漱石と日本の近代化(18)

漱石とハイデッガー(2)
「現存在」(具体的な生身の人間)は、自分が選んだり、造ったりしたわけでもない世界に否応なく投げ込まれており、そのことを不安を通して自覚するが、その「被投性」を主体的に引き受けて、自らのあり方を「投企」によって選び取り、歴史を創造していくことができる。

「現存在」に関するハイデッガーの思索と論述は、近代文明に直面した明治以降の日本人の姿と、なぜかぴったりと重なっている。

「実存」と「存在」が、二つに分かたれてしまった西洋の近代的二元論を克服し、「個人」と「世界」との有機的なつながりを解明しようとしたハイデッガーの思想には、禅仏教のような東洋思想の影響が色濃く反映されていると言われるが、ハイデッガーの思索に、「現存在」としての日本人の存在が、大きく影響を与えていたと考えられる根拠がいくつか存在する。

まず、夏目漱石がロンドンで学んだように、1920年代から戦後にかけて、多くの錚々たる日本の知識人が、ハイデッガーのもとで学んだり、ハイデッガーを訪問したりした事実がある。

田邊元、九鬼周造、三木清、山内得立、西谷啓治、務台理作、高橋里美らがハイデッガーのもとで学び、高坂正顕や久松真一などハイデッガーのもとを訪れた。

今でも残る、トートナウベルクにあるハイデッガー・ヒュッテと呼ばれる山荘は、日本人留学生の謝金によって建てられたものである。

ハイデッガーの思想は、特に、東洋的で日本的な哲学の構築を目指した京都学派の哲学者らに強い影響を与え、彼らは、日米開戦後の、1942年に「近代の超克」と呼ばれる有名なシンポジウムを開いて、明治以来の日本の近代化の意味を総括しようとした。

多くの日本人知識人が、ハイデッガーの影響を受けたのみならず、ハイデッガーも日本人知識人との深い交流を通して、東洋思想や、近現代の日本人が抱えている問題意識を知ったことだろう。

1929年、フライブルク大学の教授就任の際に「形而上学とはなにか」として題して行われた講演で、ハイデッガーは「無」について論じた最初の西洋の哲学者となった。

1963年9月22日に読売新聞で公開された、小島威彦という日本人哲学者に宛てた書簡の中で、「無」に関する1929年の講演のことを言及しながら、次のように述べている。

示唆に富んだ、重要な文章なので全文を掲載しておきたい。

(下の翻訳で「立たせる」と訳されているstellenというドイツ語の動詞には「配置する」という意味がある。「立たせる力」よりも、自然や人間を「配置する力」として理解すると、以下の文章はよりわかりやすくなる。)

日本の友に

あなたのお手紙に答えるには、その内容を次の三つの問いに引きおろしてみることにしましょう。そうすることによって、私たちは思惟の最も問うに値する問いに近づくことができるでしょう。

1.「世界のヨーロッパ化」とは何を言うのか。
2.「人間喪失」という言葉は何を意味しているのか。
3.「人間の本来性に達する道」はどこにあるのか。

1.「世界のヨーロッパ化」とは何を言うのか。世界がヨーロッパ化されるにつれて、止まるところを知らず全地球に拡がってゆく何かが、たしかにヨーロッパから現れました。ここで「ヨーロッパ」という名は、近代の西欧を呼んでいます。近代とは今日までのヨーロッパの歴史の最後の時期です。この時代は、史学的考察においてはさまざまな観点から特徴づけられるでしょう。

しかし、いま私たちが全地球的規模における支配という観点から「ヨーロッパ的なるもの」を沈思しようとするかぎり、次のように問わねばなりません。かかる支配はどこから由来するのか。どこからこの支配は、その無気味な力を受け取っているのか。その力における支配的なるものとは一体何であるか。ーー私たちが人間と世界との関係に留意するかぎり、その最も明白な特徴として近代技術が挙げられねばなりません。その結実として、近代産業社会が形成されてきたのですから。 一般の通念では、技術とは数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用することと解されています。そしてこの物理学の成立のなかに、西欧的近代すなわちヨーロッパ的なるものの始まりが認められています。では一体、この近代自然科学だけが持っている特質とは、何によって決められるのでしょうか。

