漱石と日本の近代化(16)

『草枕』は誤読されている。
『草枕』という小説は、多くの読者によって誤読されている。

たとえば、博覧強記の読者家として世に知られる編集者の松岡正剛氏は、「松岡正剛の千夜千冊」という著名な書評サイトで『草枕』を取り上げているが、この方も、『草枕』を読み違えている。

 「余」は旅の画工のようだ。その画工がふと考えた。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。

有名な冒頭の文句である。智も情も意地も結構だが、使いすぎや刺しすぎでは困るというのが言い分だ。が、このあとがある。「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」というふうになる。さらに「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」と続く。

これは芸術至上主義のような「余」の宣言である。ウィリアム・ブレイクやジョン・ラスキンが好きだった漱石らしく、この世のどこにも待っている柵(しがらみ)からちょいと出て、詩画の佳境というものに転じようというわけなのだ。

しかし、この芸術至上主義の漱石にはぼくの食指はさほどうごかない。わざわざ漱石を借りることもない。漱石から知りたいのは西欧のイデアやアートなどではなく、むしろ日本というこの世で、はたしてどのように遁世をするかということなのだ。漱石自身、すでにロンドンにいて「色々癪に障る事」ばかりが気になった。そして、『草枕』が繰り出す趣向の選択のほどが、かつてのぼくが知らなかった漱石だったのだ。

そのことを感想する前に、この冒頭ですでに「写す」という言葉がつかわれていて、ここに『草枕』の本来の面目が予告されていたことを、あらかじめ指摘しておきたい。ここで「写す」とは写実ではなく写意ということである。そうなのだ。日本の奥へ赴きたいのなら、「写し」をもって退くべきなのだ。漱石は「とかくに人の世は住みにくい」と言いながら、その住みにくい世から何かを写せば引っ込める、そう言ったのだ。

ヨーロッパが癪なら、そこを去ればいい。けれども日本にいて日本の癪からどう脱出するかというと、そこで西欧の芸術に逃げたのでは始まらない。むしろ日本の奥へ行く。『草枕』とはその奥への遁世の仕方の文学なのである。

話は淡い。とりたてて出来事もない。主人公の「余」は旅の途中のすさびに「那古井」の湯治場だか隠居所だか判然としない「志保田」という家に泊まる。

そこに那美という出戻りだが美しい女がいて、余はこの女性にかすかにジョン・エバレット・ミレーの水死するオフェリヤの面影を見て、懸想する。が、その那美さんとどうこうなるわけもなく、ただこの女性の某(なにがし)かをどうにか絵にしたいとおもうばかりなのである。話の最終段になると、その那美さんの弟が日露戦争に出征することになり、余も川舟に乗って一家の見送りに付き合うことになるのだが、そこで那美さんが停車場から出て行く汽車が動き出した瞬間、車窓にかつて別れた前夫の顔を見いだした。落魄して満州に落ちていく男の顔である。その刹那、余はこんなことを突然に腑に落とす。

 ――那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちに不思議にも今迄かつて見た事のなかった「憐れ」が一面に浮いている。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就した。

(後略)

(出典: 松岡正剛「松岡正剛の千夜千冊」草枕)

『草枕』を、単に、「その奥への遁世の仕方の文学」「芸術至上主義」と読んでしまうのは、不注意な読者が陥りがちな典型的な誤りである。

漱石が、「芸術至上主義」なるものを掲げて、平然と済ましていることができるほど単純な頭の構造をもつ人物なら、日本の近代化の問題に頭を痛めてノイローゼになったりはしなかっただろう。

松岡氏は、『草枕」が、奥への遁世の文学であるのと同時に、画工が遁世のために登った山から下りてくるという、物語の重要な半面を無視してしまっている。

漱石は、何の意図もなく、画工が浸かる湯に裸の那美さんを入らせ(漱石の小説の中で女性の裸体が描かれるのは『草枕』が唯一)、茶の席で画工の隣に日露戦争に出征する那美さんの従兄弟の久一さんを座らせ、画工に久一さんの出征の見送りに同行させ、駅での久一さんの出征や那美さんの元夫の満州への出立の場面に画工を立ち会わせさせ、画工の面前で、那美さんの表情に「憐れみ」という人情を浮かび上がらせたわけではない。

「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」老人は当人に代って、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼まる。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸ばしる時が来るかも知れない。この青年の腰に吊る長き剣の先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を捲く高き潮が今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

俗世間を離脱して、美の天上界へと上昇しよう、上昇しようとする画工を、漱石はこれでもか、これでもかといわんばかりに、現実の引力で下向きにひっぱろうとしている。

画工を美の世界へと上昇させようとするのも漱石自身ならば、画工を現実世界につれもどそうとしているのも漱石自身である。

『草枕』は、美へと上昇しようとする力と、現実へと下降しようとする力の拮抗が描かれた小説である。

『草枕』は、単なる芸術至上主義の小説なのではなく、美と現実、東洋と西洋、伝統と文明の板挟みにあって悩む漱石の葛藤が隠しようもなく現れた作品であり、『それから』ほど明示的ではない隠微な仕方でその葛藤が現れてしまっているだけに、『草枕』は、『それから』以上に、謎めいた複雑な深みをもった作品として成立している。

