日本語と日本社会(35)

「政治」と「非政治」(9)
吉野という土地の歴史的な重要性についても、簡単に言及しておかなくてはならない。

昨年の今頃、私は熊野にいた。

熊野古道の「中辺路」と呼ばれる、平安時代末期に上皇たちが歩いた道を、自分自身の足で歩いてみるためである。

滝尻王子から熊野本宮まで、二日間、延べ19時間かけて、猛暑の中、高低差が激しい山中の道を歩いた。

高低差が激しいのは、尾根や谷の存在を無視して、滝尻王子から熊野本宮にほど近い伏拝王子まで、ほぼ一直線のルートが敷かれているためである。

滝尻王子から、川沿いを蛇行する谷底の道を歩いていけば熊野本宮に辿り着かないことはないのだが、熊野古道はそのような安易な道を選ばない。

滝尻王子からいきなり傾斜が険しい坂道が始まる。

二日目、すでに日が落ちた黄昏時に、出発前に立ち寄った伊勢神宮別宮の瀧原宮近くのお土産物屋さんで購入した竹の杖にすがり、膝の痛みに耐え、足を引きずりながら、ようやく熊野本宮の大斎原に辿り着いた。



参考記事「夏の思い出(1)

昨年12月にも、紀伊半島を一周する何度目かの熊野探訪を行った。

紀伊半島の東側を南下し、和歌山県新宮市にある熊野速玉大社、同じく新宮市にある熊野三所権現が最初に降臨したとも、神武天皇が熊野上陸後に登った天磐盾とも伝えられる神倉神社、和歌山県那智勝浦にある那智大社をお参りし、新宮市に戻って熊野川沿いの道を遡上し、和歌山県田辺市の熊野本宮大社を参拝し、神職が太鼓を勇壮に打ち鳴らしながら大祓詞を唱える独特のスタイルのご祈祷を受け、夏に歩いた熊野古道中辺路沿いの道路を南下して田辺市街に出たあと、紀伊半島の西海岸沿いを北上し、熊野古道紀伊路沿いのいくつかの小さな王子社を訪れ、南方熊楠の名前の由来となった楠のご神木がある和歌山県海南市の藤白神社に立ち寄り、そこから海岸部を離れて内陸部に向かい、高野山のとある宿坊に滞在し、その翌日、早朝の高野山の奥の院をお参りし、役小角が開いたとされる、日本三大弁財天の一つ、広島の厳島神社と同じく弥山という神山を後背地にもつ天河大弁財天社を参拝し、吉野に滞在して、奈良県吉野にある修験道の総本山、金峯山寺の国宝蔵王堂に祀られているご本尊、秘仏蔵王大権現の特別開帳の法要に参加し、帰り道で、崇神天皇が三輪山祭祀を確立させた奈良県桜井市の大神神社、二十年に一度の式年造替が完了したばかりの奈良市の春日大社を参拝するという濃密な旅行となった。

参考記事「忘れがたい夜



かつての「政治」の中心地であった大和盆地を取り囲む、紀伊半島一帯の森と聖地を実際に一巡してみて、それらの「非政治」の土地がもつ意味を、身体で深く感じ取ることができた。

紀伊半島を巡って改めて確認できたことは、吉野という土地が、神武天皇が日本の礎を築いた大和盆地と、熊野とよばれる紀伊半島南部の山岳部との境界部に位置していることである。

熊野から大和盆地を目指した場合、紀伊半島南部の山岳部の終端である吉野は、大和盆地の入り口に相当する。

大和盆地から熊野を目指した場合、紀伊半島南部の山岳部の始端である吉野は、熊野の入り口に相当する。

神武天皇は、「政治」(大陸型文明圏)と「非政治」(環太平洋文明圏)の境界付近にある大和の地に国家建設の礎を築いたと私は以前記したが、より厳密には「政治」と「非政治」の境界とは、吉野に相当する。