この自然科学なるものは、自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するものです。ここではただ、あらかじめ算定できるものだけが、存在するものだと見倣されています。理論物理学で行なわれているような自然の数学的見取図や、それに則った実験による自然への照合というものは、一定のきめられた観点から自然の返答を求めます。ここでは自然は、算定しうる対象という性格において姿を現すように、挑発されているのです。つまり自然は、そういう場に立たされるのです。

いま私たちは技術というものを、ギリシア語の「テクネー」ーーtéchnēーーのなかで意味されている事柄から考えてみると、立て上げること(ヘルシュテレン)に精通していることなのです。この際、「テクネー」は知の在り方の一つです。そして立て上げるということは、立て上げる以前には未だそこに現存していなかったものを、顕わな、近寄りうる、処置しうるものへと立たせることなのです。このような立て上げること、すなわち技術に固有な特質が、ヨーロッパ的西欧の歴史の内部で、近代の数学的自然科学の展開を通じて、比類ない仕方で実現されています。

この自然科学の根本特質はかかる意味での技術的なるものであって、それがなによりも近代物理学によって初めて、全く新たな独自な形態をとって現れてきたのです。この近代技術によって、自然のなかに閉ざされていたエネルギーが打ち開かれ、その開発されたものが変形され、変化されたものが補強され、補強されたものが貯蔵され、貯蔵されたものが分配されるようになりました。自然のエネルギーが確保される在り方が制御されるばかりでなく、その制御自身もまた確保されなければなりません。いたるところで、このように挑発し、確保し、計算するように自然を立たせること(シュテレン)が、支配し統べているのです。それのみではなく、遂にはさまざまなエネルギーを手許に立て上げるということが、あるがままの自然界のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで、拡大されてしまいました。

このような立たせる力の下に、近代科学の技術的性格までが立たされているのです。この立たせるという力は、存在しうるもの、存在しているものを問わず、ありとあらゆるものを、算定することができ且つ確保すべき役立つもの(ベシュタント )として目前に持ち来たす、ーーそして唯かかるものとしてしか持ち来たさないのであるが、ーーそういう力として経験されることが肝要です。このような立たせる力は、決して人間の拵え物ではありません。だから科学も工業も経済も同様に、この力の支配下に立たされるのです。つまりこの力によって、その都度千差万別の立て上げ[仕上げ]に向かって仕立てられるがまま(ベシュテレン)になってしまうのです。

この避けることも制することもできない力は、その支配を全地球上に否応なく拡大してゆくばかりです。しかも時間的にも空間的にもその都度達成されたどんな段階をもたえず乗り越えてゆくことが、この力の持ち前なのです。科学的認識や技術的発明の前進は、この立たせるということの法則性に属しています。この前進は決して、単に人間によって初めて設けられた目標ではありません。この立たせる力の支配の結果、世界文明といったようなものを仕立てたり切り揃えたりするために、風土的・民族的に芽生えた国民文化が(一時的にか永久的にかはともかく)消えうせてゆくのです。

なるほど、世界のヨーロッパ化という言い方は或る程度正当なことでしょう。しかし、もし私たちが上述してきたような立たせる力のもっている本来的なものを反省することを怠るなら、その言い方は根源に到達しえない史学的・地理学的な題目に止まってしまいます。だから先ず何よりも、こう問うてみることが必要です。いったい私たちの思惟とその伝承が、かかる力の呼び求めるところを聞き取り、そのなかで統べているこの立たせるというそのことを、そのもの自体をして正当に語らしめるだけの資格を備えているかどうかと。西欧的・ヨーロッパ的思惟も、ーー初めてこの立たせる力に襲われ、そして立たされたのですがーー今日ではもはや従来のような形ではこの力に対してその本来的なものにふさわしく問いかけるには充分ではなくなりました。