さて、前回、私は『草枕』は、ダンテの『神曲』の煉獄篇を意識して構成されているのではないかという仮説を述べたが、この見解にどれほどの妥当性が認められるだろうか。

『草枕』の一年前に書かれた『倫敦塔』という短編に『神曲』の地獄篇からの引用がなされている事実に加えて、『草枕』出版の約一年後に朝日新聞に掲載された『坑夫』という小説も、ダンテの『神曲』地獄篇をベースに書かれている。(このことは既に指摘している人々がいる。)

ならば、時間的に『倫敦塔』と『坑夫』の間に書かれた『草枕』が、『神曲』の煉獄篇を意識して書かれた可能性は、十分に考えうる。

なにより、私たちが考慮しなければならない点は、『草枕』が書かれた頃、漱石自身が、まさに「煉獄」のような状況に置かれていた点である。

「煉獄」とは、カトリックの教義によれば、「天国」と「地獄」の間の中間的な場所であるが、漱石自身、高浜虚子が率いる芸術至上主義的な傾向の強いホトトギス派の人々と、森田草平のように社会批判的で写実主義的なロシア文学に傾斜する人々、その双方から批判を受けるという板挟みの状態に置かれていた。

「美」(天国)と「現実」(地獄)の中間(煉獄)に、漱石は位置していたのである。

こゝに於て僕はサボテン党(『草枕』のサボテンの描写を褒めた高浜虚子らホトトギス一派)でも露西亜党(社会的リアリズム派)でもない。猫党にして滑稽的+豆腐屋主義(豆腐屋とは社会批判的要素を強めた漱石の『二百十日』の主人公、従って「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」とはホトトギス派とリアリズム派の双方を止揚した立場のこと)と相成る。サボテンからは芸術的でないと云はれ露西亜党からは深刻でないと云われ、小便壺のなかでアプアプしている。

(出典: 夏目漱石「明治三十九年十月二十一日森田草平宛書簡」)

漱石自身は、次のように「美」の文学と、「現実」の文学、その双方を止揚するような文学をやりたいと語っていた。

僕は一面において俳階的文学に出入すると同時に一面において死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。

(出典: 夏目漱石「明治三十九年十月二十六日鈴木三重吉宛書簡」)

このような、美と現実の狭間に立つ、漱石の中間的な状況を考慮するならば、漱石が、ダンテの『神曲』煉獄篇を意識して『草枕』を執筆したと考えても、なんら不自然ではない。

ひたすら美の天上界を目指そうとする「画工」は、那美さんに、ダンテ『神曲』のベアトリーチェのような案内役を期待し、読者もまた『草枕』という作品の途中までは「画工」の期待がかなえられるかのように錯覚するのだが、物語の頂点をなす、「鏡池」(画工の上昇運動と女性の下降運動が鏡映しであることの暗示)と呼ばれる場所でのある出来事を境に、物語は現実世界を目指して急激に下降を始める。

神秘的で謎めいた女性、那美さんの正体は、物語の終盤になってようやく明らかにされ、「鏡池」でのクライマックスシーンまで、「画工」の雄弁な芸術論によって巧みに錯覚させられたきた読者は、最後には思いも寄らなかった場所へと運び去られていく。

物語の途中までは、超越的な美の天上界への飛翔の行為として語られていた「女の身投げ」は、「鏡池」での那美さんのある決定的な行動によって、ハイデッガー的な「被投性(Geworfenheit)」の象徴的行為としてその意義が一転させられてしまう。美の天上界へと飛翔する代わりに、現実の中へと身を投げた那美さんと共に、画工も読者も、落下傘のように地上に急降下させられてしまう。

『草枕』は決して芸術至上主義的な「あの世」(天国)の小説なのではなく、醜い俗世を描いた「この世」(地獄)の小説でもなく、その中間にある「煉獄」という、美と現実、東洋と西洋、伝統と文明の矛盾と葛藤の場所を描いた物語である。

単に「遁世の文学」として片付けられるほど平板な作品ではない。

ハイデッガーが、20世紀が十分に深まってからようやく、人間の「被投性」だの「投企」だのと言い出すはるか以前から、漱石は既にそのことについて『草枕』の中で扱っていた。だからこそ、この物語では「身投げ」が重要なモチーフとして繰り返されているのである。

「俳階的文学」への憧れを画工に託した漱石は、「命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神」を那美さんに託した。

鏡(鏡池)をはさんで、現実に向かって身を投げる那美さんと、美へと超越し飛翔しようとする画工が対峙し、互いを映し合う。それが『草枕』という、不可思議な物語の核心である。

このように、『草枕』は、非常によく練り上げられたミステリー小説のように巧みな伏線をもつ作品であり、終盤のどんでんがえしが用意されている点もまさにミステリー小説そのものなのだが、その具体的で詳細な解釈については、次回から述べていく。
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