意図的な忘却、管理された異常精神
再々掲「これは何の苦行だろう」。
この記事は、2014年8月15日の二つの記事、「これは何の苦行だろう(1)」、「これは何の苦行だろう(2)」に注釈をつけて2016年5月8日に再掲した記事「これは何の苦行だろう」に若干修正を加えて再掲したものです。ジョージ・オーウェルの言う「二重思考」(=「管理された異常精神」=個人の信仰体系(ものの見方)の中の矛盾に対する、よく訓練された、意識的な、知的な無視のかたち)は、三橋貴明自身の中に、また、三橋信者や安倍信者など、カルト化した大衆の中にはっきりと見てとることができます。
以下、再掲文です。
私が三橋貴明にこだわるのは、安倍政権を/が生み出した、大衆扇動の一つの象徴的存在であり、記録に残すべきモデルケースだと考えるからです。
テルトゥリアヌスという古代のキリスト教の思想家が、「非合理なる故に我信ず」という有名な言葉を残しましたが、三橋貴明の言論の特徴は、意図された非合理性にあります。それは「管理された異常精神」を作り出すべく意図された非合理性です。
三橋貴明の矛盾に満ちた非合理な言論は、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場する「二重思考」に酷似しています。
三橋貴明や、三橋信者の精神構造はまさにこれに該当します。
三橋貴明の中に内在化されている「意図的な忘却のプロセス」は、彼の不合理な言論を通じて、ウィルスのように大衆の中に伝染し、「管理された異常精神」を増殖させていきました。
三橋貴明が展開してきた言論と、それが大衆の中に引き起こしてきた反応は、今後、社会心理学の研究テーマとして扱われるに値する事例であると思います。
以下、古い記事の再掲です。
以下、再掲文です。
私が三橋貴明にこだわるのは、安倍政権を/が生み出した、大衆扇動の一つの象徴的存在であり、記録に残すべきモデルケースだと考えるからです。
テルトゥリアヌスという古代のキリスト教の思想家が、「非合理なる故に我信ず」という有名な言葉を残しましたが、三橋貴明の言論の特徴は、意図された非合理性にあります。それは「管理された異常精神」を作り出すべく意図された非合理性です。
三橋貴明の矛盾に満ちた非合理な言論は、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場する「二重思考」に酷似しています。
二重思考は、個人の信仰体系(ものの見方)の中の矛盾に対する、よく訓練された、意識的な、知的な無視のかたちである。二重思考は、心の中で悪いことを考えながら外面では善を装う「偽善」や、複数の対立する立場のどれにも味方しない中立的な思考と関連があるが、はっきりと異なっている。二重思考をする者は偽善者と異なり、自分の心の中にある対立した信念を同時に信じ込み、対立が生み出す矛盾のことを完全に忘れなければならない。次には、矛盾を忘れたことも忘れなければならない。さらに矛盾を忘れたことを忘れたことも忘れ、以下意図的な忘却のプロセスが無限に続く。オーウェルはこれを「管理された異常精神」と書いている。
(出典: Wikipedia「二重思考」)
三橋貴明や、三橋信者の精神構造はまさにこれに該当します。
三橋貴明の中に内在化されている「意図的な忘却のプロセス」は、彼の不合理な言論を通じて、ウィルスのように大衆の中に伝染し、「管理された異常精神」を増殖させていきました。
三橋貴明が展開してきた言論と、それが大衆の中に引き起こしてきた反応は、今後、社会心理学の研究テーマとして扱われるに値する事例であると思います。
以下、古い記事の再掲です。
三橋信者たちの、あまりに自虐的な我慢比べ。
熱い湯は熱い。
冷たい水は冷たい。
辛いものは辛い。
甘いものは甘い。
あたりまえの話ですが、このような、あたりまえのことがわからない人たちがいます。
消費税増税推進、移民推進、新自由主義推進の自民党を支持すれば、消費税が増税され、移民が推進され、新自由主義が推進されることは当たり前なのに、「自民党しかない」といってわざわざ自民党を支持しながら、