こうしたことを沈思してみると、次の二つの問題の解明も、明らかにほんの推察の前庭に留まらざるをえないことになります。

2.「人間喪失」という言葉は何を意味しているのか。あなたの「人間喪失」という表現は、私たちの言語では馴染みのないものであり理解し難いものです。しかしむろん貴翰の文面から、この涯しない技術化の世界の時代における人間に関して、あなたの考えがどんな方向をとっているかはよくわかります。人間は、ますます自己の人間性を喪失してゆく脅威の高まりのなかに立っています。この場合、人間を特徴づけるもの、人間に固有な性格がうんぬんされているわけです。たとえそれらが人間の存在(メンシュザイン) に関する西欧的・ヨーロッパ的解釈であろうと、東アジア的解釈のなかで描き立てられ(フォアシュテレン)ようと、いずれにせよ、長い間伝承されてきた人間の規定(さだめ)が考えられているのですが、その定めが今や解消されようとする危険にさらされています。そのために人間はもはや、かつてこの立たせる力に圧倒されてしまう以前にあったような、人間ではありえません。

しかし、かかる消滅の危険よりも遙かに大きな、もう一つ別個の危険が残されたままのように思われる。すなわち、人間が今日まで一度も自らにふさわしいものであり得なかった、その自らに適った人間になることが、人間に拒絶されているという危険です。この危険を見取るためには、どんなふうに人間がこの立たせる力に曝されているかを問わねばなりません。人間はこのことに何んら気も止めず、自分の属している世界を、あまねく算定しうる役立つものとして、仕立てるように立たされ、しかも同時にその自分自身が、かく仕立てうる可能性を確保するように立たされているのです。つまり、そうするように挑発されて(ヘラウスフォルデルン)いるのです。かくも人間は、算定しうるものや製作の可能性を仕立てようとする意志に呪縛されたままになっています。人間はこの立たせる力に売り渡されてしまって、自己の成存(ウェーゼン)の本来の意義を塞ぎ立てられているのです。

人間の物理的消滅という意味での世界破局による外的脅威も、また人間の我執にとらわれた主観性への変転による内的脅威も、人間の人間性における決定的な危険への陥落を、含んでいるものではありません。なぜなら、その両者ともがそもそも、立たせる力に曝された人間がその力からその力へと仕立てられた者として、ひたすら役立つ物としての世界の確保に狂奔し、かくすることによって空虚のなかへ陥ってしまう。命運(ゲシック)の結果にすぎないからです。

この命運に相応ずるものこそ、あの忍びよるようにやってくる生存(ダーザイン)の退屈さです。この無聊は見かけだけではこれといういわれもなく、従ってそれが素直に無聊だとは認められもせず、報道活動や娯楽産業や観光事業によって全く覆いかくされていて、しかも払い除けようにもどうにもならないものなのです。人間をかくのごとく立たせている、その力によって人間本来の独自なものが人間に拒絶されていること、そこにこそ最も人間の人間性を脅す危険極まりないものが横たわっているのです。
そこでこう問わねばならない時がきました。

3. にもかかわらず人間の本来性に到る道は、どこに示されているのか。この立たせる力が世界の全面に圧倒的優位を占めているとき、いま私たちが求めている道が示されうるような地域は、もはやその力自体を除いてはどこにもありません。ただ、この立たせる力の支配力という領土の内部で、その道を探索する可能性しか残されてはいません。ここでもまた、人間が仕立てる[配慮する]というそのこと自体が、人間存在の本来的なるものに到る道を塞ぎ立てています。

ところが、この立たせる力がそれ自身のうちに、人間にふさわしきもの、人間にのみふさわしきものの下絵を保管している場合には、どうでしょうか。もしそうだとすると、私たちがそのことを経験[悟る]するためには、この立たせる力の統卒(ワルテン)を素直にそのものとして垣間見(ブリック)なければなりません。その際必要なことは、仕立てることに没頭したり技術的世界を観察したりする代わりに、むしろ私たちはこの立たせる力の統卒から一歩身を引くことです。そこから引き退る歩みが必要です。しかしどこへ引き退るのか。ここではただ消極的な表現によって、この問いの意味を明らかにさせることで満足しなければなりません。

