漱石と日本の近代化(3)
近代社会の敗残者としての無為徒食の高等遊民。
漱石の最期の作品『草枕』の語り手であり画工は、近代化・文明化・西洋化に急ぐ日本社会から離れた阿蘇山の山中から、世を見下ろし、
と東洋的で脱世俗的な俯瞰的姿勢の必要性を説いていました。
漱石の処女作『吾輩は猫である』の猫は、同様に、
と語り、明治の日本社会の中で、近代化・文明化・西洋化の是非に頭を悩ませることもなく、ただひたすら如才なく立ち振るまい、一儲けを企んで遮二無二動き回る人々を、痛烈に批判していました。
『草枕』の画工は、
と自画自賛をし、『吾輩は猫である』の猫は、
と語り、日本の近代化の問題に頭を痛める漱石自身の分身であり、明治の近代社会にうまく適合できずにいる不器用な苦沙弥先生を擁護していました。
しかし、『三四郎』の続編である、『それから』や『門』といった作品の頃から、現実社会に対して優位に立つ俯瞰的な時勢の観察者としての余裕ある姿勢はなりを潜めていき、主人公たちは、近代社会に適合できない時代から取り残された無為徒食の無力な高等遊民として劣等感に満ちたネガティブな自己認識を抱くようになっていきます。
この主人公たちのネガティブな自己認識は、『彼岸過迄』『行人』『こころ』といった晩年の作品にも一貫して見られるようになっていきます。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛かべてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。
(出典: 夏目漱石『草枕』1906年)
と東洋的で脱世俗的な俯瞰的姿勢の必要性を説いていました。
漱石の処女作『吾輩は猫である』の猫は、同様に、
先刻からこの体を目撃していた主人は、一言も云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝を使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を執るつもりと見える。今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって、三人とも申し合せたように情夫をこしらえて出奔しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥しいれる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。
(出典: 夏目漱石『吾輩は猫である』1905年)
と語り、明治の日本社会の中で、近代化・文明化・西洋化の是非に頭を悩ませることもなく、ただひたすら如才なく立ち振るまい、一儲けを企んで遮二無二動き回る人々を、痛烈に批判していました。
『草枕』の画工は、
余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣りの没風流漢よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。
(出典: 夏目漱石『草枕』1906年)
と自画自賛をし、『吾輩は猫である』の猫は、
こんなごろつき手に比べると主人などは遥に上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。
(出典: 夏目漱石『吾輩は猫である』1905年)
と語り、日本の近代化の問題に頭を痛める漱石自身の分身であり、明治の近代社会にうまく適合できずにいる不器用な苦沙弥先生を擁護していました。
しかし、『三四郎』の続編である、『それから』や『門』といった作品の頃から、現実社会に対して優位に立つ俯瞰的な時勢の観察者としての余裕ある姿勢はなりを潜めていき、主人公たちは、近代社会に適合できない時代から取り残された無為徒食の無力な高等遊民として劣等感に満ちたネガティブな自己認識を抱くようになっていきます。
この主人公たちのネガティブな自己認識は、『彼岸過迄』『行人』『こころ』といった晩年の作品にも一貫して見られるようになっていきます。
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