日本語と日本社会(43)

結語: すばらしき日本よ、永遠なれ。(1)
明治維新において、主語優勢的に、「天皇が国民を統治する体制」を国家と定めた。

実際には、明治体制においても、天皇の親政が行われたわけではないが、名目上は、天皇を主語とし、国民を客体とする、主客関係が国家とされたのである。

しかし、戦争が終わり日本国憲法を得て、日本は、「天皇と国民が共に『非政治』という同じ地平の上で、相関的・相補的な関係を結びながら、日本列島で生起する『政治』も含めたあらゆる『コト』を包摂していく」、述語優勢的な関係の体系としての本来の姿へと復帰した。

被災地における避難所の体育館の床は、天皇と国民が共に坐し、被災という「コト」を包摂する、「非政治」の最も顕著な象徴である。

右翼は、この述語優勢的な戦後日本のあり方を、一種の「腐敗」として捉え、ここからの「脱却」を図ろうとする。

そして、明治体制のような、主語優勢的な主客関係としての国家の復活を彼らは目論む。

そのために、日本国憲法を改正しなければならないと彼らは考える。

左翼もまた、「政治」に無関心に見える戦後日本の現状を嘆き、あらゆる国民が、十全な関心を「政治」に寄せて、真の「政治」の参加者となり、「政治」の主語となることを期待する。

右翼にせよ、左翼にせよ、「政治」に熱心な関心を寄せる人々は、主語優勢的な見方に立って、主客関係としての支配体系が国家であると考えている。

「政治」という主語が、国民という客体を支配する主客関係の体系が国家であるというこの見方に立つならば、「政治」という領域で決定されることが、私たちの生活のあり方、社会のあり方を決定するもっともクリティカルな要因として浮上する。

もしこの見方が正しいのであれば、私たちは、自分たちの生活の他の領域を犠牲にしてでも、「政治」に一元的な関心を向け、政治活動に、私たちの生活のエネルギーと時間を可能な限り多く注がなければならないであろう。

しかし、この見方が、私たちが明治体制的な、あるいは近代国家的な、主語優勢的な国家観を自明のものとして引きずっていることから生じる一種の思い込みであるならばどうだろうか。

実際には、「政治」が一元的に私たちの社会や生活をあり方を決定しているけではなく、「非政治」の世界で生起している多種多様の「コト」(出来事や物事)が、私たちの社会や生活のあり方を決定しているのが現実であり、「政治」が、その多種多様な「コト」の一つにすぎないとしたらどうだろうか。

一つの「コト」のみをとりあげる「コトアゲ」によって、私たちは自分たちの社会や生活をむしろ歪めてしまいはしないだろうか。

私たちは「政治」も含めた多種多様な「コト」を、全体的な視野の中に包摂し俯瞰する「コトダマ」の精神をもって見つめるべきではないのだろうか。

述語優勢的な、コトダマ的な、包摂的な「政治」へのアプローチは、主客を分離して、自らが主語の側に立とうとする、主語優勢的な、コトアゲ的な、分節的な「政治」へのアプローチとは、本質的に異なるのではないだろうか。

(つづく)
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