この引き退る歩みとは、決して過去の時代への思惟の逃避でもなければ、ましてや西欧哲学の発端の復興をいっているのではありません。またこの歩みは、あらゆる仕立てを引き摺ってゆく進歩と対立した意味での退歩、すなわち技術的進歩を引き止めようとする見込みのない試みを、さしているのでもありません。この引き退る歩みとは、むしろ仕立ての進歩や退歩が生起している路面から抜けだす歩みなのです。
この反省の歩みを通じて、立たせる力はそこでは何んらの対象となることなく、或る開かれた出会いのなかに到達するのです。そこでその立たせる力は、この歩みに向かって、人間が世界の算定可能な役立つ物を仕立てることに対する連関のなかで、姿を現してきます。ここにいたって、人間とは世界の算定可能な役立つものを、その立たせる力からこちら側へ立て上げる(ヘルシュテレン)[立て直す、制作する]ように挑発されているものだということが、わかるのです。そのように、立たせる力は人間を呼び求め、その求めに応ずる(ベアンシュブルフンク)ことを必要としています。だから、かく呼び求められている人間(イン・アンシュブラッハ・ゲノンメン)は 、この立たせる力の本来的なもののなかへ一緒に所属していきます。人間はかくのごとく呼び求められた者であるということ、ーーこれが世界の技術時代における人間の成存(ウェーゼン)の固有なものを特徴づけています。

立たせる力は、人間を通じて世界の現存するものを、算定可能にして且つ確保すべき役立つ物という性格において、出現させます。現存するもの(ダス・アンウェーゼンデ)、すなわち古くからの命名によれば存在するもの(ダス・ザイエンデ)[存在者]を、そこに現前せしめるもの(アンウェーゼン)が、「存在(ザイン)」として私たちに知られているものです。人間は仕立てるために(すなわち世界を一個の技術的世界として開発するために)、呼び求められ、使われているが、こうした立たせる力のなかで統べている人間に対する要求こそ、人間が存在(ザイン)の本来的なものに帰属していることを証拠立てているものです。この帰属性(ツーゲヘーリヒカイト)が、人間の本来的なものの最たるものです。なぜなら、人間は存在への帰属性に基づいてこそ初めて存在を聞き取ること(フェアネーメン)ができるからです。この存在への帰属性が垣間見える時にのみ、聞き取る力(フェアヌンフト)[理性]は何を呼んで(ハイセン)いるのか、またどのようにそれが人間の特徴として眼前に立たされ(フォールシュテレン)[表象され]うるかが、語られる(ザーゲン)のです。

私は以前に「形而上学とは何であるか」(1929年)のなかで、人間が存在の呼び求めに応答し(エントシュプレッヘン)、そうすることによって存在がその都度姿を現しうるように、見護り(ベワーレン)の座所を用意する実相を、ーー人間は「無の座席番(プラッツハルター)であるーーという言葉で述べておきました。すでに1930年に日本語に翻訳されたこの講演は、あたなのお国では直ちに理解されましたが、ヨーロッパではまるで違って、今日でもなおこの引用語は虚無主義的な誤解のまま流布されています。

ここで言っている「無(ニヒツ)とは、存在しているものという点から言えば決して或る存在しているものとはいえないもの、従って無で「ある(イスト)」ものを意味しています。 しかしそれにも拘わらず、それは存在しているものをかくのごときものとして規定するところのもの、従って「存在(ザイン)」と名づけられるものを指しています。人間は「無の座席番」であり、また人間は「存在の牧者(ヒルト)(主人ではなく)」であると述べたのは(「ヒューマニズムについて」1947年)、同じことを言っているのです。それにしてもこういう言い廻しは、まだ不充分な言葉でしかありえません。

