明治天皇制と産業資本主義の結合
新自由主義者たちが、過剰な天皇崇拝を好むわけ。
右や左の彼方にある本当の日本という記事で述べましたが、社会主義や共産主義の脅威に対抗して、資本主義や自由主義を「保守」することと、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」することは、本来、まったく無関係な別の問題です。
社会主義も共産主義も資本主義も自由主義も、外国で作られたイデオロギーや制度にすぎないため、社会主義や共産主義が日本の国柄や国体や伝統や文化を破壊しうるように、それとまったく同様に、資本主義や自由主義も日本の国柄や国体や伝統や文化を破壊しうるものだからです。
従って、わたしたちが、日本の国柄や国体や伝統や文化を「保守」していくためには、資本主義や自由主義を否定して社会主義や共産主義に傾斜するのでもなく、また逆に、社会主義や共産主義を否定して資本主義や自由主義に傾斜するのでもなく、社会主義や共産主義に対しても、資本主義や自由主義に対しても、同じ距離感を保ちながら、資本主義や自由主義や社会主義や共産主義などの外国のイデオロギーが導入される以前の、日本の古い源流に、日本の本来のあり方を求めていかなくてはなりません。
しかし、なぜ、多くの人々は、社会主義や共産主義に対抗して、資本主義や自由主義に傾斜し、その枠組みを「保守」することと、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」すること、この二つのことがらを同一視するようになってしまったのでしょうか。
これには歴史的な背景が考えられます。
一つの理由は明治維新です。
19世紀、西洋列強に開国を求められた時、日本は、自らを、西洋列強に対峙し得る近代的な「国民国家(Nation-state)」として成立させるという歴史的な課題を突き付けられました。
その際に、日本人を「国民」として再編すると同時に、西洋の君主制を模倣しながら、天皇の地位や制度も構成しなおし、天皇に強い政治的な求心力を持たせる必要も生まれました。
そのときにお手本になったのは、たとえば、後に初代ドイツ皇帝となったプロイセンのヴィルヘルム1世であったり、フランスのナポレオン3世であったり、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世など、当時、それぞれの国民を一つにまとめあげていた、岩倉使節団も訪問した、同時代のヨーロッパ諸国の君主たちであったはずです。
私たちは、明治の天皇制が、当時のヨーロッパの君主制を模倣していたというまぎれも無い事実を忘れてはならないと思います。
明治の天皇制が、当時のヨーロッパの君主制を模倣した以上は、その中には、日本にとって非本来的なものが必ず混入したはずです。
また、それと同時に、ヨーロッパの君主制を模倣した明治の天皇制の下で、西洋の産業資本主義が導入され、富国強兵のスローガンの下に、日本の産業革命が完遂され、資本主義が定着していきました。
つまり、西洋の君主制を模倣した明治天皇制と、同じく西洋を模倣した産業資本主義が、強く結びついたということです。
この、「明治天皇制と産業資本主義との結合」は、夏目漱石の言葉を借りれば、「内発的」な、日本の内部から自然に生じた変化ではなく、「外発的」な、外部からの要請によって生じた変化でした。
その後、他国の例に漏れず、資本主義がもたらす格差や矛盾という問題に日本も直面するようになりました。その結果、大正から昭和にかけては、資本主義に対するアンチテーゼとして、今度は、外国から社会主義や共産主義などの思想が日本に導入されるようになりました。
その結果、当然のことながら、「資本主義」VS「社会主義・共産主義」という対立の構図が生まれました。
しかし、外発的な要因によって、富国強兵の名の下、明治の天皇制が産業資本主義と強く結合していたがために、資本主義に対する異議申し立てであった共産主義は、同時に、天皇制、つまりは、日本の国体や国柄や伝統や文化に対する脅威であると理解され、また実際にそうならざるをえませんでした。
しかし、仮に、天皇制と資本主義の結びつきが、日本の皇室にまつわる古来からの伝統とは乖離した、非本質的な結びつきであったとするならば、共産主義者が資本主義に対してむけた異議申し立ては、必ずしも、皇室の存在に対する異議申し立てとなる必要はなかったはずです。
そして、実際に、古代からの日本の歴史を振り返るならば、明治において生じた天皇制と資本主義の結びつきは、必ずしも本質的なものでなかったことは明らかです。
なぜなら、皇室は、資本主義が日本に存在すらしなかった時代を、長く連綿と生き続けてきたのが、まぎれもない日本の歴史の事実だからです。
資本主義と結びつくどころか、むしろ民を「おおみたから」と呼び、民の竃を常に気遣ってきた古来からの天皇や皇室は、極端な資本主義のもたらす格差社会よりも、むしろ平等な日本の社会のあり方と深く結合していたのが、本来の伝統的な天皇や皇室や日本の姿ではなかったでしょうか。
とすれば、明治に生じた、天皇制と資本主義との強固な結びつき、また、天皇と臣民との間に設けられたあまりに隔絶した断絶は、日本の歴史の中で例外的で特殊で異質なものであり、天皇や日本の本来のあり方からは逸脱していたと言い切っても、決して過言ではないのではないでしょうか。
