日本語と日本社会(36)

「政治」と「非政治」(10)
アニメのような日本のコンテンツは、なぜ海外で人気があるのか。

中国人が挙げる理由の一つに、「説教臭くないから」というものがある。

経済発展を遂げた中国では、幼児・児童向け絵本を子どもに買い与える親が増えており、その市場は急激に拡大している。だが、その市場を席巻しているのは国産作品ではなく日本の絵本だ。中国最大のネット書店・当当網の「児童向け絵本売り上げランキング」を見ると、上位10人のうち7人が日本人作家の作品だ。また、0〜10歳児の児童図書を専門に扱っているレンタルネットショップでは、9000冊近い絵本のうち中国人作家の作品は全体の2割にも満たないありさまだ。

子どもたちが大好きな絵本は日本の絵本だ。中国の絵本は「説教臭くて、ちっとも面白くない」という。親たちは「日本の絵本はとにかく絵がきれい。シンプルなストーリーだが、子どもたちの想像力を伸ばしてくれる」と話す。日本のアニメや漫画、ゲームが好きな子どもが成長して大人になり、自分の子どものために日本の絵本を選ぶ。これはとても自然なことだ。

(出典: レコードチャイナ2015年6月23日)


中国で作られるコンテンツが説教臭いのに対して、なぜ日本で作られるコンテンツはなぜ説教臭くないかといえば、やはりここでも、「政治」と「非政治」の関係が問題となる。

伝統的に、「政治」一元的な傾向が強い儒教思想に基づいて国づくりを行ってきた中国では、「非政治」は、「政治」の一部として組み込まれてしまうか、社会の外部や下位にある反体制的なもの反文明的なものとして蔑視されたり抑圧されたり排除されてしまう。

それに対して、日本では「政治」と「非政治」の並列関係が長く存在し、「非政治」が独立した領域として栄えてきた。

このことが両国の文化の違いを醸し出している。

国や社会の中に、「非政治」という、「政治」に侵されることのない独立した領域が存在することは、決して自明なことではない。

日本では、室町時代に、もともとは非人たちが身につけていた服装などのアウトローな習俗が、非人以外の様々な階層の人々によって魅力的なものとして受け入れられ、流行する「バサラ」という社会現象が見られた。

室町時代の「バサラ」の流行は、江戸時代に「カブキ」として継承され、独特の大衆の風俗として結実していく。

非人という「政治」的制度の埒外に置かれた「非政治」の領域に生きる被差別民の「異形」の習俗が、ひろく一般社会で受け入れられ拡散していくというこの不思議な社会現象は、「政治」と「非政治」を対等なものとして並置してきた日本の伝統と無関係ではない。

この結果、日本は他国と比較しても圧倒的に早い段階から「大衆社会」や「大衆文化」をもつことになった。

西洋では、18世紀末のブルジョワ革命まで、文化は、主に王侯貴族という「政治」の担い手が消費するためのものであった。

1793年、ルイ16世の処刑一周年に当たる日に開館されたルーブル美術館は、西洋において文化が一般市民に開かれた一つの象徴である。ルーブル美術館の開館によって、王室の美術コレクションが週に三日、市民に開放されることになった。

さらに文化が、ブルジョワ市民だけでなく、広く一般大衆に本格的に浸透し十分に大衆化していくのは、資本主義の発達によって大量生産、大量消費の時代を迎え、一般大衆が「お客様」として敬意をもってって遇されるようになる20世紀まで下らなければならない。

しかし、江戸時代の日本において、すでに浮世絵のような高い芸術性を誇る絵画が、「政治」に携わる特定の人々のためではなく、「非政治」の領域に生きる一般大衆が購入するために制作され販売されている。

日本の大衆文化の起源は、どんなに遅くとも、室町時代にまで遡ることができるし、万葉集に防人などの庶民の歌が掲載されている事実を鑑みれば、さらに古い時代にまでその源流を遡ることもできるだろう。

(そもそも和歌とは、「政治」の領域に生きる人々のツールであった「文字」に拠らない口承の文化として、元来「非政治」的なもの(=大衆的的なもの)ではあるのだが。歌垣の担い手も一般の庶民であった。)

現代の日本におけるアニメなどの大衆文化の発達も、日本が古くから「非政治」の独立した領域を抱えてきたことと無関係ではない。

「非政治」の長い歴史の蓄積が、日本の大衆文化に、固定観念にしばられない自由闊達さを加えており、そのことが海外の人々を刮目させているのである。
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反安倍よ

>庶民の生活を馬鹿にし特権階級を賛美する売国ネトウヨが非政治を語るなよ

日本の社会においては、歴史的に、「政治」という、いわゆる「特権階級」の人々の限定された領域だけでなく、「非政治」という特権階級も一般大衆も巻き込んだ広大で根源的な領域が存在しており、幅をきかせている。そのため「政治」の力は限定されており、「非政治」による目に見えない圧迫と影響を受けているという話をこれまで展開してきています。

天皇や上皇や貴族のようないわゆる「特権階級」は、「政治」の領域に自らを閉じ込めることなく、平安末期以降はとくに、様々な形で「非政治」の領域に接近しようとしました。平安末期以降流行した熊野詣はその典型的な例です。天皇と供御人という非農業民とのつながりもそうですし、後醍醐天皇の非人や悪党への接近、吉野行宮の設置も同じ例です。

このことから分かることは、左翼の人々が描きがちなように、「特権階級」VS「一般庶民」という二項対立が、日本の社会において支配的であったわけではなく、「特権階級」も「一般庶民」も等し並みにしてしまう根源性を抱えた「非政治」という領域を、日本人は誰しもが重んじてきたという事実です。日本の社会に、他国に比べて格差が小さいのは、そのためであると思います。

なんでもかんでも「特権階級」VS「庶民」の戦いとして理解しようとする左翼(や陰謀論者)の誤った歴史観は、日本の歴史について不勉強なまま、日本とは異なる社会構造をもつ他国で生まれたイデオロギーを日本に持ち込んでしまったために生じています。

網野善彦のような歴史家の業績を通して、左翼の人々の勘違いはただされるだろうと信じます。

No title

庶民の生活を馬鹿にし特権階級を賛美する売国ネトウヨが非政治を語るなよ
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