なぜ、「○○よ」と呼びかけるのか(11)
「関係の言語」と「題・述構造」(4)
1. 日本語は主語を持たない「主題優勢言語」である。
2.「主題優勢言語」とは、「述語優勢言語」のことである。
3.「述語」は、個物を包摂する働きをもつ。
4. 日本語が「述語優勢言語」であることは、日本語が、個物を包摂する「一般者」を根底にもつ言語であることを意味する。
これまで、大変駆け足ではありますが、以上の点を一つ一つ確認してきました。
今回の記事では、上の第四の項目に着目し、これを「ことだま」という概念との関係で論じてみたいと思います。
これまで、日本語は主語のない「述語優勢言語」だと述べてきましたが、これをさらに踏み込んで言えば、日本語は「述語だけでできている言語」と言ってもよいと思います。
日本語の文の中にちりばめられているさまざな名辞は、さまざまな助詞を伴って、一見、主語や目的語のような働きをしているかに見えますが、それらの分節は、真の主語や目的語として対象化され、述語から独立したものとして分離されることのないまま、述語の中に埋め込まれています。
述語の根底にある「一般者」と、「一般者」が包摂する個物が、二つに分離せずに一体化しているのが日本語の文です。
つまり日本語の文とは、長大な一つの述語です。
特に「長大な述語」である日本語の特質が現れているのが和歌です。
歌詠みの技術とは、「いかに巧みに述語を編むか」の技術です。
有名な百人一首の歌を引用してみましょう。
和歌のどの分節を取り上げても、一つの長い述語の一部をなしており、述語から分離された分節が存在しないことがおわかりになると思います。
和歌は述語の芸術であり、一つの述語です。
和歌や日本語の文が、主語を立てない「述語」であることと、「ことだま」という古来からの概念は、なにがしかの関係があると思います。
西田幾多郎が明らかにしたように、「述語」の根底には、「ものごとを包摂する働き」が存在します。
「ことだま」とは、述語、つまりは日本語の根底にある、「ものごとを包摂する働き」のことに違いありません。
述語の根底にある「ものごとを包摂する働き」を呼び覚ますために、述語の詩である和歌が詠まれます。
だから和歌は「述語」だけで出来ています。
次に引用する万葉集の長歌は、「述語」そのものである日本語のもつ包摂作用を、雪や富士に喩えて、そのまま歌にしているかのようです。
上の長歌は、太陽も、月も、雲も、さらには、包摂者として描かれる雪や富士の山そのものすらをも含めて、あらにる名辞を、一つの「述語」=歌の中に包摂しています。
このように、和歌のみならず、「述語」だけで文を紡ごうとする日本語は、その根底に、全てのものごとを包摂する「一般者」を抱え持っています。
そして、日本語の根底にある「一般者」の働き(包摂作用)を予感して、古来の日本人は日本語の中に「ことだま」を感じ取ったに違いありません。
(次回は、「ことだま」の反対概念である「ことあげ」について簡単に論じます。このブログで頻繁に使う「非政治」という概念や「ことだま」が「述語優勢」的な日本の伝統と関係すること、一方「政治」や「ことあげ」が「主語優勢」的なものであることを説明し、なぜ日本で政治運動がなかなか定着しないかについても論じてみたいと思います。「主語優勢」的な「ことあげ」の一形式である近代憲法の問題についても論じられたらと思います。)
2.「主題優勢言語」とは、「述語優勢言語」のことである。
3.「述語」は、個物を包摂する働きをもつ。
4. 日本語が「述語優勢言語」であることは、日本語が、個物を包摂する「一般者」を根底にもつ言語であることを意味する。
これまで、大変駆け足ではありますが、以上の点を一つ一つ確認してきました。
今回の記事では、上の第四の項目に着目し、これを「ことだま」という概念との関係で論じてみたいと思います。
これまで、日本語は主語のない「述語優勢言語」だと述べてきましたが、これをさらに踏み込んで言えば、日本語は「述語だけでできている言語」と言ってもよいと思います。
日本語の文の中にちりばめられているさまざな名辞は、さまざまな助詞を伴って、一見、主語や目的語のような働きをしているかに見えますが、それらの分節は、真の主語や目的語として対象化され、述語から独立したものとして分離されることのないまま、述語の中に埋め込まれています。
述語の根底にある「一般者」と、「一般者」が包摂する個物が、二つに分離せずに一体化しているのが日本語の文です。
つまり日本語の文とは、長大な一つの述語です。
特に「長大な述語」である日本語の特質が現れているのが和歌です。
歌詠みの技術とは、「いかに巧みに述語を編むか」の技術です。
有名な百人一首の歌を引用してみましょう。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
(『拾遺和歌集』恋3・773、柿本人麻呂)
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
『古今和歌集』春・113,、小野小町
和歌のどの分節を取り上げても、一つの長い述語の一部をなしており、述語から分離された分節が存在しないことがおわかりになると思います。
和歌は述語の芸術であり、一つの述語です。
和歌や日本語の文が、主語を立てない「述語」であることと、「ことだま」という古来からの概念は、なにがしかの関係があると思います。
西田幾多郎が明らかにしたように、「述語」の根底には、「ものごとを包摂する働き」が存在します。
「ことだま」とは、述語、つまりは日本語の根底にある、「ものごとを包摂する働き」のことに違いありません。
述語の根底にある「ものごとを包摂する働き」を呼び覚ますために、述語の詩である和歌が詠まれます。
だから和歌は「述語」だけで出来ています。
次に引用する万葉集の長歌は、「述語」そのものである日本語のもつ包摂作用を、雪や富士に喩えて、そのまま歌にしているかのようです。
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
私訳「天と地が二つの分離した古く根源的な時代にまで遡る、崇高な富士の山は、太陽の光も、月の光も、白雲も、包み隠してしまう(包摂してしまう)ように、いつも雪が降りしきる。その壮大な富士の山を、言葉に語り継ぎ、言い継いでいこう。」
(出典: 『万葉集』巻3, 317 雑歌, 山部赤人)
上の長歌は、太陽も、月も、雲も、さらには、包摂者として描かれる雪や富士の山そのものすらをも含めて、あらにる名辞を、一つの「述語」=歌の中に包摂しています。
このように、和歌のみならず、「述語」だけで文を紡ごうとする日本語は、その根底に、全てのものごとを包摂する「一般者」を抱え持っています。
そして、日本語の根底にある「一般者」の働き(包摂作用)を予感して、古来の日本人は日本語の中に「ことだま」を感じ取ったに違いありません。
(次回は、「ことだま」の反対概念である「ことあげ」について簡単に論じます。このブログで頻繁に使う「非政治」という概念や「ことだま」が「述語優勢」的な日本の伝統と関係すること、一方「政治」や「ことあげ」が「主語優勢」的なものであることを説明し、なぜ日本で政治運動がなかなか定着しないかについても論じてみたいと思います。「主語優勢」的な「ことあげ」の一形式である近代憲法の問題についても論じられたらと思います。)
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