大衆心理操作にどう対峙するか

私たちを閉じ込める二重、三重の嘘。
第一次世界大戦末期の1918年、革命によって帝政が滅びるとドイツは共和制に移行し、世界で初めて、財産制限を設けず、20歳以上の男女に平等に選挙権を認めたワイマール憲法が制定されました。

当時の世界で最も民主的で先進的なこの憲法の下で、ドイツの大衆が政権選択の自由を手にいれた結果生まれたのが、彼らに不自由を強いたヒトラーの率いるナチス政権でした。

保守派の論客として知られた評論家の小林秀雄はヒトラーについて、次のように記しています。

ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。というより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学にすぎぬ。その点、個人の心理も群衆の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不撓不屈であった。

大衆は議論を好まぬ。ドイツのマルクシズムの弱点は、それを見損なっている処にある。無邪気な客観主義は、新しい理論を生み出すに過ぎず、人心の扉を開けて、そこに眠っている権力への渇望に火をつける事を知らぬ。マルクシズムの革命の成功者は、科学的教義によって成功したのではない。大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望の火を附ける事によってである。これらは一階級の弱点ではない。人間の弱点だ。問題は弱点の濃厚になっている場所を捜す事だ。ドイツ共産党は、この利用すべき原動力を忘れている。

だがマルクシズムにも学ぶべき点がないわけではない。それは、ある世界観を掲げているという事だ。ビスマルクの社会主義弾圧法以来の政治家どもの失敗は、世界観というものを粗末にしていたからだ。

では、世界観とは何か。獣物の闘争という唯一の人性原理を信じたヒットラーには、勿論、科学的であろうとなかろうとあらゆる世界観は美辞に過ぎない。だが、美辞の力というものはある。この力は、インテリゲンチャの好物になっている間は、空疎で無力だが、一般大衆のうちに実現すれば、現実的な力となる。従って、ヒットラーにとっては、世界観は大衆支配の有力な一手段であり、もっとはっきり言えば、高級化された一種の暴力なのである。暴力を世界観という形に高級化する事を怠ると、暴力は防禦力ばかりで、攻撃力を失う、と彼は明言している。もっとはっきり、彼は世界観を美辞とは言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。そして、彼はこう附言している。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の力の方が余程大事である、と。

大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返せねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。紋切り型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼等は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理想などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

(出典: 小林秀雄『考えるヒント』:「ヒットラーと悪魔」より一部抜粋)

世界初の完全普通選挙によってドイツの大衆が手にした自由は、彼らの手にあまる過大な贈り物でした。

自由によって不自由を招いたワイマール共和制の蹉跌は、民主主義が、大衆心理操作に操られる大衆の弱さや愚かさと必然的に結びつかざるをえないことを端的に示しています。

大衆の目を特定の敵に集中させ、「高級化された暴力」や「大きな嘘」に過ぎない「世界観」を振りかざし、「永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望」という人間全般が抱える弱点につけ込むプロパガンダに対して、大衆はあまりに無力です。

大衆は赤子の手をひねるようにたやすく扇動家たちに欺かれ、仮に組織的に垂れ流される嘘を見破り警鐘を鳴らす人間がいたとしても、珍奇な意見を述べる「変わり者」や「敵」や「裏切り者」として、大衆によって排除されてしまいます。

安倍政権も、「戦後レジームからの脱却」だの「日本をとりもどす」だのといった美辞を掲げ、特亜や左翼やマスコミや民主党をスケープゴートにしながら、古今東西のありとあらゆる大衆心理操作の手法を駆使して、大衆の愚かさに極限までつけこんでいます。

扇動家は、必ずしもヒトラーのような拳を振りかざすアジテーターとして登場するわけではありません。

時には、グローバリズムを糾弾する愛国政治家の姿を通しても、

時には、愛国者を偽装した売国政治家を批判する正論を語る言論人の姿を通しても、

時には、ウッディ人形で戯れる親しみやすい青年の姿を通しても私たちの前に現れます。



大衆心理操作の仕掛けはあまりに巧妙であり、例えば、私たちが「マスコミの嘘から目覚めた」と思ったときには、すでに、私たちの味方としてマスコミの嘘を糾弾しながら私たちを誘導する別種の扇動家に欺かれていることがしばしばです。

そして、たちのわるいことに、嘘をつくマスコミの背後にも、マスコミの嘘を糾弾する扇動家の背後にも、同じ勢力が存在したりするのです。

大衆心理操作の罠は、「こんな場所に罠がしかけられているはずがない」と私たちが思う場所に仕掛けられているからこそ「罠」として働きます。

民主主義の時代を生きたればこそ、私たちは大衆心理操作の問題に注意を払わなければならず、大衆心理操作など存在しないかのようにふるまうことは許されないのですが、扇動家に立ち向かうには、私たちも、別種の扇動家とならなくてはならないのか。それとも、珍奇な意見を述べる「変わり者」や、新奇を追う知識階級が増えていけば、民主主義の毒は除かれるのか。

その答えは、私にはわかりません。
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