「正直な子供」の政治性
Honesty is the best politics. 正直であることは、最良の「政治」である。
下の記事は、WJFプロジェクトの最大の理解者の一人であるちいほさんへのコメントを少し修正して記事にしたものです。下の記事は、ちいほさんをはじめ、WJFプロジェクトを日頃、熱心に支援し応援してくださる全てのみなさんに対する深い感謝の気持ちとともに記されています。
ちいほさんも、KUZUYA氏も、WJFの「政治性」の欠如、反・政治的なふるまいを嘆いているのだと思います。
確かに「インチキな仕立て屋」があまりに政治的であるのと対照的に、「正直な子供」は、一見、反・政治的に振る舞っているように見えます。
現実の利害関係と無関係な場所から「王様は裸だ」と無邪気に叫ぶ「正直な子供」の姿勢が、ある気づきを人々に与えるという点では有効であるとしても、現実を構築する上ではあまりに無力ではないのか。現実を構築する上では、人は多かれ少なかれ「インチキな仕立て屋」として、権力者にすり寄ったり、人々に取り入ったり、調子を合わせたり、時には嘘・偽りに目をつぶったり、したたかに振る舞う政治性をも身につける必要があるのではないか。
それがKUZUYA氏が、私に突きつけた問いであり、彼が三橋を持ち上げるカツトシの周りに現在群がっている理由ではないかと受け止めています。彼なりに、WJFに欠落していると彼が考える「政治性」を発揮しようと、鈴虫の鳴く夜中の人気のない公園のベンチから、カツトシの生放送に「凸」しているのでしょう。
カツトシが、小汚い部屋から展開する、猥談や、筋トレ話や、デマや、うわさ話や、悪口の中に、KUZUYA氏は「政治性」の充満を感じ取って、大満足しているのかもしれません。
安倍政権を生み出したのが「インチキな仕立て屋」たちが発揮した「政治性」であるならば、それを打倒するのにも「インチキな仕立て屋」たちの「政治性」を必要とする。なぜなら大衆は、煽動によってしか動かないのだから。そのためには、「インチキな仕立て屋」道を極限まで極めた三橋貴明のもつ「政治性」を利用することが必要なのだ。そう彼らは考えるのでしょう。
「インチキな仕立て屋」のもつ「政治性」こそが大衆を動かす唯一の力であるのに、WJFプロジェクトは何をしているのか。三橋貴明を批判し、「インチキな仕立て屋」的な手法を拒絶し、「政治性」を否定し、ひたすら「正直な子供」を名乗って無菌室にこもっているだけではないのか。それがKUZUYA氏のWJFプロジェクトに対する批判の主眼であると受け止めています。
しかし、私は次のように考えています。
どういうことなのかというと、「人に付くのではなく事実につく」というのがWJFプロジェクトのモットーですが、「事実に付く」=「正直な子供」の姿勢、「人に付く」=「インチキな仕立て屋」の姿勢ととらえていただくと、「人につくのか、事実につくのか」という問いは、まさに実存的な問いとして、日常の一場面ごとに、私たち一人一人に突きつけられていることがわかります。
わかりやすい例を取り上げると、最近、ツイッター上の議論でWJFのブログ記事を好意的に取り上げてくださった方がいます。WJFを好意的に取り上げてくださる人に同調しようとする誘惑を私自身も感じることがありますが、私の習い性で、そういう意識は意図的に捨てて、議論している双方の主張を等距離に見て、客観的に評価しようとつとめるようにしています。ここでわずかでも、「人に付こう」「人に取り入ろう」とする「インチキな仕立て屋」的な意識、政治的な意識が混入すると、「事実に付く」という「正直な子供」としての心の目は必ず曇るようになります。事実に付き、事実を語る、「正直な子供」たるためには、一瞬たりとも「インチキな仕立て屋」として振る舞うことはできません。
それは「正直な子供」であることは、必ずしも反・政治的であることを意味せず、それ自身、「インチキな仕立て屋」とは異なる別種の「政治性」を持っているということです。その「政治性」は、「インチキな仕立て屋」のように事実を犠牲にして、幻想や、嘘、偽り、主観や、嗜好や、欲や、利害を媒介して群れ合う「政治性」とは異なる、事実を媒介して結び合う「政治性」です。
「正直な子供」として事実を語ることは、コンフリクト(対立や緊張)を作り出し、人々を遠ざけたり、離反させたりすることがあるのも事実ですが、同時に、人々を呼び集め、固く、深い絆で結びつける力ももっています。互いにべたべたすることはなく、歯に衣を着せず互いに批判し合いますが、にもかかわらず、深い信頼で結び合うのが、「正直な子供」の政治性です。