役小角は、この吉野を出発地として、熊野本宮大社に至る「大峰奥駈道」を開き、役小角の後継者である修験者たちも、この吉野に金峯山寺を建立し彼らの宗旨の本拠地にしたわけが、網野善彦によって「異形の王権」と呼ばれ、天皇の原初的な専制的権力を回復しようと模索した後醍醐天皇が南朝を置いたのも、この吉野であった。

生涯、左翼的な主張を掲げ続けた歴史学者の網野善彦は、『異形の王権』という有名な書物の中で、明治体制によって神格化された天皇親政を目指したこの天皇が、実際には、悪党や非人という「異形」のアウトサイダーたちと結びついた事実を指摘し、後醍醐天皇の「脱神話化」を図った。

しかし、この左翼の歴史家の業績によって、後醍醐天皇や天皇の歴史的な権威は貶められるどころか、日本の歴史を通じて、天皇という存在が抱えていた深みと陰影が、かえって鮮明に浮かび上がることになった。

天皇が、「政治」という限定された領域に閉じ込められる存在ではなく、ひろく「非政治」の領域に根を下ろし「非政治」を支えさえする存在であることが明らかになったのである。

鎌倉時代後半、皇室は、後深草天皇の子孫である「持明院統」と、亀山天皇の子孫である「大覚寺統」に分裂し皇位を争った。鎌倉幕府による調停によって、この二つの系統から交互に天皇が立てられる「両統迭立」(りょうとうてつりつ)が成立した。

大覚寺統である後二条天皇が、在位7年、わずか24歳で崩御すると、後二条天皇の嫡子邦良親王が践祚するまでの時限的な措置として、後二条天皇の異母弟である尊治親王が大覚寺統の天皇として立てられた。

これが後醍醐天皇であるが、後醍醐天皇は、妥協や取り決めにがんじがらめにされ、自分の嫡子を皇太子にするという自然な願望すら叶えられない、「政治」の虚妄さを感じていただろう。

後醍醐天皇は、もっと原始的で、純粋で、生々しい権力を手にしたいと願うようになる。

その願望を実現するために、後醍醐天皇が接近したのが、「政治」の埒外にある「非政治」の領域に生きる、悪党や非人という異形の人々であり、「非政治」の世界への入り口であった吉野という土地だった。

純粋な権力の源泉は、「政治」の中にはなく、「非政治」の領域に潜在するものであることを、後醍醐天皇は直感していたのであろう。

武士たちが、既成の「政治」を相対化するために、権力の根拠を掘り当てようとした同じ「非政治」の領域に、後醍醐天皇も、権力の根拠を探り求めようとしたのである。

室町時代以降、その後の日本文化全般に強い痕跡を残した「バサラ」と呼ばれる自由奔放な社会風潮が生まれ、「非政治」の領域の活性化が見られたのは、後醍醐天皇の「非政治」の領域への接近と決して無関係ではあるまい。

明治体制は、後醍醐天皇を称揚しながら、「非政治」を「政治」の枠組みの中に組み入れ、「政治」の制度化の方向を目指した点で、「政治」の根源化と解放を目指して「非政治」に接近した後醍醐天皇とは正反対の本質をもっていた。

後醍醐天皇は、「政治」を純化し根源化し解放しようとすることで、結果的に、「非政治」の純化と根源化と解放を実現した。

そのことを明らかにした網野善彦の業績は、やはり偉大であったと認めざるをえない。
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南朝正当論は江戸期の主流派の考え。

そのまま尊王攘夷思想、明治維新とつながります。

後醍醐天皇は忠義の対象になりましたが、それがいつの時代からなのかは浅薄な自分にはわかりあせん。
後醍醐天皇の神格化は明治以降の尊王攘夷思想の行きすぎ、変質の結果のように思えます。

尊王攘夷思想がリアリティーを失ったからこそ生まれた後醍醐信仰、現実政治との乖離は最初から。
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