漱石と日本の近代化(20)

オフィリア(落下)とベアトリーチェ(飛翔)。
前近代的な桃源郷への典雅な脱俗をテーマにしているように一面的に読まれやすい『草枕』。

この作品の終盤に、漱石は、画工との間に「鏡池」をはさんだ対岸で、那美さんという女性が地面の上に身を投げるという印象的なシーンを描いた。

このシーンに、「現実への着地」という象徴的な意味を漱石が込めていたとするならば、脱俗のために山に登った画工という存在そのものすらが、このシーンの意味を明確に際立たせるための伏線の一つとなり、『草枕』という小説の意図は、「脱俗」どころか、現実への「アンガージュマン」(参与・投企)を宣言したものとして、180度反転してしまう。

画工と那美さんが「鏡池」を間にはさんで対峙しあったように、「離脱」と「参与」は、『草枕』という小説において、鏡写しの関係(=一見正反対に見えるが同質性をもつもの)として描かれる。

池や川への身投げ(世界からの離脱)も、高い岩から地面に着地すること(世界への参与)も、同じ「跳躍」の行為であるが、この二つは真逆の意味をもつ。

また、池の端で、人が上方に跳躍すれば、鏡面の役割を果たす水面には、落下運動として映じる。

「鏡池」は、『草枕』という作品がもつ両面性を象徴している。

この重要なシーンを終盤に置くために、漱石は、作品の序盤から緻密な伏線を張っていくのだが、その伏線の理解を助ける資料として、二つの著名な西洋画を紹介しておきたい。

一つは、19世紀イギリスで活躍した芸術家集団「ラファエル前派」の画家、ジョン・エヴァレット・ミレーによる『オフィリア』である。



「オフィリア」は、シェークスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物である。

ハムレットは、デンマーク国王である父親が、叔父によって暗殺されたことを知り、狂気を装いながら虎視眈々と復讐の機会をうかがう。オフィリアはハムレットの恋人であったが、ハムレットが狂気に陥ったと信じ込んで絶望し、自らも精神疾患にかかって、川に身を投げて死んでしまう。

この作品が、1852年に公開されて以降、ヨーロッパでは、長らく批評家たちによって芳しい評価を得られなかった。この作品が評価されるようになるのは、1936年になってようやく、シュルレアリスムの画家サルバドール・ダリによって絶賛されるのを待たなくてはならなかった。

漱石は、『草枕』の中で、画工が旅する地域に伝わる、池に身投げした「長良の乙女」の伝承に重ね合わせて、頻繁に画工に、自らがイギリス留学中に直接目にしただろう、この美術作品のことを言及させている。

 余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開あけて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以もって、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

『草枕』が発表されたのは1906年のことであるが、20世紀以降、ヨーロッパで本格的にこの美術作品が評価される以前に、漱石はすでにこの絵画に着目していたことになる。

もう一つ、『草枕』の理解を助ける美術作品として着目しておきたいのが、ミレーと同じ、「ラファエル前派」に属する画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの『ベアタ・ベアトリクス』である。



この絵は、ダンテの詩文集『新生』で語られた、ベアトリーチェという女性の死を描いたものである。

ダンテは、9歳のとき、春の祭りで出会ったベアトリーチェという少女に深い印象を抱く。18歳の時、ダンテはフィレンツェのサンタ・トリニタ橋の上で美しく成長したベアトリーチェと遭遇し熱病のような恋に落ちる。しかし、この恋は叶わずに、ベアトリーチェはとある銀行家のもとに嫁ぎ、ダンテも許嫁の女性と結婚する。その後、ベアトリーチェは病に倒れて24歳で夭逝し、悲嘆に暮れたダンテは、生涯をかけて、彼の詩を通して、ベアトリーチェという女性を永遠化することを決心する。『神曲』の中で、ダンテを煉獄から天国に導く案内役として登場するのが、このベアトリーチェである。