私がいろんな人々と対立することで、離反する人もいますが、同時に、その議論を見て、共感や信頼を寄せたり、新しく支持してくださるようになる人たちもいるのです。また面白いことですが、対立する相手と深い友情でむすばれるようになることもあります。遠慮なしに腹を割って話合うのですから、そうなるのは当然とも言えるのですが。
ちいほさんが、WJFプロジェクトに、深い共感を寄せてくださるようになったのも、そもそも「正直な子供」たることが立派な「政治性」をもっていることの証左ではなかったでしょうか。
ちいほさんのみならず、今でも、WJFプロジェクトを熱心に支援し応援してくださる方たちがいらっしゃるのも、「正直な子供」たることが立派な「政治性」をもっている証しであると考えています。ちいほさんは、WJFが「正直な子供」として振る舞うことによって、敵が増え、孤立し、支持者が減るのではと心配されていますが、私は逆に、WJFプロジェクトが途絶えるとしたら、それは、WJFプロジェクトが「事実につく」のをやめて「人につく」ようになり、「正直な子供」として振る舞うことをやめてしまったときだと考えています。そのとき、WJFプロジェクトは内部から腐敗していきます。「事実」に付く限り、「事実」を語り続けるかぎり、WJFプロジェクトが孤立したり消滅することは決してありません。それはわたしの揺るぎない確信です。 「事実」、そして、「自然」は、必ず、何かの手段で、自らを開示しようとするからです。
KUZUYA氏が、WJFプロジェクトに、「インチキな仕立て屋」として振る舞うことを期待されても、できない相談です。私なりの長年の修養を通して築いてきた姿勢なので、変わりようがないからです。私がそうできないからといって、私を「クズ」と呼ぶ資格は彼にはありません。
WJFプロジェクトは「インチキな仕立て屋」としての政治性を発揮することは、逆立ちをしてもできませんが、「正直な子供」としての別種の政治性を武器に戦っていきたいと思っています。
どうぞ、これからもWJFプロジェクトのよき理解者として応援願います。
ちいほさんも、KUZUYA氏も、WJFの「政治性」の欠如、反・政治的なふるまいを嘆いているのだと思います。
確かに「インチキな仕立て屋」があまりに政治的であるのと対照的に、「正直な子供」は、一見、反・政治的に振る舞っているように見えます。
現実の利害関係と無関係な場所から「王様は裸だ」と無邪気に叫ぶ「正直な子供」の姿勢が、ある気づきを人々に与えるという点では有効であるとしても、現実を構築する上ではあまりに無力ではないのか。現実を構築する上では、人は多かれ少なかれ「インチキな仕立て屋」として、権力者にすり寄ったり、人々に取り入ったり、調子を合わせたり、時には嘘・偽りに目をつぶったり、したたかに振る舞う政治性をも身につける必要があるのではないか。
それがKUZUYA氏が、私に突きつけた問いであり、彼が三橋を持ち上げるカツトシの周りに現在群がっている理由ではないかと受け止めています。彼なりに、WJFに欠落していると彼が考える「政治性」を発揮しようと、鈴虫の鳴く夜中の人気のない公園のベンチから、カツトシの生放送に「凸」しているのでしょう。
カツトシが、小汚い部屋から展開する、猥談や、筋トレ話や、デマや、うわさ話や、悪口の中に、KUZUYA氏は「政治性」の充満を感じ取って、大満足しているのかもしれません。
安倍政権を生み出したのが「インチキな仕立て屋」たちが発揮した「政治性」であるならば、それを打倒するのにも「インチキな仕立て屋」たちの「政治性」を必要とする。なぜなら大衆は、煽動によってしか動かないのだから。そのためには、「インチキな仕立て屋」道を極限まで極めた三橋貴明のもつ「政治性」を利用することが必要なのだ。そう彼らは考えるのでしょう。
「インチキな仕立て屋」のもつ「政治性」こそが大衆を動かす唯一の力であるのに、WJFプロジェクトは何をしているのか。三橋貴明を批判し、「インチキな仕立て屋」的な手法を拒絶し、「政治性」を否定し、ひたすら「正直な子供」を名乗って無菌室にこもっているだけではないのか。それがKUZUYA氏のWJFプロジェクトに対する批判の主眼であると受け止めています。
しかし、私は次のように考えています。
1. 「正直な子供」であることと(事実につくこと)と、「インチキな仕立て屋」であること(人につくこと)は、やはり、両立しない二律背反のことがらである。
