日本語と日本社会(44)
結語: すばらしき日本よ、永遠なれ。(2)
「政治」と「非政治」をめぐる私の思索は、三年近く前に記した下の記事から始まった。
上のような記事を書くようになる以前は、WJFプロジェクトも、安倍政権の個々の政策を取り上げて、それがいかに危険なものかと説明しようとする「政治」的な記事を書いていたこともあった。
しかし、だんだんそのようなことをすることにむなしさを感じるようになっていたし、安倍を支持する勢力にせよ、安倍を批判する勢力にせよ、私たちは何か根本的な勘違いを犯しているのではないか、何か大切なものを見落としているのではないかという違和感に襲われるようになった。
安倍信者にせよ、反安倍にせよ、政治に強い関心を寄せる人々に、変な人しかいないのはどういうことなのかと首をかしげずにはいられないこともあったし、日本、日本と、大騒ぎするくせに、日本の歴史や文化や宗教にまったく関心がないのはどういうことなのだろうと不思議に思うこともあった。
その違和感の正体を突き止めるために、勉強や思索を重ねてきたのである。
勉強や思索を重ねてきて、「政治」と「非政治」についての考えをある程度整理することができ、違和感の正体を突き止めることができた。
明確に言いうることは、政治について大騒ぎしている人々の大半は、政治について論じる資格をもたない人たちだということ。
「非政治」にしっかりとした根を持っている人こそが、「政治」を語る資格があるのだが、ほとんどの人は、「非政治」に根を持たないまま、あるいは「非政治」に根を持たないことの埋め合わせとして「政治」に偏向した関心を寄せている。
「政治」について一語るためには、「非政治」について十ぐらいの深い取り組みがなければならないと思う。
例外的にまともなのは、山本太郎ぐらいである。
なぜそう言えるのか。
山本太郎が、福島の窮状を伝えるために、天皇陛下に、手紙を手渡そうとしたことがある。
あの行動は、実に見事なものだった。
バカ右翼たちは、あの行動を「不敬」だと言って大騒ぎしたが、「不敬」どころか、象徴としての天皇の本質を的確に見抜き、象徴天皇に対してもっともふさわしい敬意ある態度を示した政治家は、山本太郎以外には他にはいない。
山本太郎が、皇室を唾棄すべきものと考えるただの左翼ならば、山本太郎は、そもそも天皇陛下に手紙を手渡そうとすらしなかっただろうし、山本太郎が、ただ天皇を雲の上の人であるかのようにありがたがってればよいと考える右翼ならば、同じように天皇陛下に手紙を渡そうとすることはなかっただろう。
山本太郎は、天皇陛下に手紙を渡すことによって、被災地の避難所の体育館の床に、天皇陛下と向き合って坐す被災者と同じように、天皇陛下と向き合おうとしたのである。
天皇陛下に手紙を手渡すことで、何か「政治」的なことを実現しようとしたわけではない。
天皇陛下にただ、福島の惨状を知っていただこうとした。
天皇陛下と同じく「非政治」の領域に生きる国民の一人として、「非政治」の領域の守護者として天皇陛下を仰ぎつつ、山本太郎は、天皇陛下と共に、福島の惨事という「コト」を包摂しようとした。
これほど、象徴としての天皇の地位の本質を正しく理解した行動は、常人にはとれるものではない。
山本太郎は、「象徴としての天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」と日本国憲法が記した、「非政治」の中心に立たれる天皇を仰ぐ国民の総意を身をもって体現してみせたのである。
山本太郎は、「非政治」の「政治」を実現した一人の天才である。
いわば、「政治」となった「非政治」の塊である。
一方、安倍を支持したり、安倍を批判したりしている、ただの右翼や左翼の人々はどうなのかといえば、彼らは、「非政治」に十分な根を持たないまま、「政治」というレベルだけで、大騒ぎしているように私には見える。
右翼も左翼も、山本太郎が天皇陛下に対してとった行動の意義を誰も正しく評価できないし、 彼らは天皇の存在の本当の意義も理解できないし、「非政治」が何であるかも理解しない。だから彼らに「政治」を語る資格はない。
私自身、いつか、「政治」を語る資格を得るために、もっと「非政治」を学び、「非政治」を深く生きなければならないと思っている。
(つづく)
「政治」が「政治」を糾し得る時代は過ぎ去りました。
一つの「政治」が、他の「政治」に置き換わる、「政権交代」と呼ばれる小手先の療法によっては、現代の日本の政治の病根は根治できません。
「あれがだめだからこれ、これがだめだからあれ」という既成のカタログからの取捨選択によっては、もはや日本はどうにも救われません。
必要なのは、どの陣営であれ「政治」そのものが、「非政治」の広さと深みと「根底」から、圧倒的な力で、批判され、否定され、粛正され、解体され、新しく塗り替えられていくことです。
そのために求められるのは、「非政治」のエネルギーの結集です。