今この手紙では、ただ専ら次のことを認識することが眼目なのです。すなわち、この立たせる力が統べているということーーつまり世界の技術化の本来的な意味ーーを垣間見る閃き(ブリック)が、まさしく人間の本来的なるものへ到る道を教えてくれます。この本来的なるものとは、人間が存在によって、存在のために、呼び求められている意味において、自己の人間性を特徴づけているものを言っているのです。人間は、この立たせる力によって、この力のために、使われるもの(ダス・ゲブラウフテ)なのです。人間の独自性は、人間が自分自身に属していないということにあるのです。もし私たちが、この技術化された世界のなかで何が支配し統べているかを示すことのできる、見入る閃き(アインブリック)に従うなら、そのとき必ずやそこに決定的な経験[悟り]の可能性が齎らされる(ゲウエーレン)でしょう。

立たせる力は、よく思惟してみると、ーーもし人間があらゆる問いのなかで最も問うに値する問いの中に、辛抱強く逗留する覚悟を持するならば、必ずや人間は自己の使命にふさわしきもの(ダス・アイゲネ)に到達できるものだという約束を、それ自身のうちに蔵しているものです。その問いとは、西欧的・ヨーロッパ的思惟が従来「存在」という名の下に描き立て(フォールシュテレン)ねばならなかったものの本来の特質が、どこに潜み、どこに自らを隠蔽しているかを、反省することにほかありません。

この反省が上述したような引き退る歩みによって指し示される道を辿らないかぎり、いつまでも至るところに横行してやまぬ迷誤が狼藉をくりひろげるばかりです。この迷誤たるや、人間が技術の主人となって、もはやその奴隷に止まるべきではない、という要請のなかにあるものです、だが人間は決して、近代技術の近代技術たる所以をなすものの主人となることはありません。それゆえまた、人間は単にその奴隷でもありえない。このような主人と奴隷との二者択一は、いまここに潜んでいる実相の領土に到達するものではありません。<br>
たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人となったということになるでしょうか。断じてそうではない。その管理の不可欠なことが取りも直さず、立たせる力を証明しているのであり、またこの力の承認を表明しているとともに、この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに曝露しているものです。しかしそのことは同時に、まだ覆い匿されているこの立たせる力の秘密に、自ら反省しつつ適応するようにという合図(ウインク)をも含んでいます。

このような反省は、もはや従来の西欧的・ヨーロッパ的哲学をもってしては遂行することはできません。さればといって、その哲学なくしてはまた不可能なことです。すなわち、改めてわれわれのものにされたその哲学の伝承が、それにふさわしい道に持ち来たされることなくしては、到底できることではありません。数世紀ならずして展開された、しかし二千年を通じて準備されたこの世界の近代は、一朝一夕にしては、あるいは一般的にいって単に人間の巧みだけによっては、人間本来の自己の本土のなかへ救出された人間がそこに逗留する住み家を見いだしうるほどに、明るみ(リヒト)に持ち来たされるものではありません。

1963年8月18日
フライブルクにて  マルティン・ハイデガー
小島威彦君

(出典: 『読売新聞』1963年9月22日)

夏目漱石が、その小説を通して扱おうとした問題と、まったく同一の問題を、ハイデッガーが考えていたことに、私たちは上掲の文章を通して気付かされる。

「世界のヨーロッパ化」と、それが招く人間の自己喪失という、夏目漱石も深く直面し、明治維新以降の日本人が抱えてきた問題は、日本人知識人らによって、ハイデッガーに対して提出され、ハイデッガーもこの問題について自ら思索し、論じざるをえなかった。

漱石は、ヨーロッパで学ぶ日本人としてこの問題を考え、ハイデッガーは、ヨーロッパで学ぶ日本人を受け入れる側としてこの同じ問題を考えた。

このように、漱石が抱えた問題意識は、具体的で切実な形で、ハイデッガーの思想の中にもこだましている。

漱石とハイデッガーは決して無関係な知識人ではなく、多くの日本人を介して、両者の思索は深く結ばれているのである。

ハイデッガーは、1954年には、『言葉についての対話―日本人と問う人とのあいだの』(Aus einem Gespräch von der Sprache. Zwischen einem Japaner und einem Fragenden)というタイトルの著作も刊行している。この著作は、日本語とヨーロッパの言語との相違についての、「問う人」(ハイデッガー自身)と、「日本人」(手塚富雄と言われる)との対話という形式で書かれている。

