであり、願いを通して時空を超えて結び合う人々の目に見えない絆やつながりである。

日本という国は、他国とは異なり、「政治」が「非政治」を一元的に抑圧し支配する国家ではなく、「自然」と「人為」の対称性を維持しようとした縄文の社会構造をそのまま反映するかのように、「政治」の権威と「非政治」の権威が並立してきた。

日本は、「自然」や「非政治」が一方的に抑圧されてきた国なのではなく、「自然」や「非政治」を天皇が司ることによって、その力が尊ばれてきた「神国」なのであるから、「政治」に絶望したり、既存の政党の選択によって問題を解決しようと図る以前に、単なる「政治」の記録に過ぎない歴史の根底に横たわる、「自然」や「非政治」という日本の根っこに目をむけなくてはならない。

右翼も左翼も、近視眼的に直近の明治体制だけを見て、それを肯定したり否定したりするのではなく、「縄文から現代にいたる日本の歩みの総体」を見て、「政治」と「非政治」、「自然」と「人為」が対称的に並置されてきた日本の本来のあり方に気づいて、そこから明治体制や、明治体制の残滓を残した戦後体制を相対化しなければならない。

そこから明治体制とは異なる、「自然」や「非政治」に根ざした、本来あるべき「国家主義」を再構築しなければならない。

そういう、古くて新しい国家観にまつわるお話をしているのです。

No title

あなたは、非政治のエネルギーをどう結集するのか、なにも答えていない。
おそらく自分でも分からないから答えられないのだ。

分からないことで人を扇動しようとするのは、日頃あなたが散々に批判している人達がやっているのと同じことですよ。

プラモデル工作員さん

>確かに私はすべてを疑う習性が身についてしまった現代日本人の一人です。

「懐疑」を生み出した近代主義に対する「懐疑」を持たずに、何が「懐疑」か。全てを疑うというのなら、自らが拠って立つ、西洋かぶれの近代的思惟そのものを疑ってごらんなさい。

>もし「祈れ」ということであれば、私はそれには期待出来ない。

あなたが期待しようが期待すまいが、祈ろうが祈るまいが、「非政治」(政治や人為や言葉や意識が届かない世界、端的に言えば「自然」)は、実際に私たちの生活を取り囲んでいます。私は言葉の狭い意味での「宗教」の話をしているのではありませんが、かといって「宗教」を包含しない問題を語っているのでもありません。

元来、日本人は自然や伝統への畏れをもっていたはずですが、最近の日本人はどうしてしまったのでしょうか。

天皇なんかいらない?人民だけいればいい?

唯物論の共産主義者に説法しても時間の無駄です。よそで活動なさってください。

No title

確かに私はすべてを疑う習性が身についてしまった現代日本人の一人です。
だがあなたは、どうエネルギーを結集するのかについては説明出来ていない。

もし「祈れ」ということであれば、私はそれには期待出来ない。

プラモデル工作員

>政治的行為ではない「非政治」のエネルギーの結集というのは、普通に考えれば矛盾している。

それを矛盾としてしか捉えられないから、すでにあなたが「日本の根」を見失った、一人の共産主義者(近代主義者)に過ぎないと申し上げているのです。

No title

政治的行為ではない「非政治」のエネルギーの結集というのは、普通に考えれば矛盾している。

プラモデル工作員さん

>「日本人の自然な良識に照らした第三の道」の中心に天皇がいなければならないということと、天皇と政治は切り離されなければならいということは、どう同居出来るのというのだ。

>「天皇の権威によって世俗の政治的権威が相対化されなければならない」というのがなにを意味しているのか、という前の問いとも関係していると思いますが、あなたはそれらに答えられますか?