実は、この、ロセッティの『ベアタ・ベアトリクス』と、ミレーの『オフィリア』にはある共通点がある。

それは、この二つの美術作品が、エリザベス・シダルという同一の女性をモデルにして描かれているという点である。

詩人としても活動したエリザベス・シダルは、「ラファエル前派」の画家たちのモデルをつとめた女性であるが、後にロセッティの妻にもなった。

ロセッティは、シダルと婚約しながら、ジェーン・バーデンという他の女性と恋に落ちる。ジェーンがロセッティの弟子のウィリアム・モリスと結婚したことで、ロセッティは予定通りシダルと結婚するが二人の生活はうまくいかず、その後、シダルは服毒自殺を遂げる。

妻の自殺に心を痛めたロセッティが妻をモデルにして、ダンテの恋人のベアトリーチェになぞらえて描き、1870年に完成させたのが、『ベアタ・ベアトリクス』という美術作品である。

エリザベス・シダルは、結婚する以前に、ミレーの『オフィリア』のモデルもつとめており、ミレーは、この作品を描くために服を着たシダルを浴槽に長時間浸からせたため、シダルが風邪を引き、シダルの父親から賠償金を請求されたという逸話が残されている。

『草枕』の中で、画工も、那美さんをモデルにして、ミレーの『オフィリア』のような絵画を描きたいようなことを繰り返し口にしている。

こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑んで、ぼんやり考え込む。温泉場の御那美さんが昨日冗談に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪にのる一枚の板子のように揺れる。あの顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長え(とこしなえ)に落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打うち壊してしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思わしくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

漱石が、エリザベス・シダルという19世紀イギリスで名の知れた美術モデルと、「ラファエル前派」の画家たちとのいきさつをどれほど知っていたかは不明だ(イギリスに滞在し、日々当地の新聞に目を通していたであろう漱石なら知っていた可能性が高い)が、那美さんという女性の人物像に、エリザベス・シダルを重ね合わせている節が多くみられるのである。

たとえば、那美さんは、シダルと同じく、結婚に失敗した出戻りの女性として描かれている。

詩人だったシダルと同じく、那美さんは、スケッチブックに記した画工の俳句を添削する詩人としても描かれている。

自殺したシダルのように、那美さんが自分の自殺をほのめかす場面がある。

多くの絵のモデルであったシダルのように、那美さんをモデルにした絵を画工が心の中で完成させることが、『草枕』という小説の終結となっている。

さらに、シダルという女性を介して、漱石は、現実に絶望して池に身を投げた「オフィリア」的な側面と、ダンテを導いて煉獄から天国へと昇天した「ベアトリーチェ」的な側面、落下と飛翔の両面を、那美さんという女性に投影しているように読めるのである。

「鏡」が、『草枕』の両面性の象徴であったように、「身投げ」と「着地」が、同じ跳躍の行為でありながら、真逆の意味をもつように、オフィリアの川への身投げと、ベアトリーチェの天国への飛翔は、死という共通の意味をもちながら、落下と上昇という真逆の方向を目指すように、時には「オフィリア」として描かれ、時には「ベアトリーチェ」として描かれたエリザベス・シダルは、この両面性を体現した女性である。

このように、漱石は、その博識と教養によって、相当に入り組んだ伏線を、『草枕』という作品の中に仕込んでいる可能性がある。

那美さんのモデルがエリザベス・シダルだとすると、『草枕』がダンテの『神曲』を意識して書かれているのではないかという私の推察も、ますます信憑性を帯びてくるのである。

私が「『草枕」は緻密に作り込まれたミステリー作品である」と述べる理由の一端も、おわかりいただけるのではないだろうか。

漱石は、他の作品にはなかなか見られないほどの深い象徴性を『草枕』という小説の中に織り込んでおり、この作品を読み解くことは簡単な作業ではない。

さらに『草枕』を分析していこう。

(つづく)
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