漱石と日本の近代化(12)

余裕のない文学と、余裕のある文学。
日本社会の近代化(=資本主義に基づく国家改造と社会変革)に、心と頭を痛めた夏目漱石。

その漱石が心の治癒のために最初に書いた小説が『吾輩は猫である』であり、この作品は、猛然とした勢いで近代化が進行する明治社会を、一匹の猫という近代文明の外部に棲息するものの視点から俯瞰し観察することを目指していました。

近代文明の外側から、人間社会を俯瞰し観察する。これと同じ構想は、物語のナレーターを「猫」から、近代化が東京ほどには波及していなかった阿蘇山中の温泉場を旅する「画工」に代えて、『猫』の翌年に発表された『草枕』という作品においても引き継がれました。

『草枕』は、ナレーターの「画工」に、「非人情の芸術」という、当時の漱石が理想としていた芸術論を語らせることによって、「近代文明の外側からの、社会の俯瞰と観察」という『猫』以来、漱石が採用してきた創作スタイルを理論的に解説する作品にもなっていましたし、『草枕」という作品そのものが、「非人情の芸術」という芸術論の一つの実践例として(後述するように危ういバランスの上に)執筆されていました。

その後、『それから』という作品で、主人公が、親友の妻との恋愛をきっかけに、高等遊民の座から追われて、彼が毛嫌いしていた近代社会の中で職業を探さざるをえない状況に追い込まれることによって、「近代文明の外部からの観察」という、漱石の初期の作品において採用されてきた創作スタイルは放擲され、漱石の小説は、初期の作品のように近代社会の外部から語られるのではなく、近代社会の内部から物語られるように変化していきます。

その際に、漱石の作品の中で、重要な位置をしめるようになっていくのは、「観察者」ではなく、長大な遺書を残して自殺した『こころ』の先生のような、「告白者」です。

私たちは、この論考を通して、漱石の作品の変遷がもつ意味を掘り下げようとしています。

この論考を通して、日本の資本主義が長期のデフレという行き詰まりの状況を呈している現代において、再び、漱石の初期の作品のような「資本主義の外部に立つ視点」は可能なのかという問題を解き明かして行きたいと思います。

さて、『草枕』は既に述べたように、漱石が『吾輩は猫である』で採用した執筆スタイルの手の内を明かす解説書となっていたわけですが、その部分を再度引用しておきたいと思います。

恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。

これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。

それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。

苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。

採菊東籬下
悠然見南山

ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

独坐幽篁裏
弾琴復長嘯
深林人不知
明月来相照

ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。

二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

漱石が『吾輩は猫である』で実践し、『草枕』で述べた「非人情の芸術」という芸術論。

この芸術論は、俳句の近代化と復興に取り組んだ正岡子規の「写生説」、そして正岡子規や弟子の高浜虚子を中心に「ホトトギス」派の人々たちが推進した「写生文」運動の影響を受けていると言われています。

正岡子規は、俳諧という江戸時代の伝統が、明治維新以降津波のように押し寄せてきた西洋文化の中に埋没して絶滅しかけていたときに、「写生」という西洋絵画の概念を導入することによって近代文学の一形態として俳諧の意義を再定義し、俳諧の実践の中から「発句」(連句の第一句)のみを切り出して、これを「俳句」と呼んで再整備した人物です。(五・七・五の韻文を俳句と呼ぶようになったのは正岡子規以降のことです)。

正岡子規は、万葉集を自然を素朴で実直な姿勢で写生したものとして称揚する一方、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」といって古今和歌集をこき下ろし、俳諧の中では、芭蕉よりも、山水画の画家であり俳人でもあった与謝蕪村の俳句を、写実的な描写に徹したものとして高く賞賛し、俳諧が近代文学として生き残る手がかりを、蕪村の作品の中に見いだそうとしました。

正岡子規は、物事をあるがままに記述する「写生」という概念は、俳句のような韻文のみならず散文にも適用されるべきだと主張してこれを「写生文」と呼び、自らもこれを実践しました。雑誌「ホトトギス」は「俳句」のみならず、「写生文」運動を推進する中心的役割を果たしました。「写生文」は、言文一致の近現代の日本語の散文形式の成立に大きな貢献をしたと言われています。

正岡子規の親友であり、高浜虚子のような「ホトトギス」派の人々と親交が深かった漱石も、「写生文」の実践例として、『吾輩は猫である』を執筆し、この作品を雑誌「ホトトギス」で発表しました。

