日本語と日本社会(32)
「政治」と「非政治」(6)
九州の日向を出発した神武天皇の船軍は、ナガスネヒコの激しい抵抗にあって大阪からの上陸に失敗すると、紀州半島を迂回し、熊野から上陸し、八咫烏の先導によって、吉野を経て、大和へと入っていった。
神武天皇が熊野から大和へと向かったこの山中のルートは、奇しくも、役小角が開いたとされる「大峰奥駈道」と、完全ではないものの、ほぼ重なっている。


神武天皇と役小角の明確な違いは、神武天皇が、熊野から大和に向かったのに対して、役小角は、大和から熊野へと向かったことである。
神武天皇がたどった、熊野から大和への旅路は、「非政治」から「政治」への推移であり、役小角がたどった、大和から熊野への旅路は、「政治」から「非政治」への推移だった。
この二人の人物は、下の文明圏マップ上の、一つの文明圏から、もう一つの文明圏への境界を、果敢にも横断していたとも言える。

熊野古道と呼ばれる、大和と熊野を結ぶ、日本の歴史上、重要な意味をもつこのルートは、上のような人類史的な広く根源的な視野で見つめられ、語られるべきものである。
興味深いのは、役小角が、神武天皇を先導した八咫烏の末裔を名乗った賀茂氏の一族であったこと。
八咫烏は、「非政治」から「政治」に至る道筋のみならず、「政治」から「非政治」に至る道筋にも精通していたということであろうか。
平安末期の上皇や貴人らは、あたかも八咫烏に先導されるように、京都と熊野の間を何度も、何度も往復した。
実際に上皇や貴人らを先導したのは修験道の行者たちであったが、彼らは役小角の伝統を引き継ぐ人々であり、「八咫烏の末裔」と呼ばれて然るべき人々であった。
大切なことは、このルートは、一方向に進んで終わってよいものではないこと。
神武天皇がたどったように、「非政治」から「政治」への道を辿ったら、今度は逆に、役小角のように、「政治」から「非政治」への道を戻らなければならない。
そしてこの道は、上皇らが行ったように、何度も何度も往復を重ねなければならない。
そうすることによって、「文明」と「自然」が一つに結ばれる。
それは日本人に課せられた人類史的な使命でもある。
神武天皇が熊野から大和へと向かったこの山中のルートは、奇しくも、役小角が開いたとされる「大峰奥駈道」と、完全ではないものの、ほぼ重なっている。


神武天皇と役小角の明確な違いは、神武天皇が、熊野から大和に向かったのに対して、役小角は、大和から熊野へと向かったことである。
神武天皇がたどった、熊野から大和への旅路は、「非政治」から「政治」への推移であり、役小角がたどった、大和から熊野への旅路は、「政治」から「非政治」への推移だった。
この二人の人物は、下の文明圏マップ上の、一つの文明圏から、もう一つの文明圏への境界を、果敢にも横断していたとも言える。

熊野古道と呼ばれる、大和と熊野を結ぶ、日本の歴史上、重要な意味をもつこのルートは、上のような人類史的な広く根源的な視野で見つめられ、語られるべきものである。
興味深いのは、役小角が、神武天皇を先導した八咫烏の末裔を名乗った賀茂氏の一族であったこと。
八咫烏は、「非政治」から「政治」に至る道筋のみならず、「政治」から「非政治」に至る道筋にも精通していたということであろうか。
平安末期の上皇や貴人らは、あたかも八咫烏に先導されるように、京都と熊野の間を何度も、何度も往復した。
実際に上皇や貴人らを先導したのは修験道の行者たちであったが、彼らは役小角の伝統を引き継ぐ人々であり、「八咫烏の末裔」と呼ばれて然るべき人々であった。
大切なことは、このルートは、一方向に進んで終わってよいものではないこと。
神武天皇がたどったように、「非政治」から「政治」への道を辿ったら、今度は逆に、役小角のように、「政治」から「非政治」への道を戻らなければならない。
そしてこの道は、上皇らが行ったように、何度も何度も往復を重ねなければならない。
そうすることによって、「文明」と「自然」が一つに結ばれる。
それは日本人に課せられた人類史的な使命でもある。
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