「問う人」(ハイデッガー)は、漱石ほど、日本の近代化に鋭い問題意識を抱いていない日本人の聞き手(手塚富雄)に、次のように問いかけており、ここでも、日本の近代化をめぐる、漱石と同じ問題意識を読み取ることができる。

(二人は、ハイデッガーの弟子であり、『「いき」の構造』の著者である、九鬼周造について語っている。)

問う人(ハイデッガー): この言葉(「いき」)が何を語っているのか、九鬼氏と度々語り合った折りにも、私は遠くから感じ取ったにすぎません。

日本人: 九鬼氏は後にヨーロッパから日本に戻ってから、京都[帝国大学]で、日本の芸術と文学の美学について講筵を張りました。この講義は書物となって出版されております。この講義で、彼は日本の芸術の真相をヨーロッパの美学の助けを借りて考察しようとしているのです。

問う人(ハイデッガー): しかし、そういう試みをする際、ヨーロッパ流の美学(Ästhetik)に頼っても良いものでしょうか。

日本人: 何故いけないのでしょう。

問う人(ハイデッガー): 美学というこの名称そのものも、この名で呼ばれている学問も、ヨーロッパの考え、ヨーロッパの哲学に基づいております。それ故、美学的考察は、日本という東アジアの考えにとっては、基本的に見て、異質なものに違いないと思われるのですが。

日本人: おそらくおっしゃるとおりだと思います。それでも、我々日本人は、美学の助けを借りないわけにはいきません。

問う人(ハイデッガー): 何の為にでしょう。

日本人: 美学は必要な概念を与えてくれるからですし、概念があれば、芸術や文芸として我々に関わってくるものを把握することができるからです。

問う人(ハイデッガー): あなた方には概念が必要なのですか。

日本人: 多分必要だと思います。と申しますのも、ヨーロッパの考えと接触して以来、我々の言葉の非力さが明るみにでてきましたので。

問う人(ハイデッガー): どの程度にあなた方の言葉が力不足なのですか。

日本人: 限定する力が欠けているのです。そのため、対象を誤解の余地がないほどはっきりと分類し、対象が相互に上位、下位に位置づけられるように、脳裡に思い浮かべて表象することができないのです。

問う人(ハイデッガー): あなたは本気でこの力不足を、あなた方の言語の欠陥と思っておられるのですか。

(中略)

日本人: しかし、九鬼伯はドイツ語を充分使いこなしていましたし、フランス語、英語にも珍しいくらい堪能だったのではありませんか。

問う人(ハイデッガー): その通りです。彼は論点になったことを、ヨーロッパのいろいろな言葉で語ることができました。しかし、我々が取り上げて論じたのはいきのことでした。その場合、私にとっては、日本語の言語精神は閉ざされたままでしたし、今日でも依然としてそのまま変わってはおりません。

日本人: 九鬼氏にとって、いきをヨーロッパの美学の助けを借りて、ということは,あなたのご指摘によれば、形而上学的にということになりますが、とにかく規定したい、という誘惑がいかに大きかったか、お分かりいただけると思います。

問う人(ハイデッガー): 私の懐いている危惧の念はそれより大きかったですし、現在でも依然として変わっておりません。つまり、その懼れとは、そんな道を歩めば、東アジアの芸術の本質は蔽われてしまい、その本質にふさわしくない領域に押し込められてしまうのではないか、というものです。

技術の進歩によってすっかり目がくらんでしまいましたので、人類と地球を挙げてのヨーロッパ化が、本質的なものをすべてその源泉のところでいかに喰い荒らしているか、誰も見抜くことができなくなってしまったのです。源泉が枯れ果ててしまうようにすら思われます。

(出典: ハイデッガー『言葉についての対話―日本人と問う人とのあいだの』こちらのサイトから引用)
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