三橋貴明もKUZUYAさん、素晴らしいご指摘でした。
WJFさん、全くその通りだと思います。
未だ、三橋先生だなんて…いくらなんでも認識甘すぎですよ。
選挙に大勝して過半数、つまりは圧倒的な権力を握ってしまえば、それまで公言していた公約やらアジェンダなんてどこへやら…やりたい放題ができてしまいます。
だって抵抗勢力がほぼ存在しないという状態なんですから。
現在の日本の急激な悪化…安定した社会をぶっ壊すような目を覆うほどのひどい法案が連日ろくに審議も報道もされず人知れずドシドシと通りまくり、人々がデモをしようが、街で声を上げようが、議員にお願いに出向こうが、最早どうにも止められず歯ぎしりをしながら日本が壊れていくのを見ていることしかできないという悲惨な状況はひとえにこの「選挙の結果」なんですよ。
選挙の結果というものは、それほどにこの民主主義国家においては、重大で強力なパワーがあるものです(自覚している人は少ないでしょうが)。
だからこそ、三橋氏は選挙までは何とか自民(特に安倍とその取り巻きたち)の支持を取り付けるために躍起だったのです。本当はぶっちゃけたくないTPPの問題やら消費税の問題で、「ちょっとおかしいかも…」と無意識下では感じている自民支持者・何も考えてない無党派層をも余すことなくガッチリと取り込もうというのが彼の最初からの狙いでしょう。
第二次安倍内閣成立以来、連日何の抵抗も障害もなく通りまくってしまった悪法・改悪法案をひっくり返すのは容易なことではありません。ここまでひどい状況にされてしまえば、この先何十年単位どころか、永遠に取り戻すことができなくなる可能性もあります。
今の日本は非常に難しい局面に置かれているというのに、妙なくらいに呑気な人が多くて驚きます。
もういい加減、目を覚ましてほしい。
つまらない自分のプライドにしがみつき、「俺は騙されてなどいない」とか「俺を騙したやつも騙されていたんだから仕方がない」というような自身の愚かさを甘やかすような、いわば「俺は悪くなかった」という自己義認の論理によって自分の気分の良さを優先するのではなく、自分は愚かにも騙されたという罪をきちんと自覚し、自分の至らなさを目を背けることなく直視し、厳然たる事実として受け入れ、それがどんなにまずいことなのかを十分に理解してして欲しい。そしてその騙された罪の結果として、この先にどんな世界が自分や自分の子孫たちを待ち構えているのかを知恵を絞り、想像力を働かせ、情報を集め、その情報を精査し、その上でどうすべきかを深く真剣に考えて欲しい。
それが騙された人の責任というものだから。
また、騙された人が結果として自分だけが痛い思いをするわけではなく、騙されなかった人たちにも間接的に悪影響を及ぼし「他人をも巻き込んでしまう」という大きな罪が存在することにも気づいてほしい。
嘘つきというのはよっぽどの超天才型ではないかぎり、100%の嘘などはそうそうつけないものです(嘘は大きければ大きいほどばれにくい…の類は仕掛けも壮大で、金も時間も人員もかかるものだから)。
ああいうチャチは詐欺師というのは、本当は思ってもいないもっともらしいことをしたり顔で言ってみたり、受け取り手が気づかないよう真実の中に嘘をそっと混ぜたり包み込んで、表には見えないようわかりにくい状態にして、一見害もなく美味しそうな撒き餌(実は猛毒入り)にして、人々の前に大量にバラマいていきます。でなければ騙される側もそう簡単には騙されないでしょう。
伊丹十三氏の父親である伊丹万作氏が、「戦争責任者の問題」という論考の中で、騙された人の責任について、明確かつ冷静に論じています。
今後の日本の将来を考える上で極めて重要な指摘がいくつもなされており、右翼・左翼、戦争賛成派・反戦派の別を超えた真理がわかりやすく説明されています。日本人ならば一度目を通しておくべきものとか思います。
(先の戦争についての是非は、とりあえず横に置いておきましょう)
一部のたったの何人かが多くの人を騙してコントロールなどできるわけがない、騙される方も怠惰で無関心で隷属的で嬉々として追従し、騙されることや、更には他の人をも騙すことを敢えて選んでいたのだ、という鋭い指摘は他ではなかなか目にしません。
(読みやすくするため、改行したり一部仮名遣いを変更しています)
【引用ここから】
…
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると 思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせ の帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」と。たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもったらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによってだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの(原文ママ)必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
…
【引用ここまで】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