しかし、残念なことに、戦後、明治天皇制が修正された後も、明治天皇制によって確立された天皇観、皇室観を、戦後に生まれた私たちは根強く受け継いでいます。
このように、明治以降に生じた、天皇制と資本主義との結びつきという、戦後の私たちですら自明の理のように受け止めているその前提を疑い、天皇制と資本主義を切り離して考えるならば、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」することを第一の課題ととらえている私たちは、資本主義に対しても共産主義に対しても、もっと等しい距離感をもって、両者に等しく批判的な姿勢で対峙することができるようになるはずです。
「資本主義」を保守することと、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」することを、別個の問題としてとらえることができるようになるはずです。
私たちは、日本の歴史の源流を深くさかのぼることで、自分たちの思い込みを、あらためて疑い、相対化していかなくてはなりません。
特定の時代のあり方を切り取って固定化し、絶対のものと考えるのではなく、日本のあゆみの全体から、日本のあるべき姿を捉え直すべきでしょう。
私たちは特定の時代に生じた非本質的なものごとのあり方に固執するあまり、より本質的で大切なかけがえのないものを破壊してしまうことが多々あるからです。
西洋の君主制を模して作られた「明治天皇制」的な天皇のあり方を護持することが、必ずしも、皇室そのものを尊重し、守る事にはつながりません。
それは、「明治の天皇制」とかりそめな結合を結ぶ事で、日本に導入され発展していった資本主義や自由主義を護持することが、日本の国体や国柄や伝統や文化を護持することには、必ずしもつながらないのと、完全にパラレルな問題です。
このように資本主義や自由主義や明治以降の近代的な天皇制のあり方に疑義を抱くことで、WJFプロジェクトは、「左翼だ」「共産主義者だ」「社会主義者だ」「中核派だ」となじられることがありますが、私は決して共産主義や社会主義を標榜しているわけではありません。
私が訴えたいことは、皇室も含め、日本の国体や国柄や伝統や文化という、私たちが本来まもるべきものを守るという課題を中心に据えることによって、資本主義や自由主義に対しても、共産主義や社会主義、いずれの側にも無批判に傾斜していくのではなく、両者と同じ距離感を保ちながら、両者を共に相対化していかなくてはならないということです。
私たちは、近代以前の時代に戻ることはできませんが、少なくとも、近代以降に日本に導入されたものを絶対視しないという姿勢を持つ事は可能なはずです。
社会主義も共産主義も資本主義も自由主義も、外国で作られたイデオロギーや制度にすぎないため、社会主義や共産主義が日本の国柄や国体や伝統や文化を破壊しうるように、それとまったく同様に、資本主義や自由主義も日本の国柄や国体や伝統や文化を破壊しうるものだからです。
従って、わたしたちが、日本の国柄や国体や伝統や文化を「保守」していくためには、資本主義や自由主義を否定して社会主義や共産主義に傾斜するのでもなく、また逆に、社会主義や共産主義を否定して資本主義や自由主義に傾斜するのでもなく、社会主義や共産主義に対しても、資本主義や自由主義に対しても、同じ距離感を保ちながら、資本主義や自由主義や社会主義や共産主義などの外国のイデオロギーが導入される以前の、日本の古い源流に、日本の本来のあり方を求めていかなくてはなりません。
しかし、なぜ、多くの人々は、社会主義や共産主義に対抗して、資本主義や自由主義に傾斜し、その枠組みを「保守」することと、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」すること、この二つのことがらを同一視するようになってしまったのでしょうか。
これには歴史的な背景が考えられます。
一つの理由は明治維新です。
19世紀、西洋列強に開国を求められた時、日本は、自らを、西洋列強に対峙し得る近代的な「国民国家(Nation-state)」として成立させるという歴史的な課題を突き付けられました。
その際に、日本人を「国民」として再編すると同時に、西洋の君主制を模倣しながら、天皇の地位や制度も構成しなおし、天皇に強い政治的な求心力を持たせる必要も生まれました。
そのときにお手本になったのは、たとえば、後に初代ドイツ皇帝となったプロイセンのヴィルヘルム1世であったり、フランスのナポレオン3世であったり、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世など、当時、それぞれの国民を一つにまとめあげていた、岩倉使節団も訪問した、同時代のヨーロッパ諸国の君主たちであったはずです。
私たちは、明治の天皇制が、当時のヨーロッパの君主制を模倣していたというまぎれも無い事実を忘れてはならないと思います。
明治の天皇制が、当時のヨーロッパの君主制を模倣した以上は、その中には、日本にとって非本来的なものが必ず混入したはずです。
