何を「保守」するのか
本当に「保守」すべきものを「保守」せよ。
※この記事は、旧ブログの記事何を「保守」するのか(2013年2月16日)を再掲したものです。
TPPや道州制について、どのぐらい人々の関心が高まっているかを知るために、ツイッターでのツイートの数を確認するようにしています。
昨日の「道州制」という言葉を含んだツイートの数は140。さして増えていないのが分かります。
その中で、次のようなツイートを見つけました。
TPPや道州制について、どのぐらい人々の関心が高まっているかを知るために、ツイッターでのツイートの数を確認するようにしています。
昨日の「道州制」という言葉を含んだツイートの数は140。さして増えていないのが分かります。
その中で、次のようなツイートを見つけました。
安倍自民に対して、どうもTPPに参加しそうとか道州制に賛成している、との私に言わせればよく理解していないだけなのに、保守ではないと反安倍自民を主張している人います。TPPも道州制も保守とか革新という思想の問題でもないし、安倍自民の主張もずっと変わっていません。
— 井上太郎 (@kaminoishi) 2013, 2月 15
TPPも道州制も「保守」や「革新」という思想の問題ではない。
確かにそうです。
「保守」という言葉を「保守」vs「革新」という冷戦構造的な二元的、二極的な意味で理解すれば、「保守」とは「資本主義体制を堅持する陣営」を意味しますので、TPPや道州制をやろうとしたからといって、自民党が「保守」政権であることには変わらないでしょう。
しかし、冷戦が終わり、既に20年が経過する今、私たち日本人が必要としている「保守」とは、社会主義や共産主義に対して「資本主義を守る」という意味での「保守」なのでしょうか。あるいは「革新」に対するアンチテーゼとしての「保守」が求められているのでしょうか。
そうではない。
今、私たちが心から求めているのは、私たちが縄文から連綿と受け継いできた世界文明の一つである「日本文明を保守する」という意味での「保守」政権のはずです。
他の文明の浸食から「日本文明を保守する」ために、絶対不可欠なのは、文明を守る容器となる堅牢なる国家の枠組みです。具体的には、移民の抑制、国籍取得やビザ発給の厳格な条件、十全な武装力、情報や技術の保全、国内経済・産業の活性化、関税や規制、文化財の保護、地域の活性化、歴史の回復、教育の再生、領土の保全、皇統の維持などなどです。
この意味においては、TPPや道州制を通して、自由貿易を活発化させるために国家の枠組みを希薄化させ溶解させようとする新自由主義は、「日本文明を保守する」どころか、その破壊と消滅に導くものです。
従って、この「日本文明を保守する」という観点においては、TPPや道州制をやろうとする安倍晋三が率いる新自由主義政権は、真の「保守」政権であろうはずがないことは、容易にそして明確に判断することができます。
冷戦が終わって20年も経過するにも関わらず、いまだに脳内に冷戦時代の時代錯誤的なパラダイムを引きずったまま、「ウヨク」や「サヨク」、「保守」や「革新」といった二元的、二極的な枠組みで「保守」という言葉を捉えようとする方たちが、自民党を「保守」政党と錯覚し、盲信的に固着するのではないでしょうか。
私たちが「保守」すべきものは、もはや、共産主義に対して資本主義を「保守」することではない。
民主党に対して、自民党を「保守」することでもない。
サヨクに対して、安倍さんを「保守」することでもない。
「日本文明を保守する」こと。
それこそが私たち日本人に課せられている絶対命題のはずです。
この「日本文明を保守する」という課題は、「ウヨクか、サヨクか」「保守か、革新か」「自民か、民主か」などという「あれか、これか」という二元的、二極的な枠組みを超越した課題です。
片方の立場を善とし、もう片方の立場を悪とする善悪二元論的なものの見方では、実現することのできない課題です。
いつになったら、私たちは、冷戦時代に植え付けられたのであろう「あれか、これか」の二元的な思考から抜け出して、「日本文明を保守する」という歴史が私たちに突き付けている最も根源的な課題に直接に向き合うようになるのでしょうか。
冷戦時代、日米同盟は、資本主義体制を「保守」したかもしれません。
しかし、日米同盟は、「日本文明を保守」してきたでしょうか。
冷戦終結後のこの20年間、日米同盟は「日本文明を保守する」上で、役に立ってきたでしょうか?