これを読んだうえで、自分の気分の良さやプライド(というより完全な自尊心)と、よりよい日本は、果たしてどっちが大切なのか、今一度自分に問いかけてみて欲しい。
プライドを捨て、それまで固執していたものを否と看做し、自分の間違いを認めるには、ある種の痛みが伴います。
それでも、一体どちらが、この国の将来のため、今の私たちの生活のため、今後生まれてくる子孫たちのために残すに値するものなのかということを一人一人に真剣に考えていただきたい。
同じ過ちを懲りることなく何度も何度も繰り返せば、それはもうただの愚か者というよりも、”単なるアホ”にすぎません。
いい加減、他人のせいにするという卑怯者の論理からも脱却しましょう。それが彼らの常套手段ですから、同じような罠には嵌らないように。
自分の中の良心の声に耳を澄まし、その声に従って欲しい。
良心こそが、私たちが抵抗するにあたって、唯一で、しかし最強の武器となりえると思うからです。
下のブログが同じ趣旨のことを述べています。
"三橋貴明と竹中平蔵の「バトル」を真に受けるのは、あまりにもお人好しすぎる。そもそも、三橋貴明も含め安倍晋三の周辺にいる者は一人残らず「安倍劇場」の「劇団員」ではないかと考えるのが大人の発想というものである。日本人は御人好しを封印し現実を直視しないと、いとも簡単に何度でも騙され今後も翻弄され続けるだろう。
正論を述べつつ、その正論とは真逆のことをやっている政治家や政党への支持を呼びかける。グローバリズムを批判しつつ、グローバリスト安倍晋三やグローバリズムに染まった安倍自民への支持を呼びかける。正論を述べていれば正論を述べているがゆえに批判されることもほとんどなく、安倍を批判しているのだから安倍自民は良くなりますよ~と有権者を安心させ、グローバリスト政治家やグローバリズムに染まった政党への支持を逆説的にさりげなく呼びかけることができる。
こうした論法は、正論を述べることで批判を封じ込めることが可能になるという意味で、たちが悪いと言わざるを得ないわけですが、作家・三橋貴明がやっているのはまさにこれで、日本人のお人好しに付け込んだ論法と言うこともできそうです。"
http://goo.gl/DmYYbZ
「正論を語ること」を、人々を欺く手段として利用して、繰り返し、繰り返し、何度も、何度も、自分が語っている「正論」と逆のことを行う政治家に支持を誘導してきた詐欺師を、「正論を語っている」という理由で支持してしまえば、結果は同じ事が繰り返されます。
それにしても、なぜあなたがたは、いつまでも、三橋だの、水島だの、上念だの、倉山だの、「彼ら」が周到に用意してきた、インチキ言論人に固執するのか。
インチキ保守言論人たちが愛国詐欺を働いてきたとしたら、それは彼ら個人の発想で、個人的な意図にもとづいてやったわけではない。あきらかにこれは組織的なものです。
なぜその愛国詐欺の背後にある、もっと大きなカラクリを疑おうとしないのか。
「右翼(善) vs 左翼(悪)」
一つの理由は、冷戦が終わって四半世紀が経つのに、上記のような善悪二元論を刷り込まれたまま、いつまでも、その二項対立の中で「答え」を探そうとしているからです。
「三橋・水島・上念・倉山は『右翼』だ。『右翼』は、『善』であり、『左翼』よりましだ。だからこれらの言論人を活用しよう」
という発想です。それは、
「安倍晋三は『右翼』だ。『右翼』は『善』であり、『左翼』よりましだ。だから安倍さんを支持しよう」
という安倍信者の発想と何も変わるところはない。安倍政権という怪物を作り出した、安倍信者と同じパラダイムに立って、安倍政権を批判したところで、意味はない。壊さなきゃならないのは、安倍政権のみならず、
「右翼(善) vs 左翼(悪)」
という冷戦的なパラダイムそのものです。かといって、
「右翼(悪) vs 左翼(善)」
という左右を逆転させた二項対立を信じようといっているのではなく、そもそもこのように二項対立的にものを考える習慣そのものをやめなければならないということです。
それがわからずに、安倍政権の個々の政策を、「是々非々」といいながら、表面的に批判していても意味がない。
「戦後レジームの成れの果て」として、日本を現在の段階にまで至らしめてしまった、「カラクリ」そのものに、対峙し、根底から否定し、破壊しなくてはならない。
それなのに、三橋のような詐欺師が表面的に安倍政権の個々の政策を批判している程度の理由で、再びのこのこ着いていくような愚か者で日本人があり続けるかぎり、日本はいつまでも救われることはないでしょう。
おっしゃることは分かります、分かりますが、我々は友人を求めているわけではないと思うんです、三橋先生がなんらかの意図をもって、参議院選挙で安倍自民に衆参過半数を取らせるため我々を騙し誘導したのかも知れませんが、今、メディアで一番安倍政権批判をしているのは、三橋先生です(左の方々は多いですが、残念ながら説得力がありません)、盲目的に信じるのは危険ですが、三橋先生の影響力は今必要だと思います、信じる政策は人それぞれ違います、その時その時、手を握れるならば手を握って今の安倍政権の阻止したい政策を批判していった方がいいと思うんですが、私は例えば上念さんや倉山さん達といえど、手を握れるところがあれば手を握ればいいと思うんです、あまり純粋にやりすぎると、人は苦しくなると思います。
ちなみに自慢ですが、私は参議院選挙は自民党には投票していません。