「戦後体制」とは何か(2)

「戦前か、戦後か」ではなく。
※この記事は、旧ブログの記事「「戦後体制」とは何か(2)」(2013年1月8日)を再掲したものです。

私たちにとって「戦後」とは何か。さまざまな角度から少しずつ、この問題を考えていきたいと思います。

『智恵子抄』の作者として知られる彫刻家で詩人の高村光太郎

今回は、彼が戦争中と、戦後に書いたいくつかの詩を通して、戦後とは何かを考えてみたいと思います。

まず次の二つの詩は、1941年12月、真珠湾攻撃の直後に作られた詩です。

十二月八日

記憶せよ 十二月八日 この日世界の歴史あらたまる
アングロサクソンの主権 この日東亜の陸と海に否定さる
否定するものは彼等のジャパン 眇たる東海の国にして
また神の国たる日本なり そを治しめたまふ明津御神なり
世界の富を壟断するもの 強豪英米一族の力 われらの国に於て否定さる
われらの否定は義による 東亜を東亜にかえせというのみ
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり われらまさにその爪牙を摧かんとす
われら自らの力を養いてひとたび起つ 老弱男女みな兵なり
大敵非にさとるに至るまでわれらは戦う
世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ

鮮明な冬

この世は一新せられた
黒船以來の總決算の時が来た
民族の育ちがそれを可能にした
長い間こづきまはされながら
舐められながらしぼられながら
假装舞踏会まで敢えてしながら
彼等に學び得るかぎりを學び
彼等の力を隅から隅までを測量し
彼等のえげつなさを滿喫したのだ。
今こそ 古しへにかへり源にさかのぼり
一瀉千里の奔流となり得る日がきた。

「鮮明な冬」というこの詩は、靖国神社の遊就館で上映されている映画『凛として愛』の中でも取り上げられています。

次の詩は、終戦の詔勅がラジオ放送された1945年8月15日の翌日に作られたものです。

一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて、
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五体をうたる。
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし。
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苟も寸毫も曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす。
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん。

戦争中、彼は岩手県の宮沢賢治の実家に疎開していましたが、戦争が終わると、そのまま岩手の山中の小屋に7年間蟄居しました。彼が戦時中に書いた戦意高揚の詩が多くの若者たちを死に追いやったことを悔いての蟄居だったと言われています。次の三つの詩は、そんな蟄居中の彼が1947年に発表した『暗愚小伝』という詩集からの引用です。

終戦

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱却のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほふ。
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する

真珠湾の日

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳は蘭引にかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あえぐ意識は眩いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた

報告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で、
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ、
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥かしい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲の中にゐて
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

高村光太郎の戦後の転向と変節ぶりをするどく批判したのが、戦争中、高村の戦意高揚の詩に強い影響を受け愛国青年として青春時代を送った吉本隆明でした。次の文章は1966年に彼が発表した『高村光太郎』という評論からの引用です。上で紹介した高村光太郎の「一億の号泣」という詩について述べています。

高村光太郎

わたしには、終りの四行が問題だった。 わたしが徹底的な衝撃をうけ、生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだとき、「鋼鉄の武器を失へる時精神の武器おのづから強からんとす。真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」という希望的なコトバを見出せる精神構造が、合点がゆかなかったのである。高村もまた、戦争に全霊をかけぬくせに便乗した口舌の徒にすぎなかったのではないか。 あるいは、じぶんが死ととりかえっこのつもりで懸命に考えこんだことなど、高村にとっては、一部分にすぎなかったのではないか。わたしは、この詩人を理解したつもりだったが、この詩人にはじぶんなどの全く知らない世界があって、そこから戦争をかんがえていたのではないか。

高村光太郎のように、戦後多くの大人たちが「転向」と「変節」を余儀なくされました。そして、大人たちのそのような姿に幻滅した吉本隆明のような愛国青年たちの中には、戦後、左翼思想に傾斜していく若者たちも多く現れるようになりました。さらに、吉本隆明のような左翼思想家たちの言葉は、戦後に生を受け「団塊の世代」と後に呼ばれるようになる、さらに若い世代の日本人にも大きな影響を与えていきます。

戦前(戦時中)と戦後。どちらかの時代の人々が正しく、どちらかの時代の人々が間違っていたということではなく、とにもかくにも、私たち日本人は、その各々の時代を生き延びようと懸命に歩いてきた結果、現在に至っています。

そして現在明らかになっていることは、これまで私たちが正しいと信じてきたやり方では、私たちを取り巻く問題をもはや解決できないこと。新しい時代の扉を開けなくてはならないこと。

そのためには、「戦後」を否定して「戦前」に回帰すればよいということでもなく、また「戦前」を否定して「戦後」に留まればよいということでもなく、

ここでも、大切なのは、

戦前 (善) VS 戦後 (悪)

あるいは、

戦後 (善) VS 戦前 (悪)

という、善悪二元論的な枠組みで考えないことだと思います。

新しい「日本」の姿を現出させるためには、過去のある時代の日本のあり方を断片的にきりとって、それを絶対視したり、再現すればよいということではなく、それこそ縄文時代から現在に至る日本人のすべての歩みを今一度点検しなおし、歴史の最も深い根底から、私たちのあり方を再定義していくという作業が必要になるだろうと思います。
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