ただし漱石の「写生文」は、単なる事物の客観的な観察と写実的な記述では終わらずに、「近代批判」「文明批判」「資本主義批判」という要素を強く帯びるものでした。

既に本論考で述べてきたように、近代社会を相対化するための、近代文明の外部からの観察であり「写生」であったのです。

この「写生」を行う際に、「猫」ほど適切な語り手はいなかったことでしょう。

社会を真に客観的に観察し、これを「写生」するためには、その観察者は、完全に社会の外部に立たなくてはならないからです。

この観察者が人間である場合、観察者はなんらかのきっかけで、いともたやすく、現実社会に巻き込まれていってしまいますが、語り手が猫ならば、人間のように餅を食って二本足で立って踊りを踊ってみせたところで、人間社会の外部に立つ存在であることをやめることはありません。しかし、観察者が、『草枕』の画工のような年若い青年であれば、状況は異なってきます。

ところで、漱石は、『草枕』の中で展開した、正岡子規らの写生説に基づく「非人情の芸術」と同じ趣旨の芸術論・文学論を、『草枕』とほぼ同時期に書いた『写生文』(明治40年)という文章や、高浜虚子の小説『鶏頭』によせた序文(明治40年)の中でも提示しています。

少し長いですが、これらの文章からも引用しておきましょう。

写生文と普通の文章との差違を算え来るといろいろある。いろいろあるうちで余のもっとも要点だと考えるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である。

(中略)

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すればついにここに帰着してしまう。

小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做して、擦ったもんだの社会に吾自身も擦ったり揉んだりして、あくまでも、その社会の一員であると云う態度で筆を執る。したがって隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目そのものは同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

そんな不人情な立場に立って人を動かす事ができるかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買いに出る。途中で犬に吠えられる。ワーと泣いて帰る。御母さんがいっしょになってワーと泣かぬ以上は、傍人が泣かんでも出来損いの御母さんとは云われぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られるたびに泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙むりたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。

それでは人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

したがって写生文家の描く所は多く深刻なものでない。否いかに深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視るからたいていの場合には滑稽の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。

人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしていると云う。茶化していると云う。もし両親の小供に対する態度が小供を馬鹿にしている、茶化していると云い得べくんば写生文家もまたこの非難を免かれぬかも知れぬ。多少の道化たるうちに一点の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。

この故に写生文家は地団太を踏む熱烈な調子を避ける。恁狂的の人間を写すのを避けるのではない。写生文家自身までが写さるる狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこまで引き込まるる事がおかしくてできにくいのである。

そこで写生文家なるものは真面目に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁えぬほどの熱情をもって文をやる男よりもたしかなところがあるかも知れぬ。

吾が精神を篇中の人物に一図に打ち込んで、その人物になりすまして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものができるかも知れぬが、いかにも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となくゆとりがある。逼っておらん。屈托気が少ない。したがって読んで暢び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。

(中略)

彼らは何事をも写すを憚はばからぬ。ただ拘泥せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿の限りなき波瀾はことごとく喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎し来きたる福音である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく、踊ったり、跳ねたり、酣酔狼藉の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らから云うとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏った道行を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なるところはないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにも関かかわらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんと云うのは窮窟に世の中を見過ぎた話しである。――今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいるところをもって見ると公然と無筋を標榜せぬまでも冥々のうちにこう云う約束を遵奉していると見ても差支つかえなかろう。

写生文家もこう極端になると全然小説家の主張と相容れなくなる。小説において筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の当然の義務である。したがって巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与うるものと、誰も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。

かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たものである。泰西の潮流に漂うて、横浜へ到着した輸入品ではない。浅薄なる余の知る限りにおいては西洋の傑作として世にうたわるるもののうちにこの態度で文をやったものは見当らぬ。(もっとも写生文家のかいたものにもこれぞという傑作はまだないようである)オーステンの作物、ガスケルのクランフォードあるいは有名なるジッキンスのピクウィックまたはフィールジングのトムジョーンス及びセルヴァンテスのドン・キホテのごときは多少この態度を得たる作品である。しかし全く同じとは誰が眼にも受け取れぬ。

しかしこの態度が述作の上において唯一の態度と云うのではない。またこれが最上等と云うのではない。ただこんな態度もあると云う事を紹介したいと思うのである。近頃写生文の存在がようやく認められるにつけて、写生文家の態度はこうであると、云い纏めるのは一般の人の参考になる事と思うからこの篇を草したまでである。

俳句は俳句、写生文は写生文で面白い。その態度もまた東洋的ですこぶる面白い。面白いには違ないが、二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になって他を軽蔑するのは誤っている。かかる立場から出来上った作物にはそれ相当の長所があると同時に短所もまた多く含まれている。作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えねばならん。

(出典: 夏目漱石『写生文』)


虚子の作物を読むにつけて、余は不図こんな考えが浮んだ。天下の小説を二種に区別して、其の区別に関聯して虚子の作物に説き及ぼしたらどうだろう。

所謂二種の小説とは、余裕のある小説と、余裕のない小説である。

(中略)

