なぜ、「○○よ」と呼びかけるのか(番外編)
日本は「日本を主語」にすべきか。
少し脱線しますが、「日本語には主語がない」「日本語や日本の文化・社会の特質は『述語優勢』的なものだ」というこれまでの話を踏まえた上で、下の文章をお読みください。
チャンネル桜の水島総が好んで用いる言い回しがあります。
という表現です。
水島総は、日本を主語にしてこなかった戦後日本は、「阿片患者のよう」であり「腐臭にまみれ」ているので、葬りさるべきだと言って戦後日本を全否定するのですが、一体、彼は、「日本語には主語がない」という三上章の学説や、日本語や日本の文化や社会の本来の特質が「述語優勢」的なものであることを知らないのでしょうか。
戦後の日本が、「日本を主語にしていない」としたら、それは、明治維新から終戦まで、「主語優勢」的な欧米の立ち居ふるまいを日本が四苦八苦しながらまねるのをやめて、もともとの「述語優勢」的な国のあり方に復帰したからにほかならないのですが、「述語優勢」的な日本の本来のあり方は「腐臭にまみれた」ものなのでしょうか。
日本は再び、自分たちの本来のありかたをねじまげて、欧米のような「主語優勢」的な国家のあり方をまねなければ、「阿片患者」の烙印を押されてしまうのでしょうか。
そんなはずがあるわけがありません。
確かに、現在の日本も採用している近代的な国家の仕組みや、現代の国際社会は、欧米のような「主語優勢」的な文化の中で考案されたものなので、私たちは「主語優勢」的に振る舞うことを求められます。
しかし、ここで、私たちたち日本人の本来のあり方が「述語優勢」的なものであることを忘れてしまうと、水島総のように、日本の国柄を根底から否定するようなことを口にしながら、「私たちは真の保守だ」と平気で名乗るような、あまりに恥ずかしい愚鈍な過ちを犯すようになります。
本来は「述語優勢」的な国である日本が、その伝統的なあり方を保ちながら、現代の国際社会の中で「主語優勢」的に振る舞うとはどういうことなのか。一見、矛盾しているように見えるこの二つのことを、破綻なく実行することは、どのようにすれば可能なのか。
万葉集に示されている、「言霊」と「言挙げ」の関係を考察することによって、「述語優勢」的な文化と「主語優勢」的な文化の関わり方、「非政治」と「政治」の関係について、私たちは何かの気づきを与えられるはずです。
こういう根本の問題に踏み込んで、日本らしい「保守」の思想を立ち上げようとする人は誰もいません。
エドモンド・バークのような、イギリスという、日本とは真逆の「主語優勢」的な文化の中に生まれた政治学者の保守思想をそのまま日本に持ち込もうとしたり、それ自身が大きな歪みであった明治体制を賞賛すれば「保守」だと勘違いするような無知蒙昧のバカタレどもが跋扈しているのが、日本の保守界隈のお粗末な現状です。
チャンネル桜の水島総が好んで用いる言い回しがあります。
「日本を主語にした」
という表現です。
巻頭言「日本を主語とした思想潮流を」 水島 総
「 しっ、静かに。
君のそばを葬列が通り過ぎてゆく。 」
ロートレアモン「マルドロールの歌」より
もう、皆が気づき始めている。
全てが変わり始め、
全てが終わり始めていることを。
終わろうとしているのは、戦後日本。
今、断末魔の悲鳴やうめき声をあげて、戦後日本がのたうちまわっている。
しかし、その姿を直視し出来ない人たちがいる。
引き受けられない人たちがいる。
本当のことを言おう。
彼等は、戦後日本が、大好きだったのだ。
あれこれ、文句を言いながら、
本当は、ぬくぬくと温かく、腐臭にまみれた戦後日本を愛していたのだ。
なぜなら、
彼らこそ、戦後日本だったからだ。
自分を愛さない人はいない。
自分を否定する人もいない。
しかし、彼等も本当は気づいている。
まるで、自分たちは阿片患者のようだと。
いつか、阿片に頼らず、
独りで生きられると、本気で思い、
毎日、明日こそはと呟きながら、阿片を吸い続けて来た。
そして、67年が過ぎた。
日々の慰安と快楽が、阿片患者の決意を腐敗させた。
彼等は、阿片患者の哀しみや恥かしさすらも忘れ、
人が人である為、何が必要かも忘れた。