また、それと同時に、ヨーロッパの君主制を模倣した明治の天皇制の下で、西洋の産業資本主義が導入され、富国強兵のスローガンの下に、日本の産業革命が完遂され、資本主義が定着していきました。
つまり、西洋の君主制を模倣した明治天皇制と、同じく西洋を模倣した産業資本主義が、強く結びついたということです。
この、「明治天皇制と産業資本主義との結合」は、夏目漱石の言葉を借りれば、「内発的」な、日本の内部から自然に生じた変化ではなく、「外発的」な、外部からの要請によって生じた変化でした。
その後、他国の例に漏れず、資本主義がもたらす格差や矛盾という問題に日本も直面するようになりました。その結果、大正から昭和にかけては、資本主義に対するアンチテーゼとして、今度は、外国から社会主義や共産主義などの思想が日本に導入されるようになりました。
その結果、当然のことながら、「資本主義」VS「社会主義・共産主義」という対立の構図が生まれました。
しかし、外発的な要因によって、富国強兵の名の下、明治の天皇制が産業資本主義と強く結合していたがために、資本主義に対する異議申し立てであった共産主義は、同時に、天皇制、つまりは、日本の国体や国柄や伝統や文化に対する脅威であると理解され、また実際にそうならざるをえませんでした。
しかし、仮に、天皇制と資本主義の結びつきが、日本の皇室にまつわる古来からの伝統とは乖離した、非本質的な結びつきであったとするならば、共産主義者が資本主義に対してむけた異議申し立ては、必ずしも、皇室の存在に対する異議申し立てとなる必要はなかったはずです。
そして、実際に、古代からの日本の歴史を振り返るならば、明治において生じた天皇制と資本主義の結びつきは、必ずしも本質的なものでなかったことは明らかです。
なぜなら、皇室は、資本主義が日本に存在すらしなかった時代を、長く連綿と生き続けてきたのが、まぎれもない日本の歴史の事実だからです。
資本主義と結びつくどころか、むしろ民を「おおみたから」と呼び、民の竃を常に気遣ってきた古来からの天皇や皇室は、極端な資本主義のもたらす格差社会よりも、むしろ平等な日本の社会のあり方と深く結合していたのが、本来の伝統的な天皇や皇室や日本の姿ではなかったでしょうか。
とすれば、明治に生じた、天皇制と資本主義との強固な結びつき、また、天皇と臣民との間に設けられたあまりに隔絶した断絶は、日本の歴史の中で例外的で特殊で異質なものであり、天皇や日本の本来のあり方からは逸脱していたと言い切っても、決して過言ではないのではないでしょうか。
しかし、残念なことに、戦後、明治天皇制が修正された後も、明治天皇制によって確立された天皇観、皇室観を、戦後に生まれた私たちは根強く受け継いでいます。
このように、明治以降に生じた、天皇制と資本主義との結びつきという、戦後の私たちですら自明の理のように受け止めているその前提を疑い、天皇制と資本主義を切り離して考えるならば、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」することを第一の課題ととらえている私たちは、資本主義に対しても共産主義に対しても、もっと等しい距離感をもって、両者に等しく批判的な姿勢で対峙することができるようになるはずです。
「資本主義」を保守することと、日本の国体や国柄や伝統や文化を「保守」することを、別個の問題としてとらえることができるようになるはずです。
私たちは、日本の歴史の源流を深くさかのぼることで、自分たちの思い込みを、あらためて疑い、相対化していかなくてはなりません。
特定の時代のあり方を切り取って固定化し、絶対のものと考えるのではなく、日本のあゆみの全体から、日本のあるべき姿を捉え直すべきでしょう。
私たちは特定の時代に生じた非本質的なものごとのあり方に固執するあまり、より本質的で大切なかけがえのないものを破壊してしまうことが多々あるからです。
西洋の君主制を模して作られた「明治天皇制」的な天皇のあり方を護持することが、必ずしも、皇室そのものを尊重し、守る事にはつながりません。
それは、「明治の天皇制」とかりそめな結合を結ぶ事で、日本に導入され発展していった資本主義や自由主義を護持することが、日本の国体や国柄や伝統や文化を護持することには、必ずしもつながらないのと、完全にパラレルな問題です。
このように資本主義や自由主義や明治以降の近代的な天皇制のあり方に疑義を抱くことで、WJFプロジェクトは、「左翼だ」「共産主義者だ」「社会主義者だ」「中核派だ」となじられることがありますが、私は決して共産主義や社会主義を標榜しているわけではありません。
私が訴えたいことは、皇室も含め、日本の国体や国柄や伝統や文化という、私たちが本来まもるべきものを守るという課題を中心に据えることによって、資本主義や自由主義に対しても、共産主義や社会主義、いずれの側にも無批判に傾斜していくのではなく、両者と同じ距離感を保ちながら、両者を共に相対化していかなくてはならないということです。
私たちは、近代以前の時代に戻ることはできませんが、少なくとも、近代以降に日本に導入されたものを絶対視しないという姿勢を持つ事は可能なはずです。
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