ユダヤ陰謀論はなぜ「悪」か(5)
パレスチナの宗教的多様性。
さて、イスラエルの建国というと、次の様に説明されがちです。
「かつてパレスチナ(「カナンの地」)に、イスラエル王国やユダ王国というユダヤ人の王国が存在した。聖書の言い伝えによれば、エジプトで奴隷とされていたユダヤ人がモーセに導かれて建てた国である。
その後パレスチナの地は、新バビロニア、アレクサンドロスの帝国、プトレマイオス朝、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、セルジューク朝、マムルーク朝、オスマントルコ帝国、など様々な帝国の支配下におかれ、ユダヤ人の王国は解体され、ユダヤ人たちは世界に離散していった。
ところが19世紀になってシオニズム(イスラエル再建運動)が勃興すると世界のユダヤ人がパレスチナに結集して、その地に定着していたアラブ人から土地を奪い、イスラエルを建国してしまった。」
上の説明は、一見もっともらしく聞こえますが、実はまったく正確ではありません。
というのは、ユダヤ人の王国が解体されてしまった後も、パレスチナからユダヤ人が全くいなくなってしまったわけではなく、イスラエルが建国される以前、1299年から1922年まで約600年間続いたオスマン帝国の時代に、「すでに」というべきか「まだ」というべきか、ユダヤ人の自治的な共同体がパレスチナの地に存在していたからです。
私たちは、イスラエル建国というと、イスラム教を信奉するアラブ人一色となっていたパレスチナの地に、ユダヤ人たちが外部から割り込んでいって強引に国を作ったような印象を持ちますが、そうではなく、イスラエルが建国される直前のパレスチナの地は、宗教のるつぼとでもいうべき様相を示しており、イスラム教に限らず、実に多種多様な宗教的背景をもつ共同体が存在していました。
そのことをわかりやすく見ていただくために、わたしがしばしば訪れるレバノンの宗教分布図をお見せしたいと思います。
レバノンはイスラエルの北部に位置し、パレスチナの一画を占める国です。

北部のトリポリにはスンニ派のイスラム教徒が、南部のシドン・ティルス周辺やベカー高原にはシーア派のイスラム教徒が、山岳レバノンと呼ばれる中央部にはキリスト教徒たちが暮らしています。
キリスト教といっても一様ではなく、マロン派と呼ばれるレバノンに固有のキリストの一派に属する人々もいれば、これもレバノンに固有のメルカイト派というギリシア正教とローマカトリックを折衷した独特の宗派に属する人々もいます。


(レバノンのハリッサにあるメルカイト派の教会、2012年ローマ教皇が訪れてここでミサを執り行った。)
なぜパレスチナが多種多様な宗教的背景をもつ人々で構成されているのか。
それは、オスマン帝国が「ミレット制」と呼ばれる宗教寛容政策を採用していたからです。
「ミレット制」とは、オスマン帝国が、領内のイスラム教以外の宗教を信奉する民族に、信仰の自由と自治権を認めた制度です。
これにより、パレスチナの地には、様々な宗教共同体が存在していました。
オスマン帝国の時代から何世紀にもわたってエルサレム周辺に存在していたユダヤ人の自治共同体もその中の一つです。
イスラエルの建国とは、もともとパレスチナに存在していたユダヤ人の自治共同体を基盤に、それを拡大する形で作られたものであり、決して何もない場所に外部からやってきて、ゼロから国を作ったということではありません。
オスマン帝国時代のパレスチナでのユダヤ人共同体の様子をまとめた、ある出版社の記事を紹介します。
オスマン帝国は1922年に崩壊しました。
オスマン帝国崩壊後に、旧帝国領内の諸民族をどうするのかが問題として浮上しました。
同じ文化的・宗教的背景をもつ人々が、自分たちの独立した国家をもちたいと願ったことは当然の流れであり、ヨルダンや、シリアや、レバノンというイスラエルの周辺国家が建設されていきました。そのような潮流の中で、数世紀も前からエルサレム周辺で自治的な共同体を形成してきたユダヤ人たちが、自分たちの国家を持ちたいと願ったとしても、それは当然のことではなかったでしょうか。
インド人も独立した、アフリカの人々も独立した、東南アジアの人々も独立した。旧オスマン帝国に属していた中東の人々も独立した。