「政治」が「政治」を糾し得る時代は過ぎ去りました。

必要なのは、どの陣営であれ「政治」そのものが、「非政治」の広さと深みと「根底」から、圧倒的な力で、批判され、否定され、粛正され、解体され、新しく塗り替えられていくことです。

と、下の記事ですでにお話しています。

「非政治」に「政治」を圧倒せしめよ
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-500.html

「政治」(人為)のレベルでしか「政治」(人為)を考えられないのが共産主義者や近代主義に染められた現代人の特徴です。

No title

「ああそうですか、左翼あつかいですか。じゃあさようなら。」と言って拗ねるほど私は狭量ではないし、諦め早くもないのだ。
(逃げたければあなたがコメント禁止に設定すればよいだけです。)

「日本人の自然な良識に照らした第三の道」の中心に天皇がいなければならないということと、天皇と政治は切り離されなければならいということは、どう同居出来るのというのだ。

「天皇の権威によって世俗の政治的権威が相対化されなければならない」というのがなにを意味しているのか、という前の問いとも関係していると思いますが、あなたはそれらに答えられますか?

要拡散

[不祥事で辞任要求リスト13名]
・安倍首相 相続税脱税3億円&使途不明金2.5億円&税金でキャバクラ(59回、127万)
・宮沢大臣 税金でSMバー&東電株問題&外国人企業(パチンコ)から違法献金
・江渡大臣 1,850万円の使途不明金
・麻生大臣 元愛人のサロンに政治資金1,805万円支出
・望月大臣 政治資金規正法違反(交歓会収入664万円不記載)
・山谷大臣 公安監視の在特会と懇ろ関係
・西川大臣 収賄罪での逮捕歴&詐欺容疑のあぐら牧場から125万献金&政治資金私物化(親族企業へ100万円支出)
・塩崎大臣 あっせん収賄罪(老人ホーム事業に口利き)
・竹下大臣 親族への利益供与 弟の酒屋で105万円越
・有村大臣 脱税で罰金刑を受けた企業から60万円の献金
・佐藤副大臣 2万×600人のパーティー接待(利益供与)
・御法川副大臣 公選法違反(カレンダー3,000部(71万円分)配布
・片山さつき 政府の答弁資料入手で三権分立違反
※要拡散

プラモデル工作員さん

>私は左翼ではないし、

「日本に天皇なんかいらん、人間だけいればいい」

などとおっしゃる方が左翼でなければ、この国に左翼は存在しません。

日本共産党の問題点は、「民主主義」などという外国のイデオロギーを絶対的な規範とした上で、日本の伝統的な形を改変しようとする点です。この点で、共産党の本質は、安倍構造改革政権となんら異なるところはありません。

日本共産党は、天皇制の廃止などと、国民感情を逆なでるようなことをいうから国民の広い支持をを得られない。国民の支持を得られないから、自民党のような新自由主義政党が幅をきかせて、構造改革が進展する。構造改革を批判しても、それは、日本の伝統の内部からたちあがった思想による批判ではなく、外国からの借り物の思想によって、批判するにすぎない。

今後、安倍批判の高まりは、三橋のような表向きだけ安倍を批判してみせる、似非の反新自由主義言論人か、左翼勢力に集約されていきます。

求められるのは、そのいずれにも寄らずに、日本人の自然な良識に照らした第三の道を切り開くことです。

その第三の道の中心にはやはり、伝統的に「非政治」を司ってきた天皇陛下がおられなければならないと私は信じています。

がっかりさせて申し訳ありませんが、ここは左翼サイトではないので、左翼活動がしたければどうかよそでやってください。

がっかりさせないで下さい

「左翼はあっちいけ」と言って安心するようでは、そのへんのネトウヨと変わりがありません。
私は左翼ではないし、左翼以上にやっかいなあなたの批判者です。
(このようなやっかいな批判者を得たことを僥倖と思ってほしいくらいです。)

それから、保守について一言いわせて頂くと、「多元的保守」というのはやっぱりいけません。
なぜなら「多元的保守」は「二元的保守」へのアンチテーゼとして言われているようだから。

自称保守を「二元的保守」と呼ぶのは、方向性は間違ってはいるが彼らも保守の一つの在り方として認めることを意味します。

彼らはいかなる意味においても保守ではないのです。
私が左翼ではないということ以上に違います。

No title

>天皇と政治が二分されなければならず、さらに天皇の権威によって世俗の政治的権威が相対化されなければならないというのは、なにを意味しているのですか?

