なぜ、「○○よ」と呼びかけるのか(10)
「関係の言語」と「題・述構造」(3)
「日本語には主語がない」と唱え、「主題優勢言語(Topic-prominent language)」としての日本語の特質を明らかにした市井の言語学者三上章(1903-1971)の文法論と、明治体制下の日本を生き抜いた哲学者西田幾多郎(1870-1945)が唱えた「場所の論理」は、「述語優勢的」(Predicate-prominent)な点で酷似しています。
この両者の考え方がどのように似ているのか、簡単に見ていきましょう。
西田幾多郎が壮年期以降に体系化した「場所の論理」を、簡単に噛み砕くと次の様に説明することができます。
「私は日本人である。」
このように、「主語」と「名詞述語」の組み合わせによって作られる論理命題は、「私」という個物が、「日本人」という一般的なカテゴリーに包摂されている関係を表現しています。
同じように、今度は「日本人」というカテゴリーを主語にして、
「日本人は人間である」
という文を作ると、この文は、「日本人」という主語が、「人間」というより普遍的なカテゴリーに包摂されている関係を表現しています。

このように述語というものは、「一般者」が「個物」(主語)を包摂する関係を表現しているのですが、西田幾多郎はこの「一般者」を「場所」と呼びました。
そして、この包摂の働き(述語面)どこまでも掘り下げて、述語を「一般者」の方向に遡っていくと、最後には、これ以上は他の何かによって包摂されることのない(つまり述語にはなれても主語にはなりえない)窮極の「一般者」に行き当たります。
西田幾多郎は、この「最後の一般者」を「絶対無」と呼び、個物は、それがおかれている場所と無関係に単独で存在しているのではなく、一般者(場所)が自己を限定する働きによって個物が生じると説明しました。
だから、西田幾多郎の思想は、個物の存在から出発する「主語優勢的」(Subject-prominent)なアリストテレスのような哲学とは対照的に、すべてを包摂する窮極の述語である「絶対無」から出発する「述語優勢的」(Predicate-prominent)な哲学だと見なすことができるのです。
西田幾多郎の時代には、「日本語には主語は存在しない」という三上章の文法論はまだ存在していませんが、西田幾多郎が、三上章の学説を先取りするような「述語優勢的」(Predicate-prominent)な考え方を展開していることがおわかりになると思います。
この理由としては、既に述べたように、三上章が西田幾多郎の哲学の影響を若い時代に受けていた可能性も考えられるのですが、それ以上に、日本語が事実として「述語優勢的」な言語であるが故に、物事を深く徹底して考え抜いたこの二人の碩学を、同じ立場へと導いていったことも、理由の一つとして考えられると思います。
とすると、日本語が、三上章が明らかにしたように「主題優勢的」な言語であり、「主題優勢的」とは「述語優勢的」な言語のことに他ならないとすると、「述語優勢的」な日本語とは、つまり、物事を「包摂する言語」であり、あらためて「関係の言語」であるということになると思います。
「述語優勢的言語」=「包摂の言語」=「関係の言語」とあらためて捉えなおしたうえで、日本語がもつ包摂の働きを、次回、「ことだま」という側面から掘り下げていきます。
この両者の考え方がどのように似ているのか、簡単に見ていきましょう。
西田幾多郎が壮年期以降に体系化した「場所の論理」を、簡単に噛み砕くと次の様に説明することができます。
「私は日本人である。」
このように、「主語」と「名詞述語」の組み合わせによって作られる論理命題は、「私」という個物が、「日本人」という一般的なカテゴリーに包摂されている関係を表現しています。
同じように、今度は「日本人」というカテゴリーを主語にして、
「日本人は人間である」
という文を作ると、この文は、「日本人」という主語が、「人間」というより普遍的なカテゴリーに包摂されている関係を表現しています。

このように述語というものは、「一般者」が「個物」(主語)を包摂する関係を表現しているのですが、西田幾多郎はこの「一般者」を「場所」と呼びました。
そして、この包摂の働き(述語面)どこまでも掘り下げて、述語を「一般者」の方向に遡っていくと、最後には、これ以上は他の何かによって包摂されることのない(つまり述語にはなれても主語にはなりえない)窮極の「一般者」に行き当たります。
西田幾多郎は、この「最後の一般者」を「絶対無」と呼び、個物は、それがおかれている場所と無関係に単独で存在しているのではなく、一般者(場所)が自己を限定する働きによって個物が生じると説明しました。
だから、西田幾多郎の思想は、個物の存在から出発する「主語優勢的」(Subject-prominent)なアリストテレスのような哲学とは対照的に、すべてを包摂する窮極の述語である「絶対無」から出発する「述語優勢的」(Predicate-prominent)な哲学だと見なすことができるのです。
西田幾多郎の時代には、「日本語には主語は存在しない」という三上章の文法論はまだ存在していませんが、西田幾多郎が、三上章の学説を先取りするような「述語優勢的」(Predicate-prominent)な考え方を展開していることがおわかりになると思います。
この理由としては、既に述べたように、三上章が西田幾多郎の哲学の影響を若い時代に受けていた可能性も考えられるのですが、それ以上に、日本語が事実として「述語優勢的」な言語であるが故に、物事を深く徹底して考え抜いたこの二人の碩学を、同じ立場へと導いていったことも、理由の一つとして考えられると思います。
とすると、日本語が、三上章が明らかにしたように「主題優勢的」な言語であり、「主題優勢的」とは「述語優勢的」な言語のことに他ならないとすると、「述語優勢的」な日本語とは、つまり、物事を「包摂する言語」であり、あらためて「関係の言語」であるということになると思います。
「述語優勢的言語」=「包摂の言語」=「関係の言語」とあらためて捉えなおしたうえで、日本語がもつ包摂の働きを、次回、「ことだま」という側面から掘り下げていきます。
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