ここで「非政治」とは、時には無邪気に遊ぶ子どもの笑顔であり、時には魂の内奥からわきあがる感情のざわめきであり、時には大地に這いつくばって暮らしを営む人々の怒りであり、時には国家の安寧と五穀豊穣を願ってやまない天皇陛下の祈りであり、時には安倍晋三の体内に潜むがん細胞であり、時には事実をあるがままに語る人々の群れであり、時には火山からの水蒸気の噴出であり、時には大地にふりそぞぐ雨であり、時には太古から語り継がれる神話であり、時には連綿と受け継がれる伝統であり、時には人々の心を打つ音楽であったりします。
つまり、「非政治」とは、「自然」からわき起こり立ち上がるすべてのものの総称ですが、そうしたものの連携と結集が、今や「政治」を圧倒し、浄化しなくてはならない。
この、日本を浄化しうる「非政治」の広さと深みと「根底」を、私は「多元性」と呼びます。
(出典: WJFプロジェクト「『非政治』に『政治』を圧倒せしめよ」2014年10月10日)
上のような記事を書くようになる以前は、WJFプロジェクトも、安倍政権の個々の政策を取り上げて、それがいかに危険なものかと説明しようとする「政治」的な記事を書いていたこともあった。
しかし、だんだんそのようなことをすることにむなしさを感じるようになっていたし、安倍を支持する勢力にせよ、安倍を批判する勢力にせよ、私たちは何か根本的な勘違いを犯しているのではないか、何か大切なものを見落としているのではないかという違和感に襲われるようになった。
安倍信者にせよ、反安倍にせよ、政治に強い関心を寄せる人々に、変な人しかいないのはどういうことなのかと首をかしげずにはいられないこともあったし、日本、日本と、大騒ぎするくせに、日本の歴史や文化や宗教にまったく関心がないのはどういうことなのだろうと不思議に思うこともあった。
その違和感の正体を突き止めるために、勉強や思索を重ねてきたのである。
勉強や思索を重ねてきて、「政治」と「非政治」についての考えをある程度整理することができ、違和感の正体を突き止めることができた。
明確に言いうることは、政治について大騒ぎしている人々の大半は、政治について論じる資格をもたない人たちだということ。
「非政治」にしっかりとした根を持っている人こそが、「政治」を語る資格があるのだが、ほとんどの人は、「非政治」に根を持たないまま、あるいは「非政治」に根を持たないことの埋め合わせとして「政治」に偏向した関心を寄せている。
「政治」について一語るためには、「非政治」について十ぐらいの深い取り組みがなければならないと思う。
例外的にまともなのは、山本太郎ぐらいである。
なぜそう言えるのか。
山本太郎が、福島の窮状を伝えるために、天皇陛下に、手紙を手渡そうとしたことがある。
あの行動は、実に見事なものだった。
バカ右翼たちは、あの行動を「不敬」だと言って大騒ぎしたが、「不敬」どころか、象徴としての天皇の本質を的確に見抜き、象徴天皇に対してもっともふさわしい敬意ある態度を示した政治家は、山本太郎以外には他にはいない。
山本太郎が、皇室を唾棄すべきものと考えるただの左翼ならば、山本太郎は、そもそも天皇陛下に手紙を手渡そうとすらしなかっただろうし、山本太郎が、ただ天皇を雲の上の人であるかのようにありがたがってればよいと考える右翼ならば、同じように天皇陛下に手紙を渡そうとすることはなかっただろう。
山本太郎は、天皇陛下に手紙を渡すことによって、被災地の避難所の体育館の床に、天皇陛下と向き合って坐す被災者と同じように、天皇陛下と向き合おうとしたのである。
天皇陛下に手紙を手渡すことで、何か「政治」的なことを実現しようとしたわけではない。
天皇陛下にただ、福島の惨状を知っていただこうとした。
天皇陛下と同じく「非政治」の領域に生きる国民の一人として、「非政治」の領域の守護者として天皇陛下を仰ぎつつ、山本太郎は、天皇陛下と共に、福島の惨事という「コト」を包摂しようとした。
これほど、象徴としての天皇の地位の本質を正しく理解した行動は、常人にはとれるものではない。
山本太郎は、「象徴としての天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」と日本国憲法が記した、「非政治」の中心に立たれる天皇を仰ぐ国民の総意を身をもって体現してみせたのである。
山本太郎は、「非政治」の「政治」を実現した一人の天才である。
いわば、「政治」となった「非政治」の塊である。
一方、安倍を支持したり、安倍を批判したりしている、ただの右翼や左翼の人々はどうなのかといえば、彼らは、「非政治」に十分な根を持たないまま、「政治」というレベルだけで、大騒ぎしているように私には見える。
右翼も左翼も、山本太郎が天皇陛下に対してとった行動の意義を誰も正しく評価できないし、 彼らは天皇の存在の本当の意義も理解できないし、「非政治」が何であるかも理解しない。だから彼らに「政治」を語る資格はない。
私自身、いつか、「政治」を語る資格を得るために、もっと「非政治」を学び、「非政治」を深く生きなければならないと思っている。
(つづく)
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