「天皇と政治が二分されなければならない」という理想や規範をお話しているのではなく、天皇が政治に直接携わった親政の時代は例外的であり、天皇は祭祀を司ってきたという歴史的事実を述べているのです。その歴史的事実に照らした上で、非政治を司ることこそ、天皇の本来の役割であるとお話ししています。

>世俗の政治よりさらに高次の意思を天皇に求めるということなんでしょうか?

「意思」とは、そもそも政治的なものであり人為的なものです。天皇と政治は歴史的に切り離されて、非政治や祭祀を司ってきたという話をしているときに、なぜ天皇が政治的・人為的な「意思」を持つべきだという話になるのですか?

これらのことは、上の文章の中で明らかに記したはずですが、基本的な読解力をお持ちでないならば、議論は成り立ちません。時間の無駄なので、よそに行かれてください。

左翼がだめだから右翼になり、右翼がだめだから左翼になる。

こういう根のない単純なデジタル脳が安倍政権を生み出していることをおわすれなく。

No title

天皇と政治が二分されなければならず、さらに天皇の権威によって世俗の政治的権威が相対化されなければならないというのは、なにを意味しているのですか?

世俗の政治よりさらに高次の意思を天皇に求めるということなんでしょうか?

プラモデル工作員さん

>実際、「天皇の権威」はこれまで、いともたやすく戦に利用されてきているし、現在は新自由主義者たちの愛国アピールの道具でさえあります。

明治体制の不幸は、天皇と政治の二分という伝統的な原則が破れ、両者が一体化したことにあります。天皇と政治、天皇と経済(産業資本主義)が一体化し、日本は富国強兵をスローガンに近代的な国民国家の樹立を目指しました。

明治体制を理想化する従来の「保守」や「右翼」が、天皇の権威を傘に、新自由主義政策を是とするのも、これが理由です。

参考記事:
明治天皇制と産業資本主義の結合
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-233.html
従来の「保守」概念と、本来あるべき「保守」概念
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-241.html

ここで批判されるべきなのは、「天皇(非政治)」と「政治」の安易な一体化なのであって、「非政治」を司る天皇の権威そのものではありません。

むしろ、「非政治」を司る天皇の権威によって、安倍のように新自由主義に邁進する「政治」的権威が相対化されなくてはならないと話しているのです。

>新自由主義への対峙という点では日本共産党は安倍自民党よりずっと保守的な政党だと思っていますが、「天皇」を強調する立場からは、日本共産党は唾棄すべき存在であるはずなのです。

共産党は、下に引用するように、天皇制の廃止を歌っています。天皇なんかなくてよい。人民さえいればよい。あなたと全く同一の考えです。

天皇制のない民主共和制をめざす
 ●日本の国の制度、政治の制度の問題としては、一人の個人が「日本国民統合」の象徴になるとか、あるいは一つの家族がその役割をするとか、こういう仕組みは民主主義にもあわないし、人間の平等の原則にもあわないと考えています。ですから将来の日本の方向として、どういう制度をとるべきかということをいえば、天皇制のない民主共和制をめざすべきだというのが日本共産党の方針であって、この点に変わりはありません。(日本共産党創立81周年記念講演)

http://www.jcp.or.jp/jcp/22th-7chuso/key-word/b_1.html#Anchor-0507

天皇制の廃止を唱える勢力が唾棄されるべきなのは、当たり前です。

天皇と政治が一体化するから、「革命」によって打倒されるべき対象とみなされてしまう。しかし、天皇は本来「非政治」(自然)を司る権威なのであり、「政治」(人為)を司る権威ではありません。