「なぜ、消費税増税がされるんだ」
「なぜ、移民政策が推進されるんだ」
「なぜ、新自由主義政策がなされるんだ」
と大騒ぎをしている三橋貴明と、その周りに群がる人々です。
それはまるで、自分で熱い湯に浸かりながら、
「なぜ、熱い湯は熱いのだ」
と大騒ぎをし、
自分で冷たい水につかりながら、
「なぜ冷たい水は冷たいのだ」
と大騒ぎをし、
自分で唐辛子をたっぷり食べ物にふりかけながら
「なぜ唐辛子は辛いのだ」
と大騒ぎをし、
自分で砂糖をたっぷり食べ物にふりかけながら、
「なぜ砂糖は甘いのだ」と
と大騒ぎする人々に似ています。
熱い湯がいやなら、熱い湯から出ればいいだけの話なのに、「熱い湯じゃなきゃだめだ」と選択肢を自らせばめておきながら、「湯が熱い」と騒ぎ続ける。
「うぉぉ、熱いい。しかし、三橋先生なら、熱い湯を冷たくして下さるはずだ、うおぉぉぉ。」
とあり得ない期待を寄せながら、いつまでも熱い湯につかり続ける。
だから、私は、「これはいったい何の苦行なんですか」と、三橋信者たちに問わずにはいられないのです。
このような不思議な現象がおきる原因は、三橋貴明の言論そのものの中にあります。
「消費税増税反対、移民反対、新自由主義反対」
と、自民党と正反対の経済政策を掲げながら、同時に、
「自民党が唯一絶対の愛国保守政党だ」
と、自民党員として、自民党絶対支持を掲げる。
「熱い湯は危険です」
といいながら、
「熱い湯につかりなさい」
と命じる。
その結果、三橋信者は、三橋の言論の中に仕込まれた二律背反の「泥沼」の中で、いつまでも、もがき続けることになります。
この「泥沼」から抜け出したくなっても、
「泥の中をかき分けて進みましょう。」
と、三橋に連れ戻されます。
だから、三橋信者ほどには自虐的ではなく、我慢強くない、普通の感覚の人々は、三橋の言論という蟻地獄に近づくべきではありません。
(出典: WJFプロジェクト「これは何の苦行だろう(1)」2014年8月15日)
三橋貴明の言論は「無害」になったのか?
「熱湯は危険だ」
といいながら、
人々を熱湯の中へと誘導した三橋貴明。
最初は、
「このお湯が熱いと言うのはマスコミの飛ばしです」
などと言って、熱湯であることに気づかないふりしてとぼけていましたが、
「三橋先生、このお湯は熱いです、これはまさか熱湯ではありませんよね?」
という疑問の声が高まってようやく、
「なんとまあ、これは熱湯です」
と驚いたフリをしながら、ようやく認めた三橋貴明。
そんな三橋貴明をさして「三橋貴明は無害になった」という人たちがいますが、それは本当でしょうか。
三橋は、熱湯の中に、苦しみながらも我慢強く浸かり続ける人々にむかって
「確かに、これは熱湯です」
とか、
「このお湯は突然熱くなりましたよね」
とか、
「みなさん、このお湯は熱すぎます。摂氏60度もあります」
とか、
「みなさんは、このままではゆでだこになります」
とか言っているにすぎず、
「みなさん、このお湯は熱湯です。危険なので、ただちに熱湯から出てください」
と言っているわけではありません。
むしろ、
「私は、みなさんがつかっている湯釜やボイラーを壊すつもりはありません」
と断言する有様です。
そんな三橋に対して、熱湯の中で苦しみ続ける三橋信者は、そもそも、その熱湯の中に彼らを誘導したのが三橋貴明自身であったという事実にふたをしたまま、
「三橋先生はさすがだ。熱湯が熱いことを認めてくださった」
「三橋先生の言論は無害になった」
「この熱湯を冷ましてくださるのは三橋先生しかいない」
と喜ぶ始末です。そして、周りの人々に向かって、
「熱湯を冷ます力があるのは三橋先生しかいないのだから、みなさんも、三橋先生が勧める通り、この熱湯の中に入っていらっしゃい。」
と呼びかけています。
そもそも、熱湯に入らなければ、湯を冷ます必要もないのですが、まったくこれはどういう種類の苦行なのでしょうか。
(出典: WJFプロジェクト「これは何の苦行だろう(2)」2014年8月15日)
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