その中で、なぜユダヤ人たちが、他の民族と同じように自分たちの国家を持ったら、まるで悪魔のように言われなければならないのか。
自分たち日本人の愛国心を賞賛ながら、なぜユダヤ人の愛国心を認めないのか。
私にはさっぱり理解できません。
国家の存在そのものを悪とみなす極端な左翼やグローバリストならともかく、国家の存在を是とする右派の日本人が、ユダヤ人が自らの国家を持つことを批判するというのは自己矛盾も甚だしいと言わざるを得ません。
次回は、イスラエルとパレスチナ人との軋轢から、「国家」が一般的にはらむ問題を考えていきます。
「かつてパレスチナ(「カナンの地」)に、イスラエル王国やユダ王国というユダヤ人の王国が存在した。聖書の言い伝えによれば、エジプトで奴隷とされていたユダヤ人がモーセに導かれて建てた国である。
その後パレスチナの地は、新バビロニア、アレクサンドロスの帝国、プトレマイオス朝、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、セルジューク朝、マムルーク朝、オスマントルコ帝国、など様々な帝国の支配下におかれ、ユダヤ人の王国は解体され、ユダヤ人たちは世界に離散していった。
ところが19世紀になってシオニズム(イスラエル再建運動)が勃興すると世界のユダヤ人がパレスチナに結集して、その地に定着していたアラブ人から土地を奪い、イスラエルを建国してしまった。」
上の説明は、一見もっともらしく聞こえますが、実はまったく正確ではありません。
というのは、ユダヤ人の王国が解体されてしまった後も、パレスチナからユダヤ人が全くいなくなってしまったわけではなく、イスラエルが建国される以前、1299年から1922年まで約600年間続いたオスマン帝国の時代に、「すでに」というべきか「まだ」というべきか、ユダヤ人の自治的な共同体がパレスチナの地に存在していたからです。
私たちは、イスラエル建国というと、イスラム教を信奉するアラブ人一色となっていたパレスチナの地に、ユダヤ人たちが外部から割り込んでいって強引に国を作ったような印象を持ちますが、そうではなく、イスラエルが建国される直前のパレスチナの地は、宗教のるつぼとでもいうべき様相を示しており、イスラム教に限らず、実に多種多様な宗教的背景をもつ共同体が存在していました。
そのことをわかりやすく見ていただくために、わたしがしばしば訪れるレバノンの宗教分布図をお見せしたいと思います。
レバノンはイスラエルの北部に位置し、パレスチナの一画を占める国です。

北部のトリポリにはスンニ派のイスラム教徒が、南部のシドン・ティルス周辺やベカー高原にはシーア派のイスラム教徒が、山岳レバノンと呼ばれる中央部にはキリスト教徒たちが暮らしています。
キリスト教といっても一様ではなく、マロン派と呼ばれるレバノンに固有のキリストの一派に属する人々もいれば、これもレバノンに固有のメルカイト派というギリシア正教とローマカトリックを折衷した独特の宗派に属する人々もいます。


(レバノンのハリッサにあるメルカイト派の教会、2012年ローマ教皇が訪れてここでミサを執り行った。)
なぜパレスチナが多種多様な宗教的背景をもつ人々で構成されているのか。
それは、オスマン帝国が「ミレット制」と呼ばれる宗教寛容政策を採用していたからです。
「ミレット制」とは、オスマン帝国が、領内のイスラム教以外の宗教を信奉する民族に、信仰の自由と自治権を認めた制度です。
これにより、パレスチナの地には、様々な宗教共同体が存在していました。
オスマン帝国の時代から何世紀にもわたってエルサレム周辺に存在していたユダヤ人の自治共同体もその中の一つです。
イスラエルの建国とは、もともとパレスチナに存在していたユダヤ人の自治共同体を基盤に、それを拡大する形で作られたものであり、決して何もない場所に外部からやってきて、ゼロから国を作ったということではありません。
オスマン帝国時代のパレスチナでのユダヤ人共同体の様子をまとめた、ある出版社の記事を紹介します。
オスマントルコ帝国時代
イスラエルの地は、16世紀から400間オスマントルコの支配下に入り、コンスタンチノープルから統治されました。帝国内は4つの地区に分けられ、イスラエルの地は行政上はダマスカス州の所属となりました。
