「多元的保守」とは何か(3)
右翼と左翼、どちらに転んでも日本は日本でなくなっていく。
冷戦とは、1945年2月のヤルタ会談に始まり、1989年12月のマルタ会談で終わった、アメリカを中心とする資本主義・自由主義を掲げる西側陣営と、ソビエト連邦を中心とする共産主義・社会主義を掲げる東側陣営が対峙し合った44年間のことです。
冷戦に関して私たち日本人が銘記しておくべきことは、私たちが、資本主義・自由主義という「右翼」の価値観に共感しようと、共産主義・社会主義という「左翼」の価値観に共感しようと、そのいずれも外国で作られたイデオロギーや立場に過ぎず、日本の伝統に根ざしたものではないという基本的な事実です。
従って、「右翼」を嫌って「左翼」に傾斜しても、「左翼」を嫌って「右翼」に傾斜しても、私たちが行き着く先は同じです。
それは、日本人が日本人ではなくなり、日本が日本ではなくなっていくという未来です。
自由主義という外国で作られたイデオロギーを標榜し、アメリカ等の外国勢力が先導する陣営に帰一しようとする点で、自民党に代表される、冷戦時代に形作られた従来の「二元的保守」が行き着く先もまったく同じです。
「右翼」VS「左翼」という冷戦構造に由来する二項対立に煽られて、そのいずれかの立場に帰属して争えば争うほど、私たちは、日本人が日本人ではなくなり、日本が日本でなくなる未来に向かって、疾走することになります。
そして、このことこそが、現在、戦後体制の一つの終着点である安倍政権下で起きていることなのです。
ですから、この亡国への疾走を食い止めるために、私たち日本人がなすべきことは、「左翼」を叩いて「右翼」になることでもなく、「右翼」を叩いて「左翼」になることでもなく、「右翼」からも「左翼」からも離れ、日本人を「右翼」や「左翼」に分類しようとする二元的な意識も捨て、日本の古い根源に立ち返り、その地点から、「右翼」や「左翼」という冷戦構造の遺物、そのいずれに対しても等しい距離感をもって批判し、「右翼」VS「左翼」という、二元的な対立構造そのものを相対化し、解消させていくことです。
ここで私たちが立ち返るべき「日本の古い根源」とは、「多元的」な精神に他なりません。
冷戦に関して私たち日本人が銘記しておくべきことは、私たちが、資本主義・自由主義という「右翼」の価値観に共感しようと、共産主義・社会主義という「左翼」の価値観に共感しようと、そのいずれも外国で作られたイデオロギーや立場に過ぎず、日本の伝統に根ざしたものではないという基本的な事実です。
従って、「右翼」を嫌って「左翼」に傾斜しても、「左翼」を嫌って「右翼」に傾斜しても、私たちが行き着く先は同じです。
それは、日本人が日本人ではなくなり、日本が日本ではなくなっていくという未来です。
自由主義という外国で作られたイデオロギーを標榜し、アメリカ等の外国勢力が先導する陣営に帰一しようとする点で、自民党に代表される、冷戦時代に形作られた従来の「二元的保守」が行き着く先もまったく同じです。
「右翼」VS「左翼」という冷戦構造に由来する二項対立に煽られて、そのいずれかの立場に帰属して争えば争うほど、私たちは、日本人が日本人ではなくなり、日本が日本でなくなる未来に向かって、疾走することになります。
そして、このことこそが、現在、戦後体制の一つの終着点である安倍政権下で起きていることなのです。
ですから、この亡国への疾走を食い止めるために、私たち日本人がなすべきことは、「左翼」を叩いて「右翼」になることでもなく、「右翼」を叩いて「左翼」になることでもなく、「右翼」からも「左翼」からも離れ、日本人を「右翼」や「左翼」に分類しようとする二元的な意識も捨て、日本の古い根源に立ち返り、その地点から、「右翼」や「左翼」という冷戦構造の遺物、そのいずれに対しても等しい距離感をもって批判し、「右翼」VS「左翼」という、二元的な対立構造そのものを相対化し、解消させていくことです。
ここで私たちが立ち返るべき「日本の古い根源」とは、「多元的」な精神に他なりません。
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