むしろ、グローバル化を目指した新自由主義的な発想にもとづく度重なる内政干渉によって「日本文明」を破壊する方向に進んではこなかったでしょうか?
今後、日米同盟によって「日本文明を保守する」ことは可能でしょうか?
TPPや道州制を通して「日本文明を保守する」ことは可能でしょうか?
TPPや道州制を導入しようとする安倍政権は、「日本文明を保守する」という意味での、真の保守政権でしょうか?
同じ方が次のようなこともツイートされています。
このようなツイートをみると、脱力してしまうのですが、安倍氏や麻生氏の道州制も、維新のいう道州制も、連邦制ですから中央政府を完全に廃止しようとするものではありません。これは当たり前なことです。
道州制のもとで、特定の州が直接、海外資本と取引をする。海外の特定の国と直接外交関係をもつ。それによって、特定の州と特定の国家との癒着が生まれる。特定の州の政治家が、特定の国家との結びつきを深めれば、そこで売国的な利益供与の可能性が生じる。日本という国家に反感を持つ国に囲まれた我が国がこのような制度を導入すれば、特定の州が籠絡されていく可能性は極めて高い。沖縄などがその最たるものではないですか。
安倍氏が言っている道州制も、維新の言う道州制もこの点で何の違いもありません。
尖閣や沖縄への中国の侵略の危険が高まっている現在の緊迫した情勢の中で、なぜ、このようなものをやらなくてはならないのか。安倍さんが道州制をやれば、魔法のようにその危険性が消滅するのでしょうか?
道州制は、自由貿易を活発にし「資本主義」を「保守」する上では大変有益かもしれませんが、外国資本によって経済合理性にもとづいて日本の各地方が開発されていくとき、「日本文明を保守する」上では何の役にも立たないどころか、ただでさえ疲弊した日本の地域文化は消滅の危険に晒されます。安倍さんが道州制をやれば、魔法のように、グローバリズムの毒が消え去り、「日本文明を保守する」ことにつながるのでしょうか?
安倍氏を信奉する方たちは、あまりにも、ものごとをあるがままに公平に見ることができなくなってしまってはいませんか。
これでは、カルト信者の思考法と何も変わるところはありません。
このようなカルト的な盲信や洗脳というものは、たいてい「あれか、これか」の善悪二元的な思考の中で起きるものです。
たとえば、宗教の洗脳は「この宗教は善、それ以外の宗教は悪」といった善悪二元論を反復することで行われます。
その結果、ある特定の立場をあまりに強固に善とし、それ以外の立場をあまりに強固に悪と信じ込むようになります。
宗教の洗脳と同じく「自民は善、民主は悪」といった善悪二元論が、これまであまりに執拗に反復されてはこなかったでしょうか。
この二元的な思考が、現在自民党に対する多くの人々の過度の盲信を生んではいないでしょうか。
その結果、日本を守ることよりも、安倍氏や自民党を守ろうとすることに熱心な本末転倒した人々が現れてはいませんか。
この洗脳から脱するためには、「あれか、これか」という善悪二元論を超えた絶対的な、そして根源的な課題に直面することが不可欠です。
この課題とは、私たち日本人にとっては、「日本文明を保守する」という歴史から課せられた課題以外にはありません。
二元論がどうのとごちゃごちゃした理屈がぴんとこなければ、どうか上の動画を何度も何度も繰り返しごらんになって、お国のために命を捧げた英霊たちの思いを肌身に感じていただきたい。
彼らは「あれ」や「これ」、「サヨク」や「ウヨク」、「保守」や「革新」といった特定の立場を守るために命を捨てたのか。
そうではない。
「あれもこれもへったくれもあるか」
日本の国を、故郷を、家族を守るために命を捧げたのではありませんでしたか。
「あれや、これや」などと物事が分岐する以前の、彼らのその最も根源的な思いを私たちが取り戻すならば、特定の立場や政党や政治家を盲信するなどというばかばかしいことは、もはや起きないはずです。
特定の立場やイデオロギーによってではなく、根源的な視点から、あらゆる物事を公平に批判できるようになるはずです。
