漱石と日本の近代化(9)

自己治癒のための自己俯瞰。
夏目漱石の作家生活は、1905年、38才の時に、『吾輩は猫である』を、雑誌「ホトトギス」に発表して作家デビューしてから、1916年、49才で死去するまでの、わずか11年間という短いものでした。

この短い年月に、漱石は、文字通り「不朽」の、多くの傑作を残しました。

この漱石の11年間の作家生活は、次の四つの時代に区分できるのではないかと思います。

A. デビューから、朝日新聞入社まで (1905年~1907年)
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』

B. 朝日新聞入社から、修善寺大患まで (1907年~1910年)
前期三部作『三四郎』『それから』『門』

C. 修善寺大患から、『こころ』完成まで (1910年~1914年)
後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』

D. 晩年 (1914年~1915年)
『道草』『明暗』

この間、漱石の執筆スタイルは大きく変化しました。

特に、「A. デビューから、朝日新聞入社まで」の初期の作品で採用していた「非人情」の文学という、俯瞰的、観察的なスタイルを捨てて、「C. 修善寺大患から、『こころ』完成まで」の時代では、近代的個我の心理を深く掘り下げていく、陰鬱な作品を執筆するようになっていきます。

まるで落語の寄席を聞いているようなユーモラスな処女作『吾輩は猫である』と、後期の傑作『こころ』の作者が同一人物であることが信じられないぐらい、漱石の執筆スタイルは大きく変化しました。

この漱石の作品の変化と、日本の近代化の進行にはどのような因果関係があるのでしょうか。

さて、この考察をさらにおし進めていくまえに、漱石が作家デビュー前の、ロンドン留学の頃までの経歴を語った言葉が残されていますので、ご紹介しておきたいと思います。

夏目漱石が、『こころ』を書き上げてしばらく後の、1914年11月25日に、「私の個人主義」と題して学習院で行った有名な講演からの引用です。

私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。それなら自力でそれを窮め得るかと云うと、まあ盲目の垣覗きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛がないのです。これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も乏しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。

私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうかお茶を濁して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦くんでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

私はこうした不安を抱だいて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃流行はやるベルグソンでもオイケンでもみんな向こうの人がとやかくいうので日本人もその尻馬に乗って騒ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆みな是なりと云いたいくらいごろごろしていました。他の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。

けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華を去って摯実につかなければ、自分の腹の中はいつまで経ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考えと矛盾してはどうも普通の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含まれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇には一道の光明を投げ与える事ができる。――こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ遅まきの話で慚愧の至りでありますけれども、事実だから偽らないところを申し上げるのです。

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。

その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。

(出典: 夏目漱石『私の個人主義』)

上の講演の中で漱石自身が語っているように、漱石は、ロンドン留学中に日本人が英文学を研究することの意義について煩悶し、下宿に籠もりきりで日本人の視点による「文学論」を構築しようと研究に没頭します。

留学から帰国後、東京帝国大学の講師となった漱石は、この「文学論」の講義を行うのですが、学生からは不評で、漱石の前任の講師小泉八雲先生を呼び戻してくれという学生の抗議運動を引き起こしました。

このとき漱石が行った講義は、学生の講義録のノートを元に、その後『文学論』として1907年に出版され、今も岩波文庫で読むことができます。

「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象 又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。」

(出典: 夏目漱石『文学論』)

から始まる難解な講義であり、心情的な陶酔を求めるロマン的な傾向の強い当時の文学青年たちに、あまりに非文学的な学理的な漱石の講義が受け入れられなかった理由も頷ける気がします。

さらに、漱石が、藤村操という一人の怠惰な学生を叱責したことがきっかけとなり、この学生が、華厳の滝で、「巌頭之感」という有名な遺書を木の幹に刻んで入水自殺を遂げるという事件が起きました。

巌頭之感

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

この一学生の自殺事件は、「巌頭之感」がちょっとした名文であったことから全国的に有名となり、当時の新聞や雑誌で大々的に報じられることになり、その後、185名もの「煩悶青年」が、藤村操のまねをして華厳の滝で後追い自殺するという騒動になりました。

漱石はこのときの出来事を、終生気に病んでいたようで、処女作の『吾輩は猫である』も含めて、漱石の作品の中には自殺という問題が繰り返し取り上げられています。

教師という仕事に絶望し、深刻なノイローゼの症状に悩んでいた漱石でしたが、漱石の親友正岡子規の弟子であった俳人高浜虚子に、気分転換のために小説を執筆するように勧められて書いたのが処女作『吾輩は猫である』でした。

猫という第三者的な視点から、自分を含めた世界を俯瞰して描くという漱石の最初期の小説のスタイルは、そもそも、精神的な危機に陥っていた漱石の自己治癒のために採用された文学形式だったのです。

(つづく)
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漱石と日本の近代化(15)

私がこれから述べる解釈で『草枕』を読み解くと、『草枕』は、『猫』以来実践された、「写生文」「俳句的小説」「余裕ある小説」という小説作法の完成であるのと同時に、それに対する漱石の離別宣言であり、漱石がこれから進んでいく方向を読者にはっきりと指し示した作品として読める。
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