オスマントルコ時代の初め、この地にはエルサレム、ナブルス、ヘブロン、ガザ、そしてガリラヤ地方の村落を中心に、ユダヤ人が1000家族ほど居住していたと推定されます。そのユダヤ人社会は、この地に先祖代々住んできた者、北アフリカ及びヨーロッパからの移民で構成されていました。
オスマン帝国の最盛期を打ち立てたのがスレイマン壮麗王ですが、彼の死(1566年)まで秩序ある統治が続き、そのおかげでユダヤ人社会の環境は改善され、ユダヤ人の移住を促しました。新しい移民はエルサレムに居住する者もいましたが、大多数はイスラエル北部のツファットに定着しました。ここの人口は次第に増えて1万人ほどに達しました。ツファットは織物業の中心として栄えただけでなく、学問そしてユダヤ教神秘主嚢(カバラ)の一大中心として発展しました。
「シュルハン・アルーフ」(ヨセフ・カロのユダヤ教法典、1564-65年)に集大成されたように、ユダヤ数の律法研究が進んで、ツファットの学者たちが生みだす研究成果は、広く海外のユダヤ人社会に伝えられ、影響を及ぼしました。
トルコの統治は次第に乱れを生じ、それに伴ってイスラエルの地は放置され、廃虚の様相を強めてきました。18世紀末までに、土地の多くは不在地主の所有するところとなり、小作の貧農に賃し与えられていました。住民は高い課税に苦しみました。ガリラヤ地方やカルメル山の森は丸裸となり、農耕地は湿地あるいは砂漠化していきました。
19世紀になると、中世時代の後進性は少しずつ姿を消し、ヨーロッパ文明が浸透してきました。ヨーロッパ列強は競ってこの地域に進出し、有利な地位を占めようとしました。それはキリスト教の宣教活動を通した進出である場合が、しばしぱでした。
英米仏の学者が聖地地理と考古学の調査研究を開始し、エルサレムにはイギリス、フランス、ロシア、オーストリア及びアメリカが領事館を開設しました。やがて聖地とヨーロッパの間には定期船が就航しました。さらに郵便、電信サービスも始まりました。エルサレムとヤッフォを結ぶ幹線道路が初めてできたのもこの頃です。スエズ運河の開通によって、三大陸の十字路としての伝統もよみがえってきました。
このようにして、ユダヤ人社会の環境は少しずつ改善され、人口もかなり増えました。19世紀中頃になると、城壁で囲まれたエルサレムは過密状態となり、1860年からユダヤ人社会は城壁の外に新市街の建設に乗り出しました。それから25年の間に新たに7地区が建設され、新市が形成されました。
1880年までに、エルサレムのユダヤ人口は、いくつかの民族共同体のうちで最大となりました。各地で農業用にこの土地の取得が行なわれ、開拓村が次々と建設されました。これまで長い間祈りと宗教文学に限定されていたヘプライ語も、エリエゼル・ペン・イェフダーらの努力により、日常語として復活しました。こうして、シオニズム運動の展開基盤が整備されてきたのです。
(出典: 出版社ミルトス: イスラエルの歴史)
オスマン帝国は1922年に崩壊しました。
オスマン帝国崩壊後に、旧帝国領内の諸民族をどうするのかが問題として浮上しました。
同じ文化的・宗教的背景をもつ人々が、自分たちの独立した国家をもちたいと願ったことは当然の流れであり、ヨルダンや、シリアや、レバノンというイスラエルの周辺国家が建設されていきました。そのような潮流の中で、数世紀も前からエルサレム周辺で自治的な共同体を形成してきたユダヤ人たちが、自分たちの国家を持ちたいと願ったとしても、それは当然のことではなかったでしょうか。
インド人も独立した、アフリカの人々も独立した、東南アジアの人々も独立した。旧オスマン帝国に属していた中東の人々も独立した。
その中で、なぜユダヤ人たちが、他の民族と同じように自分たちの国家を持ったら、まるで悪魔のように言われなければならないのか。
自分たち日本人の愛国心を賞賛ながら、なぜユダヤ人の愛国心を認めないのか。
私にはさっぱり理解できません。
国家の存在そのものを悪とみなす極端な左翼やグローバリストならともかく、国家の存在を是とする右派の日本人が、ユダヤ人が自らの国家を持つことを批判するというのは自己矛盾も甚だしいと言わざるを得ません。
次回は、イスラエルとパレスチナ人との軋轢から、「国家」が一般的にはらむ問題を考えていきます。
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