私は現在、執拗に自民党を批判していますが、「自民党」という特定の立場がだめだから、何か他の立場や政党を掲げて、そちらを信奉しなさいと申し上げているのではない。
「あれか、これか」の二者択一の話をしているのではない。
本当に守るべきものを守るために、
「あれか、これか」という二元的思考を超えたところから、物事を公平にみて、客観的に批判しなさい。
そう皆さんに強く申し上げているのです。
「保守」という言葉を「保守」vs「革新」という冷戦構造的な二元的、二極的な意味で理解すれば、「保守」とは「資本主義体制を堅持する陣営」を意味しますので、TPPや道州制をやろうとしたからといって、自民党が「保守」政権であることには変わらないでしょう。
しかし、冷戦が終わり、既に20年が経過する今、私たち日本人が必要としている「保守」とは、社会主義や共産主義に対して「資本主義を守る」という意味での「保守」なのでしょうか。あるいは「革新」に対するアンチテーゼとしての「保守」が求められているのでしょうか。
そうではない。
今、私たちが心から求めているのは、私たちが縄文から連綿と受け継いできた世界文明の一つである「日本文明を保守する」という意味での「保守」政権のはずです。
他の文明の浸食から「日本文明を保守する」ために、絶対不可欠なのは、文明を守る容器となる堅牢なる国家の枠組みです。具体的には、移民の抑制、国籍取得やビザ発給の厳格な条件、十全な武装力、情報や技術の保全、国内経済・産業の活性化、関税や規制、文化財の保護、地域の活性化、歴史の回復、教育の再生、領土の保全、皇統の維持などなどです。
この意味においては、TPPや道州制を通して、自由貿易を活発化させるために国家の枠組みを希薄化させ溶解させようとする新自由主義は、「日本文明を保守する」どころか、その破壊と消滅に導くものです。
従って、この「日本文明を保守する」という観点においては、TPPや道州制をやろうとする安倍晋三が率いる新自由主義政権は、真の「保守」政権であろうはずがないことは、容易にそして明確に判断することができます。
冷戦が終わって20年も経過するにも関わらず、いまだに脳内に冷戦時代の時代錯誤的なパラダイムを引きずったまま、「ウヨク」や「サヨク」、「保守」や「革新」といった二元的、二極的な枠組みで「保守」という言葉を捉えようとする方たちが、自民党を「保守」政党と錯覚し、盲信的に固着するのではないでしょうか。
私たちが「保守」すべきものは、もはや、共産主義に対して資本主義を「保守」することではない。
民主党に対して、自民党を「保守」することでもない。
サヨクに対して、安倍さんを「保守」することでもない。
「日本文明を保守する」こと。
それこそが私たち日本人に課せられている絶対命題のはずです。
この「日本文明を保守する」という課題は、「ウヨクか、サヨクか」「保守か、革新か」「自民か、民主か」などという「あれか、これか」という二元的、二極的な枠組みを超越した課題です。
片方の立場を善とし、もう片方の立場を悪とする善悪二元論的なものの見方では、実現することのできない課題です。
いつになったら、私たちは、冷戦時代に植え付けられたのであろう「あれか、これか」の二元的な思考から抜け出して、「日本文明を保守する」という歴史が私たちに突き付けている最も根源的な課題に直接に向き合うようになるのでしょうか。
冷戦時代、日米同盟は、資本主義体制を「保守」したかもしれません。
しかし、日米同盟は、「日本文明を保守」してきたでしょうか。
冷戦終結後のこの20年間、日米同盟は「日本文明を保守する」上で、役に立ってきたでしょうか?
むしろ、グローバル化を目指した新自由主義的な発想にもとづく度重なる内政干渉によって「日本文明」を破壊する方向に進んではこなかったでしょうか?
今後、日米同盟によって「日本文明を保守する」ことは可能でしょうか?
TPPや道州制を通して「日本文明を保守する」ことは可能でしょうか?
TPPや道州制を導入しようとする安倍政権は、「日本文明を保守する」という意味での、真の保守政権でしょうか?
