これまでのまとめ。
「政治」は主語的なものであり、コトアゲ的なものである。
「非政治」は述語的なものであり、コトダマ的なものである。
「政治」は「非政治」を自らの外部にあるものとして支配しようとする。
「非政治」は「政治」を自らの内部にあるものとして包摂しようとする。
人類の歴史とは、この二つの力の相克の物語であるが、どちらの力が優勢であるかは、時代や国によって異なっており、述語優勢的な言語や文化をもつ日本では伝統的に、「非政治」の包摂力が、「政治」の支配力よりも優勢であったため、政治権力の中心が中空化する特質をもっていた。
(まとめ終わり)
「日本」という国号が生まれた白鳳時代から江戸時代までの歴史は、端的に言えば、律令制度の導入によって、奈良や京都において確固たる形で据えられた政治の中心が、やがて中空化していくプロセスに他ならない。
もちろん律令制の導入においても、日本は中国の政治システムをそのまま導入したわけではなく、日本らしいアレンジを加えている。
下の図は、随や唐における律令制の官制と、日本の律令制の官制を比較したもの。(
中国のかたが作成したスライドから引用させていただいた)

中国の律令制の官制は、三省六部と呼ばれ、詔勅(皇帝の命令)の起草を行う「中書省」、詔勅の審議を行う「門下省」、詔勅を実行する「尚書省」という、「政治」の三つの機能が、皇帝の下に直属していた。
それに対して、日本の律令制の官制は、二官八省と呼ばれ、天皇の下に、「太政官」と「神祇官」という二つの官庁が設置された。太政官は「政治」に携わり、神祇官は神道の祭祀という「非政治」にたずさわった。
この比較からわかることは、中国が「政治」一元的なトップダウン式の国家体制を採用していたのに対し、日本は「政治」と「非政治」が並び立つ、二元的な体制を初めから採用していたことである。
中国の官制にも、国家祭祀に関わる「礼部」という組織が設置されていたが、あくまで尚書省の下部組織として、政治機構の中に組み込まれており、日本の官制における、太政官と神祇官の並置に見られるような、政治と宗教の二元構造は見られない。
律令制度という中国の政治制度を導入しながら、日本は、「政治」一元化した体制は導入しなかった。
太政官政府が行う「政治」を、神祇官が行う祭祀という「非政治」が包摂する関係が初めから存在していたのである。
この「政治」と「非政治」の二重構造は、やがて、ながい時間をかけて、日本の律令制や、奈良や京都という律令制の中心地が中空化していく事態を引き起こしていく。
その際に重要な役割を果たしたのが熊野という土地であった。