KUZUYA氏は、WJFが器用にまた柔軟に、あるときには「正直な子供」として、あるときには「インチキな仕立て屋」として振る舞うことを期待されていたのでしょうが、「正直な子供」たることと、「インチキな仕立て屋」であることは、意識のレベルで両立しない二律背反のことがらです。 どういうことなのかというと、「人に付くのではなく事実につく」というのがWJFプロジェクトのモットーですが、「事実に付く」=「正直な子供」の姿勢、「人に付く」=「インチキな仕立て屋」の姿勢ととらえていただくと、「人につくのか、事実につくのか」という問いは、まさに実存的な問いとして、日常の一場面ごとに、私たち一人一人に突きつけられていることがわかります。
わかりやすい例を取り上げると、最近、ツイッター上の議論でWJFのブログ記事を好意的に取り上げてくださった方がいます。WJFを好意的に取り上げてくださる人に同調しようとする誘惑を私自身も感じることがありますが、私の習い性で、そういう意識は意図的に捨てて、議論している双方の主張を等距離に見て、客観的に評価しようとつとめるようにしています。ここでわずかでも、「人に付こう」「人に取り入ろう」とする「インチキな仕立て屋」的な意識、政治的な意識が混入すると、「事実に付く」という「正直な子供」としての心の目は必ず曇るようになります。事実に付き、事実を語る、「正直な子供」たるためには、一瞬たりとも「インチキな仕立て屋」として振る舞うことはできません。
2. しかし、「正直な子供」は、「インチキな仕立て屋」とは異なる、別種の「政治性」を持つ。
このように、「正直な子供」として事実を語ることと「インチキな仕立て屋」の政治性は両立しないのですが、しかし、次のように考えることもできます。それは「正直な子供」であることは、必ずしも反・政治的であることを意味せず、それ自身、「インチキな仕立て屋」とは異なる別種の「政治性」を持っているということです。その「政治性」は、「インチキな仕立て屋」のように事実を犠牲にして、幻想や、嘘、偽り、主観や、嗜好や、欲や、利害を媒介して群れ合う「政治性」とは異なる、事実を媒介して結び合う「政治性」です。
「正直な子供」として事実を語ることは、コンフリクト(対立や緊張)を作り出し、人々を遠ざけたり、離反させたりすることがあるのも事実ですが、同時に、人々を呼び集め、固く、深い絆で結びつける力ももっています。互いにべたべたすることはなく、歯に衣を着せず互いに批判し合いますが、にもかかわらず、深い信頼で結び合うのが、「正直な子供」の政治性です。
私がいろんな人々と対立することで、離反する人もいますが、同時に、その議論を見て、共感や信頼を寄せたり、新しく支持してくださるようになる人たちもいるのです。また面白いことですが、対立する相手と深い友情でむすばれるようになることもあります。遠慮なしに腹を割って話合うのですから、そうなるのは当然とも言えるのですが。
ちいほさんが、WJFプロジェクトに、深い共感を寄せてくださるようになったのも、そもそも「正直な子供」たることが立派な「政治性」をもっていることの証左ではなかったでしょうか。
ちいほさんのみならず、今でも、WJFプロジェクトを熱心に支援し応援してくださる方たちがいらっしゃるのも、「正直な子供」たることが立派な「政治性」をもっている証しであると考えています。ちいほさんは、WJFが「正直な子供」として振る舞うことによって、敵が増え、孤立し、支持者が減るのではと心配されていますが、私は逆に、WJFプロジェクトが途絶えるとしたら、それは、WJFプロジェクトが「事実につく」のをやめて「人につく」ようになり、「正直な子供」として振る舞うことをやめてしまったときだと考えています。そのとき、WJFプロジェクトは内部から腐敗していきます。「事実」に付く限り、「事実」を語り続けるかぎり、WJFプロジェクトが孤立したり消滅することは決してありません。それはわたしの揺るぎない確信です。 「事実」、そして、「自然」は、必ず、何かの手段で、自らを開示しようとするからです。
KUZUYA氏が、WJFプロジェクトに、「インチキな仕立て屋」として振る舞うことを期待されても、できない相談です。私なりの長年の修養を通して築いてきた姿勢なので、変わりようがないからです。私がそうできないからといって、私を「クズ」と呼ぶ資格は彼にはありません。
WJFプロジェクトは「インチキな仕立て屋」としての政治性を発揮することは、逆立ちをしてもできませんが、「正直な子供」としての別種の政治性を武器に戦っていきたいと思っています。
どうぞ、これからもWJFプロジェクトのよき理解者として応援願います。