同じ方が次のようなこともツイートされています。
安倍麻生自民の道州制は、大阪維新や新潟の言う道州制とは違います。地方のことは地方が良く知ることは任せようと言うだけであり、何でも地方分権することではありません。国会は唯一の立法機関であり、中央集権の意味もあります。一部の地方交付金については任せることはします。違いを理解して下さい
— 井上太郎 (@kaminoishi) 2013, 2月 15
このようなツイートをみると、脱力してしまうのですが、安倍氏や麻生氏の道州制も、維新のいう道州制も、連邦制ですから中央政府を完全に廃止しようとするものではありません。これは当たり前なことです。
道州制のもとで、特定の州が直接、海外資本と取引をする。海外の特定の国と直接外交関係をもつ。それによって、特定の州と特定の国家との癒着が生まれる。特定の州の政治家が、特定の国家との結びつきを深めれば、そこで売国的な利益供与の可能性が生じる。日本という国家に反感を持つ国に囲まれた我が国がこのような制度を導入すれば、特定の州が籠絡されていく可能性は極めて高い。沖縄などがその最たるものではないですか。
安倍氏が言っている道州制も、維新の言う道州制もこの点で何の違いもありません。
尖閣や沖縄への中国の侵略の危険が高まっている現在の緊迫した情勢の中で、なぜ、このようなものをやらなくてはならないのか。安倍さんが道州制をやれば、魔法のようにその危険性が消滅するのでしょうか?
道州制は、自由貿易を活発にし「資本主義」を「保守」する上では大変有益かもしれませんが、外国資本によって経済合理性にもとづいて日本の各地方が開発されていくとき、「日本文明を保守する」上では何の役にも立たないどころか、ただでさえ疲弊した日本の地域文化は消滅の危険に晒されます。安倍さんが道州制をやれば、魔法のように、グローバリズムの毒が消え去り、「日本文明を保守する」ことにつながるのでしょうか?
安倍氏を信奉する方たちは、あまりにも、ものごとをあるがままに公平に見ることができなくなってしまってはいませんか。
これでは、カルト信者の思考法と何も変わるところはありません。
このようなカルト的な盲信や洗脳というものは、たいてい「あれか、これか」の善悪二元的な思考の中で起きるものです。
たとえば、宗教の洗脳は「この宗教は善、それ以外の宗教は悪」といった善悪二元論を反復することで行われます。
その結果、ある特定の立場をあまりに強固に善とし、それ以外の立場をあまりに強固に悪と信じ込むようになります。
宗教の洗脳と同じく「自民は善、民主は悪」といった善悪二元論が、これまであまりに執拗に反復されてはこなかったでしょうか。
この二元的な思考が、現在自民党に対する多くの人々の過度の盲信を生んではいないでしょうか。
その結果、日本を守ることよりも、安倍氏や自民党を守ろうとすることに熱心な本末転倒した人々が現れてはいませんか。
この洗脳から脱するためには、「あれか、これか」という善悪二元論を超えた絶対的な、そして根源的な課題に直面することが不可欠です。
この課題とは、私たち日本人にとっては、「日本文明を保守する」という歴史から課せられた課題以外にはありません。
二元論がどうのとごちゃごちゃした理屈がぴんとこなければ、どうか上の動画を何度も何度も繰り返しごらんになって、お国のために命を捧げた英霊たちの思いを肌身に感じていただきたい。
彼らは「あれ」や「これ」、「サヨク」や「ウヨク」、「保守」や「革新」といった特定の立場を守るために命を捨てたのか。
そうではない。
「あれもこれもへったくれもあるか」
日本の国を、故郷を、家族を守るために命を捧げたのではありませんでしたか。
「あれや、これや」などと物事が分岐する以前の、彼らのその最も根源的な思いを私たちが取り戻すならば、特定の立場や政党や政治家を盲信するなどというばかばかしいことは、もはや起きないはずです。
特定の立場やイデオロギーによってではなく、根源的な視点から、あらゆる物事を公平に批判できるようになるはずです。
私は現在、執拗に自民党を批判していますが、「自民党」という特定の立場がだめだから、何か他の立場や政党を掲げて、そちらを信奉しなさいと申し上げているのではない。
「あれか、これか」の二者択一の話をしているのではない。
本当に守るべきものを守るために、
「あれか、これか」という二元的思考を超えたところから、物事を公平にみて、客観的に批判しなさい。
そう皆さんに強く申し上げているのです。
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