戦後憲法によって天皇と政治は切り分けられ、天皇は「非政治」を司る伝統的な本来の立ち位置に戻られた。

天皇は、伝統的に「非政治」を司ることによって、日本人の暮らしに寄り添う存在なのであって、本来、共産主義者にとってすら唾棄されるような存在ではありません。

そのことを共産主義者たちはまったく理解していません。

「右翼」の人々を作り出してしまう原因は、極端な伝統否定を掲げる「左翼」の人々にもあります。

必要なのは、明治以降の国家主義を単純に唾棄するかわりに、国家の意義を日本の古い伝統に照らして新しく定義しなおすことです。

右翼がだめだから左翼につく。

こういう二元的、二項対立的な考えがだめだと申し上げています。
こんなに安直でばかげた解はないし、安直な解は、必ず本当の解ではない。
左翼運動がしたいならよそでやってください。勘違いされたらこまります。

No title

天皇のいない日本がもはや日本ではない可能性は確かにあるかもしれない。
ただ必要不可欠と断言出来るだけの確証を私が持っていないだけです。

日本の保守にとって天皇は不可欠だろうかと書いたのは、「天皇」を強調することに危険を感じたからです。
実際、「天皇の権威」はこれまで、いともたやすく戦に利用されてきているし、現在は新自由主義者たちの愛国アピールの道具でさえあります。

天皇が廃位させられるような差し迫った危機が無い今、保守を語る際に「天皇」が出てこないといけない必要性はどこにあるのだろうか?

新自由主義への対峙という点では日本共産党は安倍自民党よりずっと保守的な政党だと思っていますが、「天皇」を強調する立場からは、日本共産党は唾棄すべき存在であるはずなのです。

日本人が・・・

古事記、日本書紀の原書であるヲシテ文献を、日本の本当の歴史として受け入れる日がくることを願っております。
でも、日本の本当の歴史を知らなくても、伊勢神宮を参拝する方々が途絶えないのは、やはり、日本人として何かを感じるのだと思いますし、そういう方々が増えていることは確かだと思います。

プラモデル工作員さん

「日本」という国号が生まれたのは、7世紀後半の飛鳥浄御原令の頃であろうと言われています。

それ以前に日本列島に住まう人々がいたとしても、厳密な意味では、「日本」という国家は存在せず、国家体制として十分に組織化されていない人間の集団が存在したのです。

それにもかかわらず、飛鳥浄御原令以前に日本列島に暮らしていた人々を私たちが「日本人」と呼びうるのは、私たちが、その後に成立した国家というフィルターを通して見るからです。

共産主義者たちは国家の存在そのものを邪悪なものとみなしますし、グローバリストたちは、資本主義の進展のための「非関税障壁」として邪魔なものとして解体しようとします。

天皇なんかなくてもよい。国家なんかなくてもよい。縄文や弥生のころのように人々の暮らしさえあればそれは国家だというのならば、その考えは、グローバリストや共産主義者の考えに近似したものです。

私たちは歴史の特定時点を理想化するのではなく、古代から現代に至る日本という国家の歩みの総体に結集しなくてはなりません。

明治体制やそれを理想化・規範化する従来の「右翼」とは異なる形の国家主義を、私たちは追求していかなくてはなりませんし、それは十分に可能であろうと思います。

参考記事: 従来の「保守」概念と、本来あるべき「保守」概念
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-241.html

WJF氏と小林氏の近似

小林よしのり氏のチャンネルに登録しておりますので、続きをかいつまんでご紹介したいと思います。

小林氏の考え方は、極めてWJFさんが提唱される思考に合致していると思われました。

以下、小林氏の保守についての考えた方を続きより要約したいと思います。

「日本特有のもの、ある美風・美意識とか慣習というものは、日本人の中に見えないけど育っているんです。これを守らなければならないと考えるのが保守なんです。」

これは、WJFさんが喝破されておられる、権力者の歴史には刻まれてはいないが、名も無き日本人に受け継がれてきた日本の真善美こそを保守することと同義ではないでしょうか。