茶を品し花に灌ぐのも余裕である。冗談を云うのも余裕である。絵画彫刻に間を遣るのも余裕である。釣りも謡いも芝居も避暑も湯治も余裕である。日露戦争の永続せざる限り、世間がボルクマンの様な人間で充満しない限りは余裕だらけである。而して吾人も已むを得ざる場合の外ほかは此余裕を喜ぶものである。従って此等の余裕より生ずる材料は皆小説となって適当である。

(中略)

以上は余裕ある小説の説明である。既に余裕ある小説を説明した以上は余裕なき小説も大概其意味が分った筈はずであるが。一言にして云うとセッパ詰った小説を云うのである。息の塞ふさがる様な小説を云うのである。一毫も道草を食ったり寄道をして油を売ってはならぬ小説を云うのである。呑気な分子、気楽な要素のない小説を云うのである。たとえばイブセンの脚本を小説に直した様なものを云うのである。大いに触れたものを云うのである。所謂いわゆるイブセンの書いたもの抔などは先まず吾人の一生の浮沈に関する様な非常な大問題をつらまえて来て其問題の解決がしてある。しかも其解決が普通の我々が解決する様な月並でなくってへえと驚ろく様な解決をさせる事がある。人は之を称して第一義の道念に触れるとも、人生の根元に徹するとも評して居る。成程なるほど吾々凡人より高く一隻眼を具して居ないとあんな御手際は覚束かない。只此点丈だけでも敬服の至りである。然し斯様に百尺竿頭に一歩を進めた解決をさせたり、月並を離れた活動を演出させたり、篇中の性格を裏返しにして人間の腹の底にはこんな妙なものが潜そんで居ると云う事を読者に示そうとするには勢い篇中の人物を度外れな境界に置かねばならない。余裕をなくなさなくってはならない。セッパ詰らせなくってはいけない。そこで大抵は死活問題が出てくる。一世の浮沈問題が持ち上がって来る。(必ずとは云えない。人間は一寸風を引いたのが動機になって内的生活に一革命を起さぬとは限らぬ。然し大体の傾向はと云うと以上の如くである。)

斯様かように小説を二つに分けて見た所で虚子の小説はどっちに属するかと云うと先まず前者即ち余裕のある方面に属すると思う。其余裕のある所が、ある一派の人から見て気に入らぬ所であろうと思われる。

(出典: 夏目漱石「『鶏頭』序文」)


漱石は、正岡子規の写生説に基づく「写生文」は、西洋にはない、日本独自なものと認識していました。

しかし、近代文明の根っからの批判者であった漱石は、なぜか、この「写生文」という、『吾輩は猫である』や『草枕』を通して実践していた、俳句的、日本的な、東洋的な、「出世間的の詩味」に遊ぶ創作スタイルを捨て去って、自ら「余裕のない文学」と揶揄していた、「呑気な分子、気楽な要素のない小説」「セッパ詰った小説」「息の塞ふさがる様な小説」を書くようになっていきます。

既に述べたように、漱石が、『それから』の主人公代助を、高等遊民の座から追い払ったことが、漱石が「写生文」というスタイルを捨て去る決定的なきっかけとなりました。

『それから』の続編である『門』では、主人公宗助は、薄給の公務員として近代資本主義社会の枠組みの中にがっちりと組み込まれ、「六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復す」るために日曜日がやってくるのを待ち焦がれながら日々を過ごしています。不安から逃れるために、役所に休暇を願い出て、「出世間」の境涯を求めて禅寺の門を叩くものの、悟りに至ることなく日常生活の中に戻ってきます。山中で温泉につかりながら「出世間の詩味」を満喫していた『草枕』の画工とは対象的です。(『門』という作品は、近代社会を生きる小市民の不安だけでなく、その日常ののどかで平穏な側面も巧みに描写しており、漱石が、単なるリアリズム文学へと変節したわけではないことを示しています。)

しかし、この変化の萌芽は、漱石が、「非人情の芸術」論を高らかに画工に語らせていた、『草枕』の中に既に見受けることができます。

若い精力に満ちた「画工」は、「猫」ではないので、現実に対して超然と構えていることができないからです。

次回、『草枕』の中に見られる漱石の作風の変化の萌芽、また『草枕』という作品が抱えている矛盾について指摘してみたいと思います。

(つづく)
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漱石と日本の近代化(21)

美的な超越世界へのベアトリーチェ的な「飛翔」への憧れをもって語り出された物語は、「飛翔」に、それとは鏡像関係にある、オフィリア的「落下」のイメージを重ね合わせながら、その両者を一瞬にして、ハイデッガー的な「投企」の意味へと反転させる。 この「鏡」は、画工のみならず、漱石自身の創作活動の方向性を「反転」させる意図をもって、この作品の中心に置かれている。
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