日本語と日本社会(23)

「言霊」と「言挙げ」(12)
「コトダマ」と「コトアゲ」に関する考察の最も大切な部分にさしかかってきました。

含蓄の深い、柿本人麿の和歌を何回かに分けて読み取っていきます。

葦原の 瑞穂の国は
神ながら 事挙(ことあげ)せぬ国
然れども 辞挙(ことあげ)ぞわがする
言幸く ま幸くませと
つつみなく 幸くいまさば
荒磯波ありても見むと
百重波 千重波にしき
言上(ことあげ)す我は 言上(ことあげ)す我は

(葦原の瑞穂の国は、神の意のままに言挙げしない国だ。だが言挙げを私はする。ことばが祝福をもたらし、無事においでなさいと、さわりもなく無事でいらっしゃれば、荒磯の波のように後にも逢えようと。百重波や千重波のように、しきりに言挙げするよ、私は。言挙げするよ、私は。)

(出典: 『万葉集』第十三 3253 相聞 柿本人麿歌集より 遣唐使への餞別歌か)

磯城島の(しきしまの) 大和の国は
言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ

(磯城島の日本の国は、言葉の魂が人を助ける国であるよ。無事であってほしい。)

(出典: 『万葉集』第十三 3254 相聞 柿本人麿歌集より 3253の反歌)


上の柿本人麿の和歌と、先日取り上げた山上憶良の下の和歌は、遣唐使への餞別の歌であるという点で共通しています。

神代より 言ひ伝て来(け)らく
そらみつ 倭の国は
皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国
言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と
語り継ぎ 言ひ継がひけり
今の世の 人もことごと
目の前に 見たり知りたり
人さはに 満ちてはあれども
高光る 日の朝廷(みかど)
神ながら 愛での盛りに
天の下 奏(まを)したまひし
家の子と 選びたまひて
大命(おおみこと) 戴き持ちて
唐(もろこし)の 遠き境に
遣はされ 罷りいませ 海原の
辺(へ)にも沖にも
神づまり 領(うしは)きいます
諸々の 大御神たち
船の舳に 導きまをし
天地の 大御神たち
倭の 大国御魂(みたま)
久かたの 天のみ空ゆ
天翔(あまかけ)り 見渡したまひ 事終り 帰らむ日には
又更に 大御神たち
船の舳に 御手うち掛けて
墨縄を 延(は)へたるごとく
阿庭可遠志 値嘉(ちか)の崎より
大伴の 御津の浜びに
直(ただ)泊(は)てに 御船は泊てむ
障(つつ)みなく 幸くいまして
早帰りませ

(神代から言い伝え来ることには、空に充ちる大和の国は、統治の神の厳しき国で、言霊の幸ある国と語りつぎ言いついで来ました。今の代の人も皆、この事は眼前に見、知っています。大和の国には人も多く満ちているのに、高く輝く日の朝廷で、神としての天皇がもっとも愛され、天下の政治をとられた家柄の子として、あなたをお選びなさり、今あなたは天皇のお言葉を奉戴して唐という遠い国土へ派遣され出立していかれます。そこで大海の岸にも沖にも神として留まり支配される諸々の大御神たちは、船の先に立って先導し申し、天地の大御神たちは、大和の大国霊をはじめとして、遥か彼方の天空からとび翔り見渡しなさるでしょう。また、無事使命を果たして帰国するでしょう日には、さらに大御神は船の先に御手をかけ、墨繩を引き伸ばしたように、あちかをし値嘉の岬をとおって、大伴の御津の海岸に、まっ直に泊まるべく御船は帰港するでしょう。無事にしあわせにいらっしゃって、早くお帰りなさい。)

(以上現代語訳は中西進による、記事本文中の現代語訳はWJFによる)

(出典: 『万葉集』第五 894 雑歌、山上憶良による遣唐使への餞別の歌)


この二つの和歌は、遣唐使の無事な帰還を祈るという同一の内容を歌いながら、そのアプローチは全く異なっています。

以前の分析で指摘したように、「コトダマ」に言及している山上憶良の和歌では、遣唐使の航海という「コト(事・言)」を、

「神代より言ひ伝て来(け)らく」


と歌って、古代からの悠久の時間の中に配置し、

「そらみつ倭の国は」


と歌って、空から大和の国を見下ろすように広大な空間の中で捉え、

「天翔り 見渡したまひ」


と歌って、神々の視点から俯瞰しようとする特徴を示していました。

それとは対照的に、

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙(ことあげ)せぬ国
然れども 辞挙(ことあげ)ぞわがする」
(葦原の瑞穂の国は、古より神の御心にゆだねて、コトアゲをしない国だが、私はあえてコトアゲをする)


という宣言から始まる柿本人麿の歌では、

言幸くま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波ありても見むと
(幸いでいらっしゃいますようにという私の祈りの通り、あなたが幸いでいらっしゃるならば、荒々しい波が起きようと再会できるでしょう)


と歌って、ひたすら「遣唐使の無事な帰還」という「コト(事・言)」のみに注目して、

「百重波 千重波にしき 言上(ことあげ)す我は 言上(ことあげ)す我は」
(波が幾重にも寄せては返すように、私は繰り返し、繰り返し、何度も何度もコトアゲするのだ)


その「コト(事・言)」を繰り返し言葉で言い表そうとしていることがわかります。

「言の葉」(コトノハ)という日本語の通り、伝統的に「コト(事・言)」という概念は数の多さと結びつけられることが多いのですが、柿本人麿は、自らが敢行する「コトアゲ」の数の多さを、「百重波 千重波」になぞらえています。

「コトダマ」が、「個物+根源」という包摂関係を示すことで世界の全体性を志向しているのに対して、「コトアゲ」が、「コト(事・言)」のみを「アゲル」(取り上げる・言葉を発する)、つまり「コト」にのみ注視して、特定の「コト」を分節化し、全体性の中から析出しようとする姿勢であるという私たちの推定は、柿本人麿の和歌に関する限り、適切なものであると判断することができます。

(つづく)
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