破滅へ向っていることすら忘れた。
彼等は、もはや、阿片患者であることすら、忘れて果てた。
毎日、同じ決意と希望の表明が、
阿片患者の口から繰り返された。
語られた決意は、黒い唾液となり、
語られるみみっちい希望は、腐敗臭の口臭となり、
日本中にばら撒かれた。
彼等は、今日も、腐臭ぷんぷんの希望と決意の寝言を吐きながら、
温室の夢を見続けている。
そして、67年が過ぎた。
しかし、阿片のまどろみの中にいる彼等は気づかない。
ときどき、彼らの罪の意識が、深層から表面に浮かびあがり、
彼等の夢を不安と恐怖の悪夢に変える。
死にそこないのバンパイアのように、
彼等は、弱々しい悲鳴と金切り声を上げ、
黒色の冷や汗を全身から噴出させ、
助けてくれと叫び続ける。
昔、仲間だった阿片中毒者たちよ、
温かで甘い腐敗が進み、君たちの身体を静かに溶解させていく。
もう、眠っていいのだよ。
君たちは眠るべきだ、永遠に眠りへ。
昨日、私たちは戦後日本を安らかに眠らせたいと思った。
戦後日本に美しい死を与えようと思った。
断末魔の戦後日本に、せめて美しいとどめを刺したいと願った。
私たちの目から、温かな液体が溢れ、頬を流れ落ちた。
鏡を見た時、
黒色の涙だとわかった。
それは白いシャツの胸に、黒い滲みとなって拡がっていた。
黒死病告知のように、私たちは彼らに、または私に、
これが夢か幻なのかを問い続ける。
葬列は彼らなのか、私たちなのか。
(出典: 言志 Vol.1-日本を主語とした電子マガジン-巻頭言)
水島総は、日本を主語にしてこなかった戦後日本は、「阿片患者のよう」であり「腐臭にまみれ」ているので、葬りさるべきだと言って戦後日本を全否定するのですが、一体、彼は、「日本語には主語がない」という三上章の学説や、日本語や日本の文化や社会の本来の特質が「述語優勢」的なものであることを知らないのでしょうか。
戦後の日本が、「日本を主語にしていない」としたら、それは、明治維新から終戦まで、「主語優勢」的な欧米の立ち居ふるまいを日本が四苦八苦しながらまねるのをやめて、もともとの「述語優勢」的な国のあり方に復帰したからにほかならないのですが、「述語優勢」的な日本の本来のあり方は「腐臭にまみれた」ものなのでしょうか。
日本は再び、自分たちの本来のありかたをねじまげて、欧米のような「主語優勢」的な国家のあり方をまねなければ、「阿片患者」の烙印を押されてしまうのでしょうか。
そんなはずがあるわけがありません。
確かに、現在の日本も採用している近代的な国家の仕組みや、現代の国際社会は、欧米のような「主語優勢」的な文化の中で考案されたものなので、私たちは「主語優勢」的に振る舞うことを求められます。
しかし、ここで、私たちたち日本人の本来のあり方が「述語優勢」的なものであることを忘れてしまうと、水島総のように、日本の国柄を根底から否定するようなことを口にしながら、「私たちは真の保守だ」と平気で名乗るような、あまりに恥ずかしい愚鈍な過ちを犯すようになります。
本来は「述語優勢」的な国である日本が、その伝統的なあり方を保ちながら、現代の国際社会の中で「主語優勢」的に振る舞うとはどういうことなのか。一見、矛盾しているように見えるこの二つのことを、破綻なく実行することは、どのようにすれば可能なのか。
万葉集に示されている、「言霊」と「言挙げ」の関係を考察することによって、「述語優勢」的な文化と「主語優勢」的な文化の関わり方、「非政治」と「政治」の関係について、私たちは何かの気づきを与えられるはずです。
こういう根本の問題に踏み込んで、日本らしい「保守」の思想を立ち上げようとする人は誰もいません。
エドモンド・バークのような、イギリスという、日本とは真逆の「主語優勢」的な文化の中に生まれた政治学者の保守思想をそのまま日本に持ち込もうとしたり、それ自身が大きな歪みであった明治体制を賞賛すれば「保守」だと勘違いするような無知蒙昧のバカタレどもが跋扈しているのが、日本の保守界隈のお粗末な現状です。
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