「"国"と"公"というものがあるんです。二千年の歴史の中でずっと醸成されてきた不文のルールが"公"。
 日本には日本の公というのがある。目に見えないけれど。でもこれが見えてくる時がありますよ。東北で起こった大地震の時です。
 このような最悪の事態を迎えても日本人はこんなに秩序を守るのかと。そのくらい日本人の精神の中に秩序感覚、公共心がある。
 国が暴走していって公からずれていくということはいくらでもある。戦前はまさに軍部が暴走。
 今話題のヘイトスピーチには公共心は一切ない。彼らはあれを"愛国心"と言っていって日の丸の旗いっぱいはためかせ、罵詈雑言の罵倒を行う。
 それは日本人の公共心に反している。」

そして小林氏の鋭さは次の言葉に集約されています。

『冷戦時代は、日本社会を社会主義に変革しようという人々がおり、これが「革新」と呼ばれた。それに対抗して資本主義体制(米国資本主義体制)を守ろうとする人々が「保守」と呼ばれた。
 だが冷戦構造がとっくに過去のものになった今、「保守」は何を保守し、「革新」は何を革新するのかを明らかにしなければならない。』

まさに冷戦脳からの脱却こそが必要と述べています。

思考停止した親米及び偽装保守では、WJFさんや小林氏のような俯瞰視点が出てこないことが明白であると思われ、また両氏の視点と認識の素晴らしさをあらためて実感した次第です。

お返事有難うございました

日本の建国は大和朝廷でしたか。

私は日本民族が日本だと思っていました。

プラモデル工作員さん

私は、「古代から現在に至る日本人の歩みの総体」によって、個々の時代は相対化されなくてはならず、縄文時代であろうと、明治時代であろうと、特定の時代を理想化したり固定化した規範としてはならないという趣旨のことは書きましたが、建国以降の歴史を廃止して、縄文時代に帰れなど一言も書いたことはありません。

参考記事: 古代から現在に至る日本人の歩みの総体
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-238.html

人間が農耕や定住を行い、財の蓄積や分配に関するルールが設けられ、国家が編成される以前の、縄文時代(新石器時代)は、私たちが想像する以上に人間がスピーディーに山を越え海を越えて移動し、共通の神話を共有していたグローバルな世界でした。

現在のグローバル化への流れは、歴史を大まかに捉えるならば、現生人類の世界が新石器時代の原初の姿にもどりつつあることを示しています。国家の意味は希薄化され、人間はばらばらの個や小さなコミュニティーに切り分けられ、インターネットやメディアの普及によって言語や文化は時間を越えて残る記念碑的な造形を刻もうとするよりも、口語化・口承化・流動化しています。

国家成立以前の時代をあまりに理想化し、その後成立した国家の存在を過小評価してしまえば、グローバルな世界をかえって招来することになるでしょう。

「古代から現在に至る日本人の歩みの総体」において、祭祀を司る天皇と、政治的権力の二重の権威が日本に存在したことは厳然たる事実です。

明治から敗戦まで、この二重性が崩れ、天皇と政治は一体化しましたが、戦後憲法によって天皇は「非政治」を司る、本来の位置付けにもどされたのではないでしょうか。

右翼がだめだからといって左翼化することほど簡単で安直な解はありません。

WJFプロジェクトは、人民がいれば国が成り立つと考える共産主義や、「人民の人民による人民のための政治」を掲げる単なるデモクラシーを追求する場所ではありませんので、お間違いのないようお願いいたします。

日本本来の保守にとって、果たして天皇は不可欠だろうか

日本を日本たらしめているのは、一般庶民の日本人ではないだろうか。
私個人について言わせてもらうと、守りたい日本の風景の中に別に天皇が居なくても構わないのです。

以前、縄文時代から現代に至る日本の歴史ということを書いておられたと思いますが、大王(おおきみ)をいただく大和朝廷が成立したのは紀元後3世紀の古墳時代の頃からのようです。
それ以前の縄文時代、弥生時代の約2万年の間は、天皇(おおきみ)という「変わりえない権威」は存在しなかったということです。

縄文、弥生の時代に日本列島に暮らしていた人々の歴史を、どれほど現代日本人が受け継いでいるのかは分かりませんが、日本と天皇を不可分とする考え方には、疑念が差し挟まれる余地があります。
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