なぜ、「○○よ」と呼びかけるのか(16)
「言霊」と「言挙げ」(5)
「AはBである」
という、主語と述語からなる定言命題は、個物が一般的な概念によって包摂される論理的関係のみならず、現在が過去によって包摂される歴史性を含んでいる。
そのため、「主語優勢」的な社会が下の様な特徴を持つのに対し、
・個人主義
・現在と過去の断絶
・現在を重視
・個人の自由意志や主体性の尊重
・人間と自然の分離
・中心を志向する
「述語優勢」的な社会は、下の様な特徴を持つ。
・集団主義
・現在と過去の連続
・物事の始原と伝承を重視
・集団の合意と調和の尊重
・人間と自然を一体と捉える
・中心よりも辺縁や末端を志向する
というのがこれまでのお話でした。
以上の理解をもとに、万葉集のテキストを読み返し、「言霊」が「述語優勢」的な概念であり、「言挙げ」が、「主語優勢」的な概念であることを二回の記事に分けて確認していきたいと思います。
今回は、まず「言霊」や「言挙げ」という用語そのものに注意を向けてみたいと思うのですが、実はこれらの用語自体が、それぞれ「述語優勢」や「主語優勢」的な意味を表現しています。
万葉集では「コトアゲ」という言葉に、「言挙」「事上」「事挙」「辞挙」「言上」という様々な漢字を当てています。
よく知られているように、古語において、「言(コト)」と「事(コト)」は、もともと同じものを言い表す言葉であったことが伺えます。
紀貫之が書いた有名な『古今和歌集仮名序』も、「コト」という言葉の意味を明らかにしています。
「言葉」(コトの葉)という日本語は、言葉を植物の葉に喩えていますが、紀貫之もこの比喩にならい、「コト」(言)は、人の心という一つの「種」から生じ、夥しい数の多様な「コト」(事)を言い表そうとした結果生じた、植物の「葉」のようなものだと語っています。
「言」にせよ「事」にせよ、「コト」の特徴は、数が多いこと、多種多様であることです。
それに対して「タマ」(霊)とは「タマ」(玉)でもあり、その特徴は、円満な一体性や根源性です。
つまり下の図のような理解が成り立ちます。

上の図を、下の図と対比させてみてくだい。

こう捉えると「言霊(コトダマ)」という日本語の用語自体が、「コト」という無数の個物が、「タマ」という一般者によって包摂されるという、述語優勢的な論理構造(=時間構造)をそのまま表現していることがわかります。
さらにこの理解を踏まえて「言挙げ(コトアゲ)」という言葉の意味を考えると、「タマ」(一般者)との包摂関係から切り離して、「コト」という個物だけを「取り上げる」という解釈が成り立ちますから、「言挙げ」という言葉自体が「主語優勢」的な考えを表していると考えることができます。
(つづく)
という、主語と述語からなる定言命題は、個物が一般的な概念によって包摂される論理的関係のみならず、現在が過去によって包摂される歴史性を含んでいる。
そのため、「主語優勢」的な社会が下の様な特徴を持つのに対し、
・個人主義
・現在と過去の断絶
・現在を重視
・個人の自由意志や主体性の尊重
・人間と自然の分離
・中心を志向する
「述語優勢」的な社会は、下の様な特徴を持つ。
・集団主義
・現在と過去の連続
・物事の始原と伝承を重視
・集団の合意と調和の尊重
・人間と自然を一体と捉える
・中心よりも辺縁や末端を志向する
というのがこれまでのお話でした。
以上の理解をもとに、万葉集のテキストを読み返し、「言霊」が「述語優勢」的な概念であり、「言挙げ」が、「主語優勢」的な概念であることを二回の記事に分けて確認していきたいと思います。
今回は、まず「言霊」や「言挙げ」という用語そのものに注意を向けてみたいと思うのですが、実はこれらの用語自体が、それぞれ「述語優勢」や「主語優勢」的な意味を表現しています。
万葉集では「コトアゲ」という言葉に、「言挙」「事上」「事挙」「辞挙」「言上」という様々な漢字を当てています。
よく知られているように、古語において、「言(コト)」と「事(コト)」は、もともと同じものを言い表す言葉であったことが伺えます。
紀貫之が書いた有名な『古今和歌集仮名序』も、「コト」という言葉の意味を明らかにしています。
やまと歌は、人の心を種として、よろづの「コト」(言)の葉とぞなれりける
世の中にある人、「コト」(事)、わざ(業)しげき(数が夥しい)ものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり
(後略)
(出典: 紀貫之『古今和歌集仮名序』)
「言葉」(コトの葉)という日本語は、言葉を植物の葉に喩えていますが、紀貫之もこの比喩にならい、「コト」(言)は、人の心という一つの「種」から生じ、夥しい数の多様な「コト」(事)を言い表そうとした結果生じた、植物の「葉」のようなものだと語っています。
「言」にせよ「事」にせよ、「コト」の特徴は、数が多いこと、多種多様であることです。
それに対して「タマ」(霊)とは「タマ」(玉)でもあり、その特徴は、円満な一体性や根源性です。
つまり下の図のような理解が成り立ちます。

上の図を、下の図と対比させてみてくだい。

こう捉えると「言霊(コトダマ)」という日本語の用語自体が、「コト」という無数の個物が、「タマ」という一般者によって包摂されるという、述語優勢的な論理構造(=時間構造)をそのまま表現していることがわかります。
さらにこの理解を踏まえて「言挙げ(コトアゲ)」という言葉の意味を考えると、「タマ」(一般者)との包摂関係から切り離して、「コト」という個物だけを「取り上げる」という解釈が成り立ちますから、「言挙げ」という言葉自体が「主語優勢」的な考えを表していると